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今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その76】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「風俗採集傍記」(吉田謙吉)です。「圖は神田駿河䑓下で採集した屑屋さんの醉ぱらひと隣接郊外地で採集した老夫婦の醉ぱらひである。屑屋さんの方は、神保町通りをヨタヨタと車を曳きながら「ワガテイコクハ……」とどなつてゐるのを發見、直にその跡をつけて小川町通まで約三十分に亘つて、彼氏の服装一般から醉ぱらひながらの屑拾ひのポーズ、曳いてゐる車に積まれた、籠の中の一覽等々を採集したものゝ一部である。」
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今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その75】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「風俗採集傍記」(吉田謙吉)です。「圖の如き風呂包敷を背負つて雨傘を抱へたセミ・ルンペン氏が、リユツクサツクやアルペンシユトツクを陳べたてた飾窓をのぞきこんでゐる光景も笑へぬ採集スナツプとしてお目にかける。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その74】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「風俗採集傍記」(吉田謙吉)です。「物賣りの態々、行商の彼女氏達の風俗姿態もまたこのシーズンの重要な歌詞であらう。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その73】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「風俗採集傍記」(吉田謙吉)です。省線飯田橋驛に於ける採集「彼氏の背後からと彼女氏の背後からとカツトバツク。彼氏の小脇に挾んだ三冊は、フツトボールの教科書と學校の教科書とノートと各一冊づつ。フツトボールの華手な表紙が外側になつて抱へられてゐる。彼女氏の左の爪先の上下動に注意。其他凡そ彼と彼女に關する限りの風俗スナツプとしてこの圖が少しばかり語るであらう。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その72】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「下町のろじ」(野田利衛採集)です。AB付近には大工が、C付近には左官屋が住んでいるとのこと。下町では道路上を花壇にする風習が昔からあるようです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その71】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「採集雜景」(吉田謙吉)です。続いて第7景「カフエの二階」(報國七生?!?!)。「淺草裏、某インチキカフエの二階、三間續きの襖をはらつた眺め。こゝにもかべのラクガキがある。Loveといふ字を書かうか書くまいかと迷つたやうなものが書きつけられてある。電燈のシエードは三つとも異なつてゐる。もつとも電球のあるのは往來に面した四疊半の間だけ。そこの床の間の装飾に一べつの價値あり、メニユーがたゝんだ茶ブダイの上で置物代りに活躍してゐる態。其他廊下の隅の埃つぽい道具類のいちいち、一應檢せられたし。鏡䑓を斜に眺めて青年團の軍帽一個あり。一寸たまらぬ眺めではある……。」(1630.8.15)「サラリーマン」昭和五年九月號所載
(日付はママ)

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その70】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「採集雜景」(吉田謙吉)です。続いて第6景「○××美容院」(待合室の眺め、置物採集)。「市内○ビルに於ける○××美容院の入口に近い内部の眺め。元來美容院なる處は男人禁制の筈かも知れないが調査綱領に照して許してもらはねばならぬ。平面圖によると、卓上電話、ツイ立、カウンター、ソフアの配置など中々無駄がない。クローズアツプにして別圖でエビ茶のカアテンと柱、タイルの具合など眺められたし。カアテンの裾の短い理由など平面圖によつて御研究を願つておかう。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その69】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「採集雜景」(吉田謙吉)です。続いて第5景「十字架三つ」(異人墓地採集)。「横濱の所謂『異人墓地』そこは十字架其他樣々の墓石の見事な天國展覧會だ。その二つ三つの採集。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その68】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「採集雜景」(吉田謙吉)です。続いて第4景「道路工事工藝」(シユルリアリズムはだしの眺め)。「ガス、水道、地下鐡、しよつちゆう何處かしらほじくり返されてゐる東京、そこではまた從つて何處かしらで道路工事現場に於ける急造の圍ひ、そのギリギリな工藝的興趣(?)にぶつかる事しばしばである。圖も卽ちその眺めの一つで、垂直に立てかけられた板が電燈の立派なスタンドの役をつとめてゐるところ。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その67】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「採集雜景」(吉田謙吉)です。続いて第3景「鐘紡附近の往來」(鼠色の風景斷片)。「A・塀」「鐘紡隅田工場附近、そこは全く銀座のペーヴメントでネオンサインの色ばかり見てゐるモボ蟲モガ蟲には想像出來ぬ鼠色の風景だ!あの無限に續いてるやうなコンクリートの單調な塀はそもそも何の象徴とならう。圖の上圖は川添の工場の方の塀、下圖は反對側の方の塀。」「B・人」「圖はこの附近通行の人の服装の一部女工さんの仕事着、持物などいつか機があつたらゆつくり調査調網を張つて、見たく思つてゐるのである。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その66】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「採集雜景」(吉田謙吉)です。続いて第2景「旅館の食事と寝具」(その待遇しらべの一部)。「伊豆山××旅館に於ける初秋の食事(中食)の詳細と蒲團の片附け具合のスケツチ。これで一泊二圓五十銭、この採集は少々古いが、其後各地各所の旅館の食事の記録が少しつゝ溜つてゐるので、比較して見ると大體圖に於ける食事の待遇は宿泊料に對してよろしい方である。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その65】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「採集雜景」(吉田謙吉)です。まず第1景「樂屋口」(芝居國の一坪、そこには何が散らばつてゐるか)。「市内淺草××劇場の樂屋口を上つた處一坪程の樂屋番サンのたまり、ヰロリを中心としての雜物採集。こゝの樂屋番サンなるオヂサンは性、頗る口やかましくまたキレイ好きでもある。その豫備智識で圖を些細に點檢されたし。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その64】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「小生の机の上」(杉江重誠)です。「化學工業時報」1931(昭和6)年八月二十一日號所載の記事の転載です。杉江さんは日本板硝子工業の研究者でガラスに関する著作が沢山あります。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その63】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「お孃さんの化粧部屋」(黒田信治採集)です。「三重縣某市のブルジヨア(?)の一人のお孃さんのお化粧部屋です。大姿見の蓋ナシの箱の中には、エヽと……なかなか珍品もあるようです。どうぞ、お静に點檢願ひます。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その62】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「犬の破いた障子」(吉田謙吉)です。「生後二ヶ月の仔犬をもらつて來たので、その晩、一ト晩玄關の2疊に放して置いたら、翌朝までに約九時間内に障子を破いてしまつた。こんな具合に。− 」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その61】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「青森の乞食」(今純三)です。1931(昭和6)年4月10日午後3時の青森市の合浦公園で見られた乞食のスケッチです。世界恐慌直後なのでこのような風景は全国どこでも見られました。「(4)は地藏樣を荷ひ出したものであるが、それは常に村から町、町から村へと巡つてゐる形式のものである。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その60】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「省電を通して視たる大東京のプロフィル」(土橋長俊、今和次郎)より「ヴイジネスセンターに集る交通量」です。1929(昭和4)年5月22日の鐵道省調査の解析になります。東京、新宿、上野各駅の乗降者がどこから乗ってきたのか、どこで降りたのかの調査です。上野駅はどちらも東京駅が最多になっているのはわかるのですが、新宿駅はどちらも高田馬場が一番多くなっており、東京駅に至っては新宿駅から乗ってきた人が最多なのはともかく、行先のトップが大井町駅となっており、その日に限って何かイベントでもあったのでしょうか。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その59】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「省電を通して視たる大東京のプロフィル」(土橋長俊、今和次郎)より「ヴイジネスセンターに集る交通量」です。1929(昭和4)年5月22日の鐵道省調査の解析になります。ヴィジネスセンター4駅で降車した人の乗車時間を調べた物です。当時の通勤している人の多くが30分以内の駅に住んでいる事がわかります。「三十分以内の驛とは、中央線に於ては、東中野邊、山手線に於ては代代木邊、東海道邊に於ては川崎邊。池袋、赤羽の兩驛は廿五分以内の距離にあります。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その58】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「省電を通して視たる大東京のプロフィル」(土橋長俊、今和次郎)より「ヴイジネスセンターに集る交通量」です。1929(昭和4)年5月22日の鐵道省調査の解析になります。「ヴィジネスセンターの混雜時における降車人員の増減を時間的に示す圖表であります。」まだ有楽町に地下鉄はなく、新橋の海側は広大な汐留貨物駅なのですが、当時の東京駅の丸の内側が既にビジネス街として整備されていた事がわかります。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その57】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「省電を通して視たる大東京のプロフィル」(土橋長俊、今和次郎)より「各驛の降車人員競べ」です。1929(昭和4)年5月22日の鐵道省調査による省電、すなわち現在のJR東日本近距離電車区間各駅の1日の降車人員の時間別累計です。朝のピークが午前7時半〜8時、夕方のピークが午後5時半〜6時である事がわかります。終電が午前2時近くで始発が午前4時過ぎなので、今よりも運転時間は長いようです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その56】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「省電を通して視たる大東京のプロフィル」(土橋長俊、今和次郎)より「各驛の降車人員競べ」です。1929(昭和4)年5月22日の鐵道省調査による省電、すなわち現在のJR東日本近距離電車区間各駅の1日の降車人員です。北は赤羽、西は國分寺、南は桜木町、東はまだ総武線が両国駅止まりだったので秋葉原となります。新宿駅は既にトップですが、現在の二割ほどです。最下位の武蔵小金井に至っては719人と赤字ローカル線並みです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その55】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「東京某暗黒街分析」(新井泉男)より、玉の井の私娼窟の「おかみ(妾)の居室」です。「吸血鬼的搾取の本尊、おかみの室内は神々との混合世帶の賑やかさである。丁度大きくは資本家・軍閥・坊主の三幅對の自然さで、似合の因果關係を異論なく持つてるのだ。小ぼけな縮圖、こゝにも生きた諷刺畫が存在してる。だが、二階では階下で想像出來ない生活が弱い女達を通して現實にあるのだ。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その54】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「東京某暗黒街分析」(新井泉男)より、玉の井の私娼窟の「便所の隅」です。「圖は結末を示す、女達の防衞用洗滌器具の装置と設備の有樣で、大寫しにして直視を願う採集者の意圖を良解されたい。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その53】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「東京某暗黒街分析」(新井泉男)より、玉の井の私娼窟の内部です。「上は各室を仕切るフスマの孔、破損状態ABCで、遊客の醉態?痴態の限りない暴虐の跡を示す、犯罪科學的なカツトである。下圖はとまり客寝具類の調べ一揃と、枕元におかれた品物類一切である。こゝに暗黒街内部における最後の生活がとどめをさゝれる。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その52】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「東京某暗黒街分析」(新井泉男)より、玉の井の私娼窟の「押入れの中」です。「こゝに彼女等の日常的生活のなまな、たい積が雜然とした姿で、ほをり出されている。圖中・押入の中・下段右隅の古雜誌の種別は、婦人俱樂部一、講談俱樂部一、毎夕重寶一、であり其の間にレターペーパー一帖がはさまれてあつた。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その51】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「東京某暗黒街分析」(新井泉男)より、玉の井の私娼窟の「女の風俗」です。「右はきもの盛装の場合で、白エプロンは、覗前に坐す關係からして、膝ずれの保護からくる經濟的な意味と、カフエー的女給型風俗の表現から來てゐる。」「左はねまき、別に特記すべくもないが、娘を持つ親達、同性である女子に警告的に後姿を採集しておく。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その50】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「東京某暗黒街分析」(新井泉男)より、玉の井の私娼窟の二階にある「室内」です。「こゝに二人の女達が隣あつて客を取り接しつゝ、二年、三年と殆んど無休で僅かな前借金により搾取される。」「資本主義社會の第三期に於て勞働者階級が一機械として過重な搾取を負はされると同樣な暴力が、彼女達の肉體の上にも日常的にあるのだ。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その49】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「東京某暗黒街分析」(新井泉男)より、「此窓を見よ!」です。「しかしこれは諸君、窓ではない。暗黒街特殊の變態的装置、覗(のぞき)と呼ばれる戸障子の一種であり。形式から言へば書院障子に類する小形のそれで、書齋的風流とはダンチな悲慘な女達の職場としての物だ。具體的に言へば、女の顔、特に兩眼を中心にして唇までの表情を、硝子を紙張りしたり、スリ硝子で色々の形の輪廓にしたりして、顔を其中に見せ、覗見的効果で装飾的にした、一種の造作である。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その48】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「東京某暗黒街分析」(新井泉男)より、「女の風俗」です。玉の井の昼間の様子です。(い)髪結がへりの彼女(ろ)買物に行く彼女(は)ラムネの空瓶を返しに行く彼女(に)手紙を出しに行く彼女。「只此等風俗の中から客・小市民階級(學生・サラリーマン)大半の趣味嗜好の表れとしての女給的、女學生的風俗現象のそれを見出す事が出來るだらう。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その47】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「東京某暗黒街分析」(新井泉男)より、「第二圖」です。玉の井の表通りから路地裏にかけてみられる看板の採集です。「豫防藥と衛生サツク。其他、種々の意匠で、或は堂々と函形置看板で道路に、先づ此街に入つて着眼せられる無數な其等、小市民が戰はんが爲めの武装であり、防備である。戰雲を思はせる帝國主義末期の宣傳風景か!あさましき限りだ。」
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