雑誌記事「"女性"水のスポーツ写眞集【その4】」(1937)
雑誌記事「"女性"水のスポーツ写眞集【その3】」(1937)
雑誌記事「"女性"水のスポーツ写眞集【その2】」(1937)
広告「ハンザキャノン」(1937)

1937(昭和12)年発行の雑誌「アサヒカメラ7月號」(朝日新聞社)の表紙裏広告より「ハンザキャノン」(近江屋寫眞用品株式會社)です。これは1936(昭和11)年に精機光学工業株式會社より発売されたカメラの広告です。この会社は後のキヤノンですが、この頃はまだ名前のヤが小さいことがわかります。レンズはニコン製と今では考えられない組み合わせです。
雑誌記事「私の好きなお菓子」(1917)

1917(大正6)年12月に発行された「少女の友」十二月(第十巻第十四號)(實業之日本社刊)内の記事より、「私の好きなお菓子」です。読者アンケートの結果です。一番人気はカステラですが、リストから生クリームを使った洋菓子が皆無なのが読み取れます。しかしながら大正初期の時点でベスト8の半分が洋菓子です。
雑誌記事「圖畫」(1917)

1917(大正6)年12月に発行された「少女の友」十二月(第十巻第十四號)(實業之日本社刊)内の記事より、「圖畫」です。読者投稿のイラストが掲載されています。全員和装ですが、部屋には電灯がついています。
雑誌記事「和歌」(1917)

1917(大正6)年12月に発行された「少女の友」十二月(第十巻第十四號)(實業之日本社刊)内の記事より、「和歌」です。読者投稿の和歌が掲載されています。選外佳作の多さから毎月大量の投稿があった様です。
雑誌記事「投書規定」(1917)

1917(大正6)年12月に発行された「少女の友」十二月(第十巻第十四號)(實業之日本社刊)内の記事より、「投書規定」です。少女の友といえば活発な読者投稿が有名でした。全国のハガキ職人達の腕の見せ所です。
雑誌記事「懸賞・上から見た圖」(1917)

1917(大正6)年12月に発行された「少女の友」十二月(第十巻第十四號)(實業之日本社刊)内の記事より、「懸賞・上から見た圖」です。日用品を上から見た図の様ですが、今年最後の号ということで特別に難しくしているそうです。
雑誌記事「生鶏卵の教訓」(1917)

1917(大正6)年12月に発行された「少女の友」十二月(第十巻第十四號)(實業之日本社刊)内の記事より、「生鶏卵の教訓」(星野水裏)です。藤沢の片瀬海岸で水泳合宿をしている学習院初等科の生徒達ですが、良いところのお坊ちゃんばかりなので食事の好き嫌いが激しい様です。当時の校長の乃木将軍が訓示しています。
雑誌記事「大森の海岸にて怪火を見る」(1917)

1917(大正6)年12月に発行された「少女の友」十二月(第十巻第十四號)(實業之日本社刊)内の記事より、「大森の海岸にて怪火を見る」(星野水裏)です。大森海岸で夜光虫、いわゆる海ほたるの大発生を見た記事です。現在でも東京湾で夏に度々発生しています。
雑誌記事「渡米校長團」(1917)

1917(大正6)年12月に発行された「少女の友」十二月(第十巻第十四號)(實業之日本社刊)内の記事より、我社創立廿周年記念「渡米小學校長團」の第八回報告です。布哇から桑港に移動し、大歓迎を受けています。第一次大戦下のヨーロッパでは泥沼の塹壕戦をしている頃に呑気なものです。
雑誌記事「それぞれ由來を持つてゐる土地の名」(1917)

1917(大正6)年12月に発行された「少女の友」十二月(第十巻第十四號)(實業之日本社刊)内の記事より、「それぞれ由來を持つてゐる土地の名」(吉田東伍)です。吉田東伍(1864-1918)さんは新潟の豪農の子として生まれ、吉田家の養子となりました。学校中退後、小学校教員などを経て様々な史学の論文を投稿し、読売新聞社を経て早稲田大学の教授となりました。
雑誌記事「鹽原の紅葉」(1917)

1917(大正6)年12月に発行された「少女の友」十二月(第十巻第十四號)(實業之日本社刊)内の記事より、「鹽原の紅葉」(星野水裏)です。口絵写真の「鹽原の風光」のルポルタージュです。大正初めですが近郊への旅行は現在と似た様なものです。
喜劇「厄年の子【その2】」(1917)

1917(大正6)年12月に発行された「少女の友」十二月(第十巻第十四號)(實業之日本社刊)内の記事より、喜劇「厄年の子」(澁澤青花)です。厄年に生まれた子は育たないという迷信を避けるため、赤ん坊をいったん捨てた体で拾うという豊臣秀吉も行った方法ですが、手違いで子供のいない老夫婦が先に拾ってしまったので大騒ぎです。
喜劇「厄年の子【その1】」(1917)

1917(大正6)年12月に発行された「少女の友」十二月(第十巻第十四號)(實業之日本社刊)内の記事より、喜劇「厄年の子」(澁澤青花)です。喜劇の戯曲です。呉服問屋伊勢屋さんの奥座敷で厄年で授かった赤ちゃんを前に会話が始まります。
長篇冒險小説「西藏に咲く花【その3】」(1917)

1917(大正6)年12月に発行された「少女の友」十二月(第十巻第十四號)(實業之日本社刊)内の記事より、長篇冒險小説「西藏に咲く花」(森下雨村)です。なんとポタラ宮の中で白井と羅萬は驚きの再会をはたします。
長篇冒險小説「西藏に咲く花【その2】」(1917)

1917(大正6)年12月に発行された「少女の友」十二月(第十巻第十四號)(實業之日本社刊)内の記事より、長篇冒險小説「西藏に咲く花」(森下雨村)です。なんと山賊に撃たれて死んだと思われていた羅萬も実は生きていて、ラサにたどり着いた様です。
長篇冒險小説「西藏に咲く花【その1】」(1917)

1917(大正6)年12月に発行された「少女の友」十二月(第十巻第十四號)(實業之日本社刊)内の記事より、長篇冒險小説「西藏に咲く花」(森下雨村)です。どうやら百合子さんは生き神様としてポタラ宮に迎え入れられ、仙人に化けた白井もポタラ宮に潜り込みます。
雑誌記事「東西婦人合せ・輝く藤壺と護國の女神」(1917)

1917(大正6)年12月に発行された「少女の友」十二月(第十巻第十四號)(實業之日本社刊)内の記事より、「東西婦人合せ・輝く藤壺と護國の女神」(下田歌子)です。この藤壺は源氏物語に出てくる藤壺中宮のことではなく、中宮彰子の別名で、どちらも御所の宮殿の名前に由来します。話は突然ドイツに飛んでプロイセンの国母と言われている方の話になります。
長篇小説「十七年の春秋(四)【その3】」(1917)

1917(大正6)年12月に発行された「少女の友」十二月(第十巻第十四號)(實業之日本社刊)内の記事より、長篇小説「十七年の春秋(四)」(宇野浩二)です。お鈴は働いていた工場の事故で顔に傷を負ってしまいます。顔を元通りにするには太腿の肉を移植しなければなりません。安全意識の低い大正時代の工場では労働災害が頻発したものと想像できます。
長篇小説「十七年の春秋(四)【その2】」(1917)

1917(大正6)年12月に発行された「少女の友」十二月(第十巻第十四號)(實業之日本社刊)内の記事より、長篇小説「十七年の春秋(四)」(宇野浩二)です。二人はお鈴に会いに行ったもののなぜかつれなくされてしまいます。
長篇小説「十七年の春秋(四)【その1】」(1917)

1917(大正6)年12月に発行された「少女の友」十二月(第十巻第十四號)(實業之日本社刊)内の記事より、長篇小説「十七年の春秋(四)」(宇野浩二)です。さて、お鈴の本当の父はどうやら亡くなっていた様です。人間関係事実関係はさらに複雑の極みに向かっています。
少女小説「山茶花の咲く頃【その3】」(1917)

1917(大正6)年12月に発行された「少女の友」十二月(第十巻第十四號)(實業之日本社刊)内の記事より、少女小説「山茶花の咲く頃」(菅野菊枝)です。臨終の描写の中で驚かされるのは医者が食塩注射による死を薦めている所です。反対する父親の言葉よりそれは安楽死とは程遠いもので、ただ単に死期を調整するだけのものの様です。この時代は医者による強制死が認められていると思われます。