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今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その107】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「女の服装 帶と帶止」です。「圖は胸高にしめるのと、腹へ落してしめるのとの比率であるが、その年齡關係は、上中下の三種は夫々、二十代、三十代、及五十代が代表してゐる。かくあきらかであるところから、それは帶のしめ方は生理的關係から出發してゐるといふ説が成立するともみられる。即ち相當な年齡になると腹部が出張つて來るので、高く帶をしめたのでは裾の方が開いて仕方がない。これに反して娘時代は、腹部も腰もまだふくらんでゐないから、むしろ衿元をしめた方が美しい構成比になるからだとの理由である。で、この理由を生かすと、流行の年次的保持力からだとは考へられなくなるのである。」
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今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その106】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「女の服装 帶と帶止」です。「圖でみるやうに、半幅帶を帶上をやらずに小さな「や」の字に結んだのが總計の上で一番多くて四〇パーセントである。次は昔からのお太鼓で二一パーセント、最末端に描いただらしなき結び方は一三パーセント(これは八百屋、魚屋、人夫等)である。そして何れも、お尻をかくすやうにしないで、むしろそれを露はにしてゐる。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その105】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「女の服装 衿」です。「衿の合せ方を廣くするのは十代二十代の若い方に比較的多く出てゐるが、きちんとしめる方が若い女性に一層一般的で、廣く合せたのはカフエの女給等の如きに多かつたのである。しかしこの型は二つ共青年の型だか、三十代四十代の婦人になると、エモンにしてゐるか、だらしなくしてゐるかである。圖表の末尾の肌ぬぎは、四五十代の人であるが、勞働者級で、着物はぬいでも肌襦袢かシヤツを着て居るのである。」「右圖は半衿の地質と色合である。このしらべをやつた日は非常に暑かつたので、襦袢を着てをらぬ人が七〇パーセントであつた。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その104】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「女の服装 着物と羽織」です。「羽織は、着物のしらべと同時で即ち四百人中に十一人である。そして羽織を着てゐるのは多く老人なので派手な色合が見られない。これは八月中旬の状態なのだが、八月の終わりになると、夜分は冷々するから、ゆかたの上に袷羽織を着るやうになるのが北海道の状態である。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その103】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「女の服装 着物と羽織」です。「地質では木綿が最高で、第三番に「ゆかた」とあるのと全部木綿だから四六パーセントまで木綿しかも平織木綿である。メリンスの二五パーセントは北海道の夏でなければ見られない現象であらう。中には極く小數だがセルやネル着用者も數へられた。大体に於て東京と比すると極めて質實なるが地質の統計で著しい。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その102】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「男の服装 携帶品」です。「持物として最上級を占めてゐる風呂敷そのもののしらべを圖に掲げた。これは後に出る婦人持のものと殆ど變りが見出せない。扇子もカバンも夫々男女別になつてゐるのに對して、風呂敷は餘りに普遍的なる爲かそれは中性的であるもののやうだ。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その101】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「男の服装 携帶品」です。「街を歩くのに空ら手が三六パーセントとは、さすがに地方都市である。東京の外出者は所謂懐ろ手なる者の數が減つて、必ず何かしら持つてゐるのが通則なのであるが。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その100】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「男の服装 雨具」です。「足駄の爪革と鼻緒の色とをしらべてみたのが、第四七圖である。記入しなかつたが䑓は總て白木である。爪革の部に「毛の付イタモノ」とあるのは、北國特有のもので東京邊には見られない。つまり爪革の足にさわる縁を兎の毛や人絹の片で覆ひ、冬の下駄や足駄に用ひるものなのであるが、その名殘りが夏のしらべに出たのである。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その99】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「男の服装 雨具」です。「雨天の際の下駄の變化は上圖である。これに註釋を加へておきたいのは、この夏は例年にない日照りつゞきで、雨降の日は八月中でこれをしらべた三十一日よりほかなかつたと云ふ事である。從つて幾分まちまちに履物の樣相が現はれたきらいがある。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その98】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「男の服装 雨具」です。「次ぎに同時刻における雨傘の統計を見やう。これは總計三百人から得たものである。約八〇パーセントは日本傘で、二〇パーセントは洋傘だが、しかも日本傘のうち番傘と蛇の目とでは約五對三の比率である。尚番傘のうち商店等の印入りのものは斷然多數である事、または蛇の目の色別で紺が第一である事が見られる。蛇の目の色彩に就いては婦人のものと比して興味ある對比が得られやう。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その97】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「男の服装 雨具」です。「圖はマントと外套とそして雨合羽である。このマントは子供着用のゴム引きの物が多い、で、色彩に現はれたやうに比較的あざやかな色のものばかりである。それから圖の註釋であるが、「着ない人」四〇人と云ふのは、外套も傘もないでびしよぬれの人々の事である。當日は早朝から降り出したのでなかつたから、勞働者などは、これに屬する者が多かつたのである。かゝる偶然がこの圖表の裏にあるのである。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その96】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「男の服装 履物」です。「短靴と半靴との比は約一〇對一、そして黒靴と赤靴との比は約一〇對八である。そして白靴は殆ど黒靴と匹敵する位まで上つてゐる。そして表中のゴム靴は子供の靴を物語るものとして見なけれでならない。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その95】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「男の服装 履物」です。「下駄類では、駒下駄が一番で、日和は次の順であるが、高下駄の相當數出たのは學生がそれを鳴らしながら歩く風習がある事から出た數字である。ゴム底足袋と鞋との比は、二五對四と出たが、今尚かゝる比率關係にあるのは北海道たることを物語るものであらう。大正十五年の甲州の山間地の村に於ける採集では、ゴム足袋と鞋との比は二四對一と出てゐるのに對して、都市の中央に於てかゝる數字は尚來だ内地と比して餘程舊式である事が語られる。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その94】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「男の服装 足袋及靴下」です。「圖表は一般に了解出來にくいかも知れない。これは北海道特有の現象とも云へるやうである。即ち靴下をはいて下駄をはく者、洋服を着て足袋に下駄をはく者、着物でありながら足袋に靴を履く者等々が普通街上に見られるのである。足だけに於ては縦横自在に便宜本位に和洋の折衷をやつてゐるのが多い。で、統計圖表がかくの如く一般常識をはづれてゐる。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その93】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「男の服装 髯」です。「髯の樣式統計は大人のみに限つた。それで、數歩はなれて全然髯の根趾のないのが全大人の六二パーセント、青く見えるのと無精ひげのが二七パーセント、そして意識的に、装飾的に、樣式的に或は慣習的に髯をはやしてゐるのが一一パーセントと計られたのである。」都会と違うのは無精髭が非常に多いのと、八の字など明治時代の流行した髭を生やしている人がまだいること、チョボのような最近の流行髭が少ないことなどを挙げています。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その92】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「男の服装 眼鏡」です。「眼鏡の縁は、大正十四年の銀座では金縁と無縁が最高であるのに、小樽のでは黒色縁とロイドとが最高である。これも中央大都市と地方都市との當然な開きであると推せられやう。地方都市人の中にも勿論十分ハイカラな人が居らぬ事はないのだけれど地方都市人群に於てはである。茲で注意しなければならぬのは、ロイド眼鏡は最近勃興率の高いものであるのだから銀座と四年間の開きの間にかゝる現象になつたのかも知れない。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その91】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「男の服装 頭髪」です。「帽子をかぶられては頭髪状態の調査は出來ない。先づ帽子をかぶつてゐる人とかぶらないで歩いてゐる人との率を出してみると、一五パーセントと八五パーセントの比である。即ち十人のうち一人半は帽子なしである。だから帽子をかぶらぬ人の相當數を採るのに午前午後合計三時間を失てゐる。帽子をかぶつてゐないからとて、地方都市では東京の大通とちがつて無帽主義者であるわけではなく、一寸近所へ出掛けたりする場合が多いからなのである。」当時外出時の男性の着帽はエチケットでした。無帽で一分刈りが最多なのは当時の男子児童生徒は基本丸刈だからです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その90】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「男の服装 帽子」です。「午前は會社員、勤人、或は勞働者が最も多く通る時刻だつたからその傾向が現はれた。午後は學生帽やパナマ帽が、比較的澤山出てゐるが、これは八月と云ふ學校の休みの季節でなかつたら、午前の方にもつと學生帽が、多く現はれたのであらう。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その89】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「男の服装 ズボン」です。「これは町の呉服店で予備知識を得てから項目を立てた。通稱ズンドウと云ふのは上から下まで同じ幅で、此頃ではセーラーよりもハイカラに屬するものだ。このズンドウとセーラーと、普通のズボンを比較すると、ハイカラ型なるズンドウは大した優勢である。そしてセーラーの一六パーセントも地方の町としては大いした優勢であると考へられる。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その88】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「男の服装 ネクタイ」です。「ネクタイに於てもカラーに於けるが如く、普通の型と蝶々とが銀座に於ける場合と大變ちがつた。長いのと蝶々とでは銀座では八九と一一の比率だが、これは蝶々が著しく多い。これも夏なるが故であるのかも知れない。ネクタイの色は、黒が首位で、鼠、白の順位で、色ものは僅少である。柄は無地ものが大部分で、柄物のうちでは碁盤縞と縞とが大部分である。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その87】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「男の服装 カラー」です。「硬いカラーは極く少ない。約一〇パーセントの貧弱さだ。この數字を三年前銀座のしらべに比べるとソフトが著しく多いが、しかし、季節がちがふからはつきりした對比にはならないが初夏の銀座では硬いカラーと柔かいものものとは約半々の比である。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その86】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「男の服装 洋服の衿」です。「圖は左右二つに別けてみると明瞭である。即ち背廣の衿の形には二種あり、エル型とケン型であるが、その割合は二六と八五でケン型の方が斷然優勢に出てゐる。詰衿は、學生や書生のものであるが、そのうち暑いのでボタンを掛けないで歩いてゐるが約四〇パーセントとも見られる。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その85】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「男の服装 前掛」です。「男の前掛には絹物が全然ないから、實用的のものばかりだとみられる。然もどんな荒い摩擦に對しても耐えられるやうな三河木綿が大部分を占めてゐる。この事は一面からは現在前掛をかけてゐる人達は皆勞働的な仕事をする人達ばかりだからとも考へられる。また三河木綿のは、着物の保護或は着物の補助になつてゐると云ふ方面以外に、店の印を染め出して、目印乃至廣告の役もつとめさせられてゐる。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その84】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「男の服装 帶」です。「三尺(兵古帶)と角帶との比は七五と二三であるが、角帶は番頭の如きに限られてゐて、三尺は一般的なものだからである。帶の地質は、角帶に於ては木綿と絹の割は約二と一に當る。しかるに三尺ではこれらに更にメリンスが加わつてゐる。色は、角帶は黒と茶が同數で最優位である。三尺では黒が斷然多く、その他は擧げるに足りない。柄物では角帶は縞、三尺では絞りが多い。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その83】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「男の服装 襦袢」です。アンダーシャツなので襟部部分しか調べられない。和服でもインナーはシャツを着ている人が増えてきていて、襦袢は下着としては衰亡しているとのこと。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その82】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「男の服装 和服と洋服」です。日曜日に統計を取ってしまったため、洋服の比率が著しく低くなってしまったとのこと。日本人は昭和前半までは、和服の方が寛げたので休日は和服姿が増えるのです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その81】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「通行人の身分職業別構成」です。あくまで外見から推測される職業です。「(a)紳士 背廣服を着て所謂シヤンとしてゐて、時にはステツキ又はカバンを持つてゐるやうな人。(b)旦那(商人) 和服で番頭よりもどこか知ら立派にみえてしかも商人臭い人。(c)御用聽き これと丁稚との違ひは、大抵三川木綿の前掛をし、印入りの籠をかついでゐる事から區別した。(d)丁稚 小樽ではアンコと呼ぶ。これは若い點で認定す。(e)書生 學生のやうに詰衿の洋服を着てゐるが、帽子が鳥打なのでわける。(f)おかみさん 奥樣の方が上品でおかみさんは小商賣人の妻らしく品がないのだが、晝の間は奥樣もエプロン姿などで別けるのに困難だから、おかみさんの項目は立てなかった。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その80】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)の中から「通行人の性別構成」、「通行人の年齡別構成」です。性別は男性七割で、夜間の方が女性比率が高い特徴があります。年齢構成は若年層の多さが特徴ですが、当時の人口比率から言ったら順当でしょうか。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その79】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より、「小樽市大通(花園町)服装調査」(大町敏子/名取まつ子調査、今和次郎整理)です。調査の二人は日本女子大學校學生です。調査は昭和3年8月9日〜9月4日、花園町の通りはほとんど商店です。現在の花園銀座でしょうか、地図にある於古發川も入舟川も今は暗渠です。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その78】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「スカートの長さを主題としての服装論」(今和次郎)です。「左方は戰争の影響が衣服に現はれる直前の下着類からの一揃、右方は昨年度の同じく一揃ですが、一見して戰争前のは如何にも枚數が多く、勿論スカートの裾は一パーセント空き位の長さで、靴下まで入れて九枚の合成になつてをります。しかるに最近のものは、靴下まで入れて合計五枚で完成する仕掛けになつてゐます。外見のみならず、その内部までがかく單純化されてゐるのです。」
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