雑誌記事「特輯 春とカメラ【その6】」(1939)
雑誌記事「特輯 春とカメラ【その4】」(1939)

1939(昭和14)年4月発行の雑誌「アサヒカメラ4月號」(朝日新聞社)内の記事「特輯 春のカメラ」より「春雨」(秋山青磁)です。秋山青磁さんは作家の山本周五郎さんの又従兄弟にあたる写真家です。雨の銀座の風景です。
雑誌記事「特輯 春とカメラ【その3】」(1939)
雑誌記事「特輯 春とカメラ【その1】」(1939)

1939(昭和14)年4月発行の雑誌「アサヒカメラ4月號」(朝日新聞社)内の記事「特輯 春のカメラ」より「恵美子の像」(塚本閣治)です。塚本閣治(1896-1965)さんは東京生まれ、東京美術學校図案科を卒業後、記録映画作家、写真家となりました。この写真は娘さんの小学校入学式の姿をベビーパールで撮ったものです。
広告「スーパーフレックス」(1939)

1939(昭和14)年4月発行の雑誌「アサヒカメラ4月號」(朝日新聞社)内の広告より「スーパーフレックス」(暿光堂本店)です。カメラの製作は梅本製作所です。梅本製作所は1935(昭和10)年に設立され、カメラの製造販売を行っていました。現在は三脚雲台など撮影機材の会社として存続しています。
広告「京寫の印画紙」(1939)

1939(昭和14)年4月発行の雑誌「アサヒカメラ4月號」(朝日新聞社)内の広告より「京冩の印画紙」(京都寫眞工業株式會社)です。商品名に「祇園」「比叡」とベタな名前を付けています。京都写真工業は1938(昭和13)年に設立された写真印画紙会社ですが、1944(昭和19)年に三菱製紙に国策合併され、現在の三菱製紙京都工場になります。
雑誌記事「四月の露出表」(1939)

1939(昭和14)年4月発行の雑誌「アサヒカメラ4月號」(朝日新聞社)内の記事より「四月の露出表」です。四月の天候におけるフィルム感度と絞りとシャッタースピードの関係です。写すと言うだけなら結構適当でも撮れます。
雑誌記事「アサヒカメラ・カレンダー」(1939)
雑誌記事「富岡弘傑作寫眞集【その2】」(1939)
雑誌記事「子供の寫眞集【その5】」(1939)
雑誌記事「子供の寫眞集【その3】」(1939)
雑誌記事「子供の寫眞集【その2】」(1939)
雑誌記事「子供の寫眞集【その1】」(1939)

1939(昭和14)年4月発行の雑誌「アサヒカメラ4月號」(朝日新聞社)内の記事「子供の寫眞集」(山浦翠村)より、「子供の國」です。山浦翠村(1896-?)さんは佐賀県生まれ、日本画家を目指して上京しますが挫折し、営業写真を学んで福岡県久留米市で写真館を営みながら写真家として活動しました。
広告「東洋の覇王 カメラはファースト」(1939)
広告「ハモンドB」(1939)

1939(昭和14)年4月発行の雑誌「アサヒカメラ4月號」(朝日新聞社)内の広告より「ハモンドB」(丸惣株式會社)です。カメラと双眼鏡を合体させれば売れるのでは、というアイデア商品でしょうか。カメラのレンズと双眼鏡のレンズは全然別になっています。丸惣は戦前戦後にカメラの製造販売を行っていましたが、現在パーティーグッズやパチンコ景品の業者として存続しています。
雑誌記事「春のアルバム【その5】」(1939)

1939(昭和14)年4月発行の雑誌「アサヒカメラ4月號」(朝日新聞社)内の記事「春のアルバム(組寫眞集)」より「春野」(永田二龍)です。モデルさんを使った屋外撮影です。永田二龍(1885?-1968)さんは主に戦前に名古屋で活躍した写真家で医師でもありました。
雑誌記事「春のアルバム【その4】」(1939)
雑誌記事「春のアルバム【その3】」(1939)

1939(昭和14)年4月発行の雑誌「アサヒカメラ4月號」(朝日新聞社)内の記事「春のアルバム(組寫眞集)」より「靖國神社大祭」(桑原甲子雄)です。桑原甲子雄(1913-2007)さんは東京の下谷に生まれ、東京市立第二中學を卒業後アマチュア写真家として活動を始めます。戦後はカメラ雑誌の編集長を歴任して新人育成や写真評論に努めました。最近は戦前のアマチュア時代の写真が再評価され、写真集がいくつも出版されています。