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短篇少女小説「美しき風【その2】」(1940)

美しき風1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事より短篇少女小説「美しき風」(美川きよ、長澤節畫)です。小学校時代の思い出の先生の図です。
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短篇少女小説「美しき風【その1】」(1940)

美しき風1940my

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事より短篇少女小説「美しき風」(美川きよ、長澤節畫)です。作者の美川きよ(1900-1987)さんは神奈川県生まれ、大阪府立大手前高等女學校を卒業後、小説家となります。画家の鳥海青児さんの配偶者です。長沢節(1917-1999)さんは福島県生まれ、文化学院を卒業後、画家となります。戦後はデザイナーとしても活躍しました。

広告「エヂソンバンド」(1940)

エヂソンバンド1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の広告より「健腦器・エヂソンバンド」(能率研究會)です。頭に付けただけで記憶力が良くなるという怪しげな器具の広告です。発明王エジソンが発明したものではなく、本当かどうかはわかりませんが愛用した健康器具ということのようです。戦後もしばらく少年誌の広告を賑わしていたようですが、誇大広告の規制が厳しくなってからは消えてしまったようです。

時代小説「お千加茶屋【その2】」(1940)

お千加茶屋1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事より時代小説「お千加茶屋」(山手樹一郎小林秀恒畫)です。お千加は体を壊した許婚の母親に代わって茶屋を切り盛りしています。そこへ許嫁が江戸から帰ってきました。

時代小説「お千加茶屋【その1】」(1940)

お千加茶屋1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事より時代小説「お千加茶屋」(山手樹一郎、小林秀恒畫)です。山手樹一郎(1899-1978)さんは栃木県生まれ、明治中学を卒業後、編集者となりますが、1932年ごろから作家としても活動を始め、時代小説の作家として活躍しました。

広告「ゴコー黒椿」(1940)

ゴコー1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の広告より、「ゴコー黒椿」(昇榮堂)です。髪用の椿油の広告です。なお、ゴコーを作っていた会社は「昇英堂」ですのでこの広告は誤植だと思われます。

広告「産婆・看護婦」(1940)

産婆看護婦1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の広告より、「産婆・看護婦」(東京産婆看護婦通信學校)です。今なら免状が取りやすいということなので、時節柄大量養成をしているのでしょうか。「處女の友」は誤植です。

雑誌記事「來訪」(1940)

来訪1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事より「來訪」(菱山修三、初山滋畫)です。菱山修三(1909-1967)さんは東京出身、東京外國語學校フランス語科を卒業後、詩人となりました。

微笑小説「小さい先生(5)【その3】」(1940)

小さい先生1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事より微笑小説「小さい先生(5)」(由利聖子、河目悌二畫)の挿絵です。当時の女学生の体操着姿です。それなりに洗練されて動きやすそうです。

微笑小説「小さい先生(5)【その2】」(1940)

小さい先生1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事より微笑小説「小さい先生(5)」(由利聖子、河目悌二畫)です。語り手の新人教師は校長先生の自宅に下宿していて、そこには自分の担任しているクラスにいる校長先生の娘も住んでいます。

微笑小説「小さい先生(5)【その1】」(1940)

小さい先生1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事より微笑小説「小さい先生(5)」(由利聖子、河目悌二畫)です。豪華な施設を持った女学校に新任教師として赴任した所、新学期は五日前に始まっていますと嫌みを言われてしまいました。

長篇小説「墓碑銘(五)【その3】」(1940)

墓碑銘1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事より長篇小説「墓碑銘(五)」(橘外男松野一夫畫)です。ようやく危機を脱し、色々事情が明らかにされますが、新しい危機と謎が降りかかってきます。

長篇小説「墓碑銘(五)【その2】」(1940)

墓碑銘1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事より長篇小説「墓碑銘(五)」(橘外男松野一夫畫)です。アフリカを舞台にした冒険小説は当時の少年誌でよくありましたが、少女誌でも人気があったのでしょうか。

長篇小説「墓碑銘(五)【その1】」(1940)

墓碑銘1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事より長篇小説「墓碑銘(五)」(橘外男、松野一夫畫)です。作者の橘外男(1894-1959)さんは、石川県生まれ、群馬縣立高崎中學を素行不良で退学後、就職先で横領が発覚して服役、その後小説家となり直木賞を受賞しました。

広告「三菱鉛筆」(1940)

三菱鉛筆1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の広告より、「三菱鉛筆」(眞崎大和鉛筆株式會社)です。「一年生部隊お供はいつも三菱鉛筆/新學期です。お小さい方の鉛筆はお姉様が選んであげて下さい。」だそうです。

少女小説「小さき花々【その2】」(1940)

小さき花々1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の少女小説「小さき花々」より「嫁がざりし姉」(吉屋信子中原淳一画)です。早逝した姉に対する悔後の気持ちを作家に告白しています。

少女小説「小さき花々【その1】」(1940)

小さき花々1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の少女小説「小さき花々」より「嫁がざりし姉」(吉屋信子中原淳一画)です。読者からの投稿紹介の体裁です。

雑誌扉「五月・夏」(1940)

夏1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)の扉より「夏」(泣菫、中原淳一画)です。詩の薄田泣菫(1877-1945)さんは、岡山県生まれ、二松学舎に学んだ後、詩人となります。この雑誌掲載時にはパーキンソン病が悪化し詩作から離れて随筆などを夫人の口述筆記により執筆していました。この詩は1910(明治41)年に作られた詩集「子守唄」からの転載です。

雑誌記事「女学生服装帖【その3】」(1940)

女学生服装帖1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事より「女学生服装帖」(中原淳一)です。中原さんの描く少女のウエストは少し細すぎるように見えます。

雑誌記事「女学生服装帖【その2】」(1940)

女学生服装帖1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事より「女学生服装帖」(中原淳一)です。日本の女の子にはモノトーンよりも可愛い色が似合うと説いています。

雑誌記事「女学生服装帖【その1】」(1940)

女学生服装帖1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事より「女学生服装帖」(中原淳一)です。女性の服装から色がなくなっていくことに懸念を示しています。

雑誌記事「フランスの少女達【その4】」(1940)

アルザス1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事「フランスの少女達」(宮本三郎画集)より「アルサス地方」です。非常に特徴的な大きなリボンをつけています。

雑誌記事「フランスの少女達【その3】」(1940)

ピレネー1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事「フランスの少女達」(宮本三郎画集)より「ピレネー地方」です。「スペインとの國境山岳地方の少女達は、頭に小さなレースの帽子をかぶり、その上に布を(結ばず)のせて腰の邊までたれます。大きなショールをかけた上にバンドでしめ、スカートは廣くて長いものを用ひます。」

雑誌記事「フランスの少女達【その2】」(1940)

バスク1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事「フランスの少女達」(宮本三郎画集)より「バスク地方」です。「ピレネエの西よりの山岳地方の少女達は、髪の上から布をかぶり、後部で風呂敷の如く結び、肩に小さなふさなしのショールをし中には白い前垂れをしたりサボをはいたりしてゐます。最近それがパリーの流行にとり入れられてゐます。」

雑誌記事「フランスの少女達【その1】」(1940)

ノルマンディー1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事「フランスの少女達」(宮本三郎画集)より「ノルマンディ地方」です。フランス各地の民族衣装を描いた特集です。

雑誌記事「少女の友ニュース」(1940)

出征1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事より「少女の友ニュース」です。編集部の粕谷正雄さんが軍に召集されたというニュースです。日米開戦前なのでまだのんびりしているように見えます。粕谷さんは戦後も著作を行なっているので無事復員できたようです。

雑誌記事「コロデイ作ピノチオ【その3】」(1940)

ピノキオ1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事より四色刷「コロデイ作ピノチオ」(野上彰・文、まつもとかつぢ繪)です。ピノキオは爺さんの本を売って人形劇を観に行ってしまいます。

雑誌記事「コロデイ作ピノチオ【その2】」(1940)

ピノキオ1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事より四色刷「コロデイ作ピノチオ」(野上彰・文、まつもとかつぢ繪)です。ピノキオとゼベット爺さんですが、有名なディズニー映画は米国で1940年公開、日本では戦後の1952年公開なので、松本先生は見ていないと思うのですが、ディズニー風のキャラクターになっています。ゼベット爺さんというよりは白雪姫の小人ですが。

雑誌記事「コロデイ作ピノチオ【その1】」(1940)

ピノキオ1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の記事より四色刷「コロデイ作ピノチオ」(野上彰・文、まつもとかつぢ繪)です。有名なピノキオの話です。野上彰(1909-1967)さんは徳島県生まれ、京都大学法科を滝川事件をきっかけに中退後、囲碁関係の仕事をしながら文学者となりました。

広告「ビクトリヤ」(1940)

ビクトリヤ1940may

 1940(昭和15)年5月に発行された「少女の友・五月」(第三十三巻第五號)(實業之日本社刊)内の広告より、「ビクトリヤ」(大和ゴム製作所)です。いわゆる生理用品の広告です。「ユルマズ・ヨジレヌ・自由自在な月經帶」だそうです。
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