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今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その46】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「東京某暗黒街分析」(新井泉男)より、「私娼街表通の家並商店調査圖」です。某暗黒街と言っておきながら続く看板の図などからここが「玉の井」であることがわかります。売春が地域を限って合法だった時代に、その外側で非合法に営業していた銘酒屋、即ち私娼窟が並んでいた街です。永井荷風の「墨東奇譚」で現在もその雰囲気を知ることができます。
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今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その45】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「文壇諸家の書齋採集」(吉田謙吉)より「吉屋信子氏」です。東京の下落合に建てたバンガロー風の洋館の二階になります。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その44】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「文壇諸家の書齋採集」(吉田謙吉)より「龍膽寺雄氏」です。龍膽寺雄(1901-1992)氏は千葉県佐倉生まれ茨城県下妻育ち、慶応義塾大學醫學部中退後小説家となり、モダニズム文学、新感覚派などの作家として活躍しました。堀の内バス停の近くということなので、現在の杉並区でしょうか。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その43】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「文壇諸家の書齋採集」(吉田謙吉)より「久保田萬太郎氏」です。久保田萬太郎(1889-1963)さんは東京浅草生まれ、慶應義塾大學在学中から作家として注目され。小説家、俳人として活躍して文化勲章も受賞しています。文机は島崎藤村氏が使っていた物とのこと。所在地は日暮里駅の近くで千駄木の家並みを鳥瞰できるところのようです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その42】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「文壇諸家の書齋採集」(吉田謙吉)より「川端康成氏」です。上野櫻木町の文化住宅風二階屋ですがこの3疊の離れはいくつかある書斎の一つのようです。川端氏はまだ30代前半ながら「伊豆の踊子」などですでに人気作家になっています。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その41】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「文壇諸家の書齋採集」(吉田謙吉)より「サトウ・ハチロー」です。上野櫻木町の二階屋にある四畳の寝室兼書斎です。作詞に使うのは床に置いてあるマンドリンだそうです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その40】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「文壇諸家の書齋採集」(吉田謙吉)より「貴司山治氏」です。吉祥寺驛から十分程の文化住宅二階建だそうです。貴司山治(1899-1973)さんは徳島県生まれでプロレタリア文学の作家として有名です。代表作は「ゴー・ストップ」です。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その39】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「文壇諸家の書齋採集」(吉田謙吉)より「大佛次郎氏」です。大佛次郎さんの書斎になります。場所は鎌倉の鶴岡八幡宮参道から見える白亜の日本家屋だそうです。猫グッズのコレクションが特徴的だそうです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その38】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の「文壇諸家の書齋採集」(吉田謙吉)より「新居 格氏」です。新居格(1888-1951)さんは徳島県生まれ、東京帝國大學法科大學を卒業後、新聞記者などを経て作家になりました。モダニズム文学、新感覚派と目されて、「モボ」「モガ」の名付け親とも言われています。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その37】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「新宿夜店一覽表」(岩田義之)です。新宿駅東口駅前より新宿二丁目停留所に至る歩道上に並ぶ298軒の夜店を1931(昭和6)年7月1日に調査したものです。これ以外に近頃流行の長髪の街頭似顔絵画家や女学生風の花売り娘などが夜店の間などに多数存在しているそうです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その36】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「新宿驛構内広告分布圖」(岩田義之採集、吉田謙吉整理)です。1931(昭和6)年7月1日現在の新宿駅構内広告調査です。現在ほど複雑ではない新宿駅です。それでも東口、西口、南口があるのが分かります。まだ省線(JR)以外は小田急線しか乗り入れてなく、京王線は南口外の甲州街道上の路面を走っており、地下鉄の開通は戦後です。東京駅とは違い東口の待合室に広告が一切ありません。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その35】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「東京驛構内広告分布圖」(岩田義之採集、吉田謙吉整理)です。1931(昭和6)年7月11日現在の東京駅構内広告調査です。当時はくだらない事だったかもしれませんが100年近く経った現在では大変貴重な資料です。当時の東京駅は東海道線の始発でしたが、到着ホームと発車ホームに分かれていたようです。改札も北口が降車口、南口が乗車口になっています。八重洲口は簡易的な改札口のようです。山手線と京浜線電車は東京駅を南北に通り抜けている省線ホームとなっています。一番手前は現在も折り返し運転をしている中央線です。待合室が一二等と三等で分かれています。広告は乗車口に集中しており、降車口や八重洲口にはまばらにしかありません。南口通路天井には電気看板やネオンサインが配されていたようです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その34】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「1931年銀座街廣告細見」(吉田謙吉)です。1931(昭和6)年3月25日の銀座の広告調査です。その二、西側の続きということで銀座中央通を新橋側から京橋方面に辿っています。凡例は、S=ショウウヰンドウ、ケ=ショウケース、×=和字、ヘ=英字、N=ネオンサイン、カ=看板、マ=マーク、ソ=装飾塔、タ=立看板、ボ=ぼんぼり、ち=提灯、の=のれん、ツ=突出し看板、P=ポスター、ビ=貼ビラ、あ=あんどん、側=建物ノ側面、ハ=旗、サ=サケ看板、です。京橋側の端にしかビルがありません。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その33】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「1931年銀座街廣告細見」(吉田謙吉)です。1931(昭和6)年3月25日の銀座の広告調査です。その二、西側の続きということで銀座中央通を新橋側から京橋方面に辿っています。凡例は、S=ショウウヰンドウ、ケ=ショウケース、×=和字、ヘ=英字、N=ネオンサイン、カ=看板、マ=マーク、ソ=装飾塔、タ=立看板、ボ=ぼんぼり、ち=提灯、の=のれん、ツ=突出し看板、P=ポスター、ビ=貼ビラ、あ=あんどん、側=建物ノ側面、ハ=旗、サ=サケ看板、です。十字屋楽器店がありますので銀座三丁目〜二丁目辺りになります。十字屋は現在も場所を変えて銀座三丁目にあります。銀座四丁目の服部時計店(現在の銀座和光ビル)が見当たりませんが、竣工は1932(昭和7年)になりますので、前回紹介した図で「板囲ヒ」とある工事現場がその場所のようです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その32】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「1931年銀座街廣告細見」(吉田謙吉)です。1931(昭和6)年3月25日の銀座の広告調査です。その二、西側の続きということで銀座中央通を新橋側から京橋方面に辿っています。凡例は、S=ショウウヰンドウ、ケ=ショウケース、×=和字、ヘ=英字、N=ネオンサイン、カ=看板、マ=マーク、ソ=装飾塔、タ=立看板、ボ=ぼんぼり、ち=提灯、の=のれん、ツ=突出し看板、P=ポスター、ビ=貼ビラ、あ=あんどん、側=建物ノ側面、ハ=旗、サ=サケ看板、です。低層の看板建築が並んでいます。店名のわかるのは戦前に西五丁目にあったオリンピックです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その31】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「1931年銀座街廣告細見」(吉田謙吉)です。1931(昭和6)年3月25日の銀座の広告調査です。その二、西側ということで銀座中央通の反対側を新橋側から京橋方面に辿っています。凡例は、S=ショウウヰンドウ、ケ=ショウケース、×=和字、ヘ=英字、N=ネオンサイン、カ=看板、マ=マーク、ソ=装飾塔、タ=立看板、ボ=ぼんぼり、ち=提灯、の=のれん、ツ=突出し看板、P=ポスター、ビ=貼ビラ、あ=あんどん、側=建物ノ側面、ハ=旗、サ=サケ看板、です。現在も同じ場所に資生堂があります。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その30】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「1931年銀座街廣告細見」(吉田謙吉)の続きです。1931(昭和6)年3月25日の銀座の広告調査です。凡例は、S=ショウウヰンドウ、ケ=ショウケース、×=和字、ヘ=英字、N=ネオンサイン、カ=看板、マ=マーク、ソ=装飾塔、タ=立看板、ボ=ぼんぼり、ち=提灯、の=のれん、ツ=突出し看板、P=ポスター、ビ=貼ビラ、あ=あんどん、側=建物ノ側面、ハ=旗、サ=サケ看板、です。現在はヤマハがある辺りでしょうか。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その29】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「1931年銀座街廣告細見」(吉田謙吉)の続きです。1931(昭和6)年3月25日の銀座の広告調査です。凡例は、S=ショウウヰンドウ、ケ=ショウケース、×=和字、ヘ=英字、N=ネオンサイン、カ=看板、マ=マーク、ソ=装飾塔、タ=立看板、ボ=ぼんぼり、ち=提灯、の=のれん、ツ=突出し看板、P=ポスター、ビ=貼ビラ、あ=あんどん、側=建物ノ側面、ハ=旗、サ=サケ看板、です。三越と松坂屋があるので大体どのあたりか分かります。デパート以外のビルがほとんどなく、木造二階建てのいわゆる看板建築が連なっています。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その28】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「1931年銀座街廣告細見」(吉田謙吉)です。1931(昭和6)年3月25日の銀座の広告調査です。凡例は、S=ショウウヰンドウ、ケ=ショウケース、×=和字、ヘ=英字、N=ネオンサイン、カ=看板、マ=マーク、ソ=装飾塔、タ=立看板、ボ=ぼんぼり、ち=提灯、の=のれん、ツ=突出し看板、P=ポスター、ビ=貼ビラ、あ=あんどん、側=建物ノ側面、ハ=旗、サ=サケ看板、です。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その27】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「温泉宿の一日」(杉江重誠採集、吉田謙吉整寫)です。第III図は地袋を開けてみたところで雑誌は最新だが他は物置のようだと批判しています。第IV図は控の間との境の額や襖、第V図は昼と夜の御馳走の様子です。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その26】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「温泉宿の一日」(杉江重誠採集、吉田謙吉整寫)です。「フォードのがたがたに、定員以上に押しこめられて、手入れの行き届かぬ縣道を思ひ切りゆられながら七尾から二十分間の乘合。−乘合賃十五錢を拂つて入つたのが和倉では一流の某溫泉旅館であります。」石川県和倉温泉の海の見える「先づ氣持の良い室」の様子です。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その25】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「机面の研究」(今和次郎)です。今和次郎さんが講師をしている某女子専門学校の女学生109人からのアンケート結果です。机を六つのエリアに分けてスタンド、花、インキ、ペン、本、用箋、辞書の7つをどこに置くか調べたものです。机に花を飾っていない人は一人だけなど、当時の女学生の美意識が感じられます。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その24】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「レビユウ・ガアル樂屋調べ 採集走り書」(龜山巌)です。「この部屋に整理されたものはない、あらゆるものがたゞ雜然と組み合さつてゐる、が彼女達は書き抜かれたプログラムによつて順調に仕事を進めてゆく。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その23】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「レビユウ・ガアル樂屋調べ 採集走り書」(龜山巌)です。「總括的にみて、どの劇團の樂屋もが均齋された不潔をもつてゐるやうに、この部屋も亂雜さをもつてゐる。こゝには汚れてゐないものはない、舞臺衣裳に靴(穴が澤山あいてゐる)も、隅から隅まで鼠色に侵されてゐる。たゞ壁にもたせたセルロイドの大きなヘヤーピンとか花とか、天井に殘された千社札のごときが、この部屋を装飾する存在である。部屋は2人によつて使用されてはゐるが、原則として3人の使用に充てられてゐる。第一圖の電燈によつてそれが證明される。その場合、不潔と亂雜さはこの上激しくなるであらう。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その22】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「レビユウ・ガアル樂屋調べ 採集走り書」(龜山巌)です。「けふのレビユウ汎濫の現象は、總ゆる形態において抑壓下にあるルンペン大衆の慾望を具体化せる一部のものであると、解釋を下して誤りはなからう。かゝる意味にあつてレビユウ機構の基本をなすレビユウ・ガールをその樂屋の考現學的調査によつて解剖すること、それはやがてレビユウ批判にまで發展すべき資料たり得るであらう。(覺書)名古屋大須七ツ寺歌舞伎座出演(7月12〜19日)のジヤズ・OF・東京舞踏團田村豊子、花岡鈴子兩嬢の部屋(3.5疊)より採集(13日夜8時30分より9時に亘る)」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その21】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の記事「横濱のダンスホール調べ」(林伊佐味)より「カルトンダンスホール」です。現在だとJR関内駅から尾上町通に出る途中(横浜市中区尾上町3-40)にありました。「カルトンダンスホール(1931/9/13晴、日曜日午后10時30分より11時に亘る調査。) 1(横濱ダンスホール)に較べてかなり賑かです。フロワーの廣さは25尺に35尺です。−以上目測。ダンサーは12人(洋服6人・和服6人)客は計30人(婦人客洋服三人−三人共横濱ダンスホールのダンサー−和服一人・男客26人の内學生二人、以上全部洋服)*此處のシートNO(テケツのカセギ高に依ります)は中央がNO.1で次は其の右左右左と云ふ順序になつて居ります。ダンスホールのシートNOは、横濱ダンスホールの形式か或は此の形式の二つに別ける事が出來ます。それからテケツ1枚に對するダンサーの取り前ですが3時から7時迄は1枚に付4錢、7時から11時30分迄は5錢の割です。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その20】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の記事「横濱のダンスホール調べ」(林伊佐味)より「横濱ダンスホール」です。横浜市中区山下町104という中華街から少し元町よりに入った辺りにあったダンスホールです。「横濱ダンスホール(1931/9/13晴、日曜日午后9時より9時半に亘る調査。)圖に見る通り50尺の70尺(以上目測)の横濱最大のフロワーを持つたホールですが最近ダンサーのストライキがあつたとかでダンサーは僅か(ホールの大さに較べて)14人(洋服12人・和服2人)椅子は34脚ありますが、客は計34人(婦人客和服2人・男客32人~其の内外人が2人と支那人が1人−一人の和服を除いては全部洋服です)と言ふカンサンな状態です。テケツ1枚に付ダンサーの手取りは5錢の8錢です。四面に依るホールの上に引かれた曲線は舞踏中の者のシートを示すものです。」

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その19】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「東京各ダンスホールテイケット」(坪田久三郎採集、吉田謙吉整理)です。ダンスホール文化が華やかな頃のチケット一覧です。それぞれ麹町の九段ダンスホール、京橋の國華ダンスホール、赤坂のフロリダダンスホール、銀座のシプレイ銀座ダンスホール、新宿の帝都舞踏場、京橋の日米ダンスホール、日本橋のユニオンダンスホール、日本橋の和泉橋ダンスホールです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その18】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「門の移動的採集」(吉田謙吉)後編です。様々な住家の門を集めたスケッチ集です。(26)は出場はできるけど入場はできない遊園地の出口です。(32)は物干しのように見えますが、洗濯物の下を通らないと玄関に行けないようになっているそうです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その17】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「門の移動的採集」(吉田謙吉)です。様々な住家の門を集めたスケッチ集です。ちなみに(13)は雑誌王國〜會〜社長宅の素晴らしい門のファシスト的眺めだそうです。現在は文京区野間清治記念館になっています。
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