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今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その15】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「衣服ト持物ノ調・冬」(ARAI-SEN)です。「モデル・ガ裸ニナル迄」と称して和服姿の女性の持ち物と衣服を記しています。
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今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その14】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「買物包みとガマグチの持ち方」(吉田謙吉)です。当時は風呂敷包みを持ち歩くことが一般的だったようです。続いて包装紙に包んで紐をかけたものも多かったようです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その13】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「新宿二幸休憩室」(黒田信治)です。1931(昭和6)年7月13日午後1時20分(雨)、新宿驛前二幸デパート五階休憩室の様子です。ここは現在のスタジオアルタです。「廣さは四坪位で採光の點から餘り感じのよくない休憩所、それに食堂の一部を板で仕切つてある關係上喫茶所位には適當かも知れないけれど休憩所としては一寸重くるしい。…その中の隅々を拾ひがきしたのが圖の通り。」タバコの銘柄は立ち去った後吸殻を調べたそうです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その12】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「戀愛考現學」(吉田謙吉)より「ラブレターの藏ひ場所」です。メールも電話もなかった時代は紙の通信しかありません。この筆者の周りの芸術家や文化人は皆様おもてになったようで女性からのラブレターを大量にもらっていたようです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その11】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「戀愛考現學」(吉田謙吉)です。現代生活に於ける戀愛的場面の採集報告という副題がついています。ただこのサンプルの6組の男女が本当に「彼と彼女」なのかはわからないことをあらかじめことわっています。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その10】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現學採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「街頭脚線考現學」(吉田謙吉)です。続いては某レヴューの樂屋の幕間數分間内に於ける脚線の採集です。モデルは高田せい子氏、写真は堀野正雄君の勞を煩したそうです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現學採集【その9】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現學採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「街頭脚線考現學」(吉田謙吉)です。続いてAは省線神田-飯田橋間車内で読書中の十八九歳令嬢、Bは市電飯田橋-江戸川間の中華民國の女學生、Cは銀座某貴金属店の飾り窓を覗き込むモガの様子で、15円と6円の品物を前にしたときの差を観察しています。DとEは舞台裏で出番待ちのレヴューガールです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現学採集【その8】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「街頭脚線考現學」(吉田謙吉)です。続いては1931(昭和6)年4月のスカート丈の採集です。この頃は膝上が世界的に流行していますが、この後だんだん長くなっていきます。腰線や膝の位置から見るとほとんどミニ丈のようにも見えます。

今和次郎・吉田謙吉著「考現学採集【その7】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「街頭脚線考現學」(吉田謙吉)です。某デパート食堂に勤務している二十四人の女給さんのストッキングのシワを丁寧に採集しています。シワが見られなかったのは一人だけだそうです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現学採集【その6】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「街頭脚線考現學」(吉田謙吉)です。東京銀座界隈の女性の足だけを観察したフェティシズムあふれる記録です。図中の「舗」は舗道で、「プ」は省線プラットフォームで、「車」は省電、市電、バスで、「B」はバスの車掌さんで採集されたそうです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現学採集【その5】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「デパート内學生尾行記」(岩田義之)です。新宿伊勢丹の前身である「ほてい屋」に入ってきた慶應ボーイの尾行記になります。当時は特徴的な学生帽を被っていたので遠目にも慶應大生ということがわかりました。帽子が新しく田舎顔なので新入生だと想像しています。1階から6階まで見て回るだけで帰り際にタバコ売り場でゴールデンバット一箱だけを買って出て行ったようです。

今和次郎・吉田謙吉著「考現学採集【その4】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「新宿三越マダム尾行記」(岩田義之)です。お中元の季節でごった返す雨の新宿三越に現れた「美しい一見令嬢と思はれる樣な」「尖端的マダム、」「年齡は二十二か二十三才で大變に失禮な事だが階級を想像すると中流知識階級卽ちプチブルインテリの若奥樣らしい」女性の行動を観察した結果です。57分間の買い物行動を観察された奥様は新宿驛方面に向かって去って行きました。

今和次郎・吉田謙吉著「考現学採集【その3】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より「女給の足のモーション」(黒田信治採集/今和次郎整理)です。早稲田にあった喫茶店「ユリカゴ」の普通の娘風の女給さんの足元を160秒間観察した結果です。

今和次郎・吉田謙吉著「考現学採集【その2】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)より表紙裏見開き「新宿飲食店分布圖」です。現在の新宿駅東口から新宿三丁目に至る辺りの飲食店地図です。高野や中村屋や武蔵野館といった今でも残る店があります。新宿伊勢丹はまだなく、ほてい屋と市電車庫になっています。二幸がスタジオアルタです。三越は2012年までありました。

今和次郎・吉田謙吉著「考現学採集【その1】」(1931)

モデルノロヂオ1931dec

 1931(昭和6)年12月に建設社から発行された「考現学採集:モデルノロヂオ」(今和次郎・吉田謙吉著)の箱表紙です。現代=1931年の東京の様々な風俗を部分的に切り取って定量的に観察した非常にユニークな試みです。真面目にふざけている様子が後の赤瀬川原平からタモリなどへの源流になっています。

尾崎三吉著「ポートレートの写し方【その64】」(1939)

ポートレートの写し方1939sept

 1939(昭和14)年9月にアルス社から出版された尾崎三吉著「ポートレートの写し方」より作品64です。「お人形を抱いてもイタについてゐるといふ感じ − 女はいくつになつても子供だといふ感じもまた面白いと思ふ。人間の手は寫眞を撮る場合,何か持つて居ないとその扱ひや置き場に困ることが多い。どんな一寸したものでも手に持つことは,手の位置ばかりでなく身體全體に變つた表情が湧き出てくるものである。」

尾崎三吉著「ポートレートの写し方【その63】」(1939)

ポートレートの写し方1939sept

 1939(昭和14)年9月にアルス社から出版された尾崎三吉著「ポートレートの写し方」より作品63です。「一體ポートレートを撮る時に一番苦勞するのは手の扱ひ方である。餘り芝居氣があつても困るし,無造作なのでも困る。從つて何かを持たせて,へとひ草花一本でもよいから持てば,そこに何かしら表情が出てくるので,かうした方法をよく使ふのである。ところで自然のうちに,うんと表情を持つたものにすると,闊然と道が開けたやうな氣がして,思はず美しい手の表情が得られる事がある。この作品はそんな意味で大いに助けられた例である。」

尾崎三吉著「ポートレートの写し方【その62】」(1939)

ポートレートの写し方1939sept

 1939(昭和14)年9月にアルス社から出版された尾崎三吉著「ポートレートの写し方」より作品62です。「眼は口ほどに物を言ひ,とは昔から言はれてゐるが,手もまた口ほども,或はそれ以上に物を言ふものである。手の表情だけでも立派に私達の對象となる。」

尾崎三吉著「ポートレートの写し方【その61】」(1939)

ポートレートの写し方1939sept

 1939(昭和14)年9月にアルス社から出版された尾崎三吉著「ポートレートの写し方」より作品61です。「ひとしきり騒いだ後のスキー宿の夜。氣がついて見ると風もどうやら止んで静かに雪が降つてゐるらしい。雪の中で埋もれてしまつたやうな静けさだ。暖爐の中で火の燃える音がハッキリと聞えてくるほどの静寂さである。信越赤倉溫泉の夜は更けて行つた。」

尾崎三吉著「ポートレートの写し方【その60】」(1939)

ポートレートの写し方1939sept

 1939(昭和14)年9月にアルス社から出版された尾崎三吉著「ポートレートの写し方」より作品60です。「さあ出發だ,誰かゞ浮き浮きする聲でどなつた。一番早く支度をして宿をとび出したスキー一年生のA子は,兵營の歩哨のやうにスキーをしつかと抱へて雪の上に立ち上つた。雄大な風光に見惚れてゐたのか,釘づけになつたやうにしばらく動かなかつた。實際スキー場の晴れた朝の美しさはすばらしいものだ。逆光の雪の光が面にあたつて實に輝いてゐた。」

尾崎三吉著「ポートレートの写し方【その59】」(1939)

ポートレートの写し方1939sept

 1939(昭和14)年9月にアルス社から出版された尾崎三吉著「ポートレートの写し方」より作品59です。「もう今日で三日目だ,折角寫眞を撮りに來て居るのに毎日吹雪や曇天ではどうしようもない。全く雪の寫眞ほど天候に依つて支配されるものはあるまい。曇天の日など撮らない方が利口だ,決して傑作など出來ないから。丁度四日目の朝である。昨夜の吹雪で斷念してゐたのに,今日は又何と素晴しい天氣だらう………,顔も洗はずにカメラを持つて飛び出し,こゝぞとばかり今迄の鬱憤を一度にはらして了つた。朝の逆光に雪の表面や山々の肌,澄みきつた青空に浮ぶ白雲,こんな絶好のコンディションなど中々出會はすものぢやない。從つてこの時の喜びほど痛快なものはない。」

尾崎三吉著「ポートレートの写し方【その58】」(1939)

ポートレートの写し方1939sept

 1939(昭和14)年9月にアルス社から出版された尾崎三吉著「ポートレートの写し方」より作品58です。「サングラスを外した時の,彼女の眩しさうな顔つきつたらなかつた。驚いたやうに,かけたり,外したりしてゐたが,たうとうしかめッ面をして『あゝ眩しい』と弱音を吐いてしまつた。ホテルの前に積み上げられた雪塊が笑つてゐるやうに思へてならなかつた。」

尾崎三吉著「ポートレートの写し方【その57】」(1939)

ポートレートの写し方1939sept

 1939(昭和14)年9月にアルス社から出版された尾崎三吉著「ポートレートの写し方」より作品57です。「色眼鏡の女といへば,都會では考へものである。ゲレンデではこれがまた感じを出す一つである。しかし,よほど注意しないと感じどころかグロテスクになることさへある。」

尾崎三吉著「ポートレートの写し方【その56】」(1939)

ポートレートの写し方1939sept

 1939(昭和14)年9月にアルス社から出版された尾崎三吉著「ポートレートの写し方」より作品56です。「晴れた日の朝,ゲレンデは一點の埃も止めずに光つてゐる。浮雲は青空に流れてゐる。スキーヤーにとつてこれほど嬉しいことはない。みなニコニコ燥ぎ切つてゐる。それが前の晩まで吹雪いてゐたその翌朝といつた時の喜びは,とても筆紙につくせるものぢやない。その喜びを充分に生かし度い,カメラで記録して置き度い,誰もが一樣に考へることだ。」

尾崎三吉著「ポートレートの写し方【その55】」(1939)

ポートレートの写し方1939sept

 1939(昭和14)年9月にアルス社から出版された尾崎三吉著「ポートレートの写し方」より作品55です。「初冬にしては,珍らしく風のない天氣だつた。それにオーバーを脱いでも大して寒さを感じない位の暖かさ,いはゆる小春日和とでも言ふのだつたらう。何の曲もない武藏野の原で,ポートレートでもつくらうといふのだから,相當な心臓でもあつたわけだ。思ふ念力といふものは強いものだ。何となしに,誰も氣のつきさうにもないチョットした場所が私の勘にふれたのである。勘と云ふものは恐しい,さうした時にはもう,頭の中で構圖を描いてしまつてゐるのだから……。」

尾崎三吉著「ポートレートの写し方【その54】」(1939)

ポートレートの写し方1939sept

 1939(昭和14)年9月にアルス社から出版された尾崎三吉著「ポートレートの写し方」より作品54です。「近代感が欲しい,こんな聲もきつと出るにちがひない。豪華な汽船もよからう,汽車,自動車など……またうんと野心的に出て近代重工業のあのダイナミックな背景を入れてもよいが,この場合は服装といふものに充分注意して,その雰圍氣に合ふものにしなければならぬ。この寫眞のやうに近代建築を調和的にとり入れるのも一方法である。この場合,建築物を強く入れるか,極く遠景に輕く入れるか,またアングルはどんな風にするかはその場合の情景によつて決定されるものである。」

尾崎三吉著「ポートレートの写し方【その53】」(1939)

ポートレートの写し方1939sept

 1939(昭和14)年9月にアルス社から出版された尾崎三吉著「ポートレートの写し方」より作品53です。「いつも感じることであるが,表情は人生そのものであり,生活そのものである。多種多樣の生活を持つてゐる人,深い人生を持つてゐる人等の表情はやはり多種多樣であり,また深いものがあるやうだ。」

尾崎三吉著「ポートレートの写し方【その52】」(1939)

ポートレートの写し方1939sept

 1939(昭和14)年9月にアルス社から出版された尾崎三吉著「ポートレートの写し方」より作品52です。「表情の豊な女性といふものは,どうしてかうも違ふ物かと不思議に思ふのである。一枚一枚を撮る度にその表情がみんな變つてゐるのである。勿論こんな種類の婦人は少いので,數多く接した中にもほんの數へる位しかない。そんな女性にでも出會はさうものなら私はカメラから火を吐き出しさうになるまで熱中して了ふのである。もう一枚,もう一枚といふ風に知らず知らずにシャッターを切つて居るやうである。」

尾崎三吉著「ポートレートの写し方【その51】」(1939)

ポートレートの写し方1939sept

 1939(昭和14)年9月にアルス社から出版された尾崎三吉著「ポートレートの写し方」より作品51です。「春の新綠,秋の紅葉などとは全く趣の變つた冬の姿に,外苑の感じは何となく物忙しかつた。然し今日はいつになくポカポカ暖い陽が輝き幾分汗ばむ位だ。外苑に來て先づ一番眼につくのは繪畫館であらう。この日もこの附近で建物を背景に取り入れて,いろいろな角度から狙つたうちの一枚である。」

尾崎三吉著「ポートレートの写し方【その50】」(1939)

ポートレートの写し方1939sept

 1939(昭和14)年9月にアルス社から出版された尾崎三吉著「ポートレートの写し方」より作品50です。「建築物を背景にすることはいろいろな場合に於て好結果を得る場合が多い。即ち建築物の持つ特性を自由自在に驅使して,近代感,躍動感を表現することが出來るから。日本劇場のあの豪華な建物も,きつとよい背景になるものと何時も考へてゐたのであるが,幸にも調和的なモデルを得ることが出來て,樣々な角度から撮影を試みた。あの眞白な建物にはあまり白い服装よりもどちらかと云へば,反對色の黒つぽいものゝ方がよい。」
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