女子新作法「第二章 學生の心得【その1】」(1928)
女子新作法「第一章 緒言」(1928)

1928(昭和3)年4月に発行された教科書「女子新作法・甫守謹吾著」(金港堂發行)より、「第一章 緒言」です。世界に冠たる列強の国民に相応しいマナーを備えているか、と問いかけております。著者の甫守謹吾(1863-1944)さんは高等女学校の校長などを歴任した教師であり、また礼法の研究家でもありました。大正から昭和にかけて多くの礼法書を出版しています。
教科書口繪「豊明殿賜宴の圖」(1928)

1928(昭和3)年4月に発行された教科書「女子新作法・甫守謹吾著」(金港堂發行)より、口繪「豊明殿賜宴の圖」(今井伴次郎謹模寫)です。憲法発布後の饗宴を描いた絵の模写で、原画は床次正精(1842-1897)さん作の油絵です。出身は鹿児島の薩摩藩士で、幕末に長崎のイギリス軍艦上で見た油絵に衝撃を受けて洋画を学び始めました。明治になって司法省に勤務し検事や判事を歴任、その後司法省をやめて画家となりました。
教科書口繪「明治天皇御即位式の圖」(1928)

1928(昭和3)年4月に発行された教科書「女子新作法・甫守謹吾著」(金港堂發行)より、口繪「明治天皇御即位式の圖」(今井伴次郎謹模寫)です。今井伴次郎さんは群馬県出身で東京美術学校を卒業後、大正から昭和にかけて東京府立第三高等女學校で美術教師を勤め、多くの美術教育に関する著述があります。
教科書「女子新作法・甫村謹吾著」(1928)
投書「頓智問答」(1917)

1917(大正6)年10月に発行された「少女の友」十月(第十巻第十一號)(實業之日本社刊)内の記事より、「頓智問答」です。誌上の大喜利大会で、お題は「オヤオヤ、あの人は机に向かつて何をしてゐるのでせう」です。大正のハガキ職人乙女たちがこぞって挑戦しています。
投書「圖畫」(1917)

1917(大正6)年10月に発行された「少女の友」十月(第十巻第十一號)(實業之日本社刊)内の記事より、「圖畫」です。読者からの投稿の佳作掲載です。みんな一所懸命に竹久夢二や川端龍子の真似をして書いています。この頃の少女の絵の定番は夢二風美人です。昭和になると中原淳一、蕗谷虹児、高畠華宵などの真似をするようになります。
雑誌記事「投書規定」(1917)

1917(大正6)年10月に発行された「少女の友」十月(第十巻第十一號)(實業之日本社刊)内の記事より、「投書規定」です。各種読者投稿の規定が書かれています。少女の友をはじめ、各少女雑誌は読者投稿が盛んで、それぞれコミュニティーを作っていていまでいうオフ会なども行われていました。投稿者の中からプロになった方もたくさんいます。
雑誌記事「懸賞柿の數」(1917)

1917(大正6)年10月に発行された「少女の友」十月(第十巻第十一號)(實業之日本社刊)内の記事より、「懸賞柿の數」です。文章問題を読んで柿の数を答える懸賞クイズですが、回答には計算式も要求しています。
雑誌記事「渡米校長團」(1917)

1917(大正6)年10月に発行された「少女の友」十月(第十巻第十一號)(實業之日本社刊)内の記事より、「我社創立二十周年記念・渡米校長團」です。以前にメンバーの略歴のみが紹介されていた記事の訪問日程です。3ヶ月に渡る大視察旅行です。船と列車のみで移動することを考えると大変そうです。ヨーロッパで第一次世界大戦はまだまだ続いていますが、太平洋は平和なようです。
滑稽對話「千里眼【その2】」(1917)

1917(大正6)年10月に発行された「少女の友」十月(第十巻第十一號)(實業之日本社刊)内の記事より、滑稽對話「千里眼」(澁澤青花)です。千里眼があると思い込んだ伯爵令嬢、次々とお告げを出しますが、そのうちに現実の方がお告げの方に無理やり寄せられる事態になってきて大騒動になります。
滑稽對話「千里眼【その1】」(1917)

1917(大正6)年10月に発行された「少女の友」十月(第十巻第十一號)(實業之日本社刊)内の記事より、滑稽對話「千里眼」(澁澤青花)です。対話というのは戯曲のことのようです。登場人物のセリフとト書きで書かれています。当時の上流階級の日常の話し言葉が良くわかります。
口語詩「逃げた鸚鵡【その2】」(1917)

1917(大正6)年10月に発行された「少女の友」十月(第十巻第十一號)(實業之日本社刊)内の記事より、口語詩「逃げた鸚鵡」(星野水裏)です。見物人達は実行しないまでも鸚鵡に対してひどいことを言っています。
広告「海の不思議山の不思議」(1917)

1917(大正6)年10月に発行された「少女の友」十月(第十巻第十一號)(實業之日本社刊)内の広告より、「少女の友秋の増刊 海の不思議山の不思議」(實業之日本社)です。科学読み物系の増刊号ですが、少女小説の掲載もあります。小山内薫さんの少女小説は少し気になります。
雑誌記事「常識的大懸賞第二回當選發表」(1917)

1917(大正6)年10月に発行された「少女の友」十月(第十巻第十一號)(實業之日本社刊)内の記事より、「常識的大懸賞第二回當選發表」です。これは先月号で募集した常識的大懸賞の当選結果です。明治末くらいに生まれた女の子の名前の流行がわかる記事になっています。
出版だより「難しい算術を面白く解くには」(1917)

1917(大正6)年10月に発行された「少女の友」十月(第十巻第十一號)(實業之日本社刊)内の記事より、出版だより「難しい算術を面白く解くには」(美代子)です。実は書評の体裁を取った自社の本の広告です。記事中で「笑ひながら覺えられる・正式の算術」(實業之日本社)の購読を勧めています。
少女小説「愛弟・菅野菊枝【その2】」(1917)

1917(大正6)年10月に発行された「少女の友」十月(第十巻第十一號)(實業之日本社刊)内の記事より、少女小説「愛弟」(菅野菊枝)です。弟の病状は秋に入って悪くなる一方です。またこの姉弟の母親が黒人であることが明かされます。
少女小説「愛弟・菅野菊枝【その1】」(1917)

1917(大正6)年10月に発行された「少女の友」十月(第十巻第十一號)(實業之日本社刊)内の記事より、少女小説「愛弟」(菅野菊枝)です。病気の弟を見舞った姉が病室から出てきます。両親はシンガポールで広大なゴム園を経営していて日本にはなかなか帰ってこられないようです。
雑誌記事「子供の見る活動寫眞を見て感あり」(1917)

1917(大正6)年10月に発行された「少女の友」十月(第十巻第十一號)(實業之日本社刊)内の記事より、「子供の見る活動寫眞を見て感あり」(星野水裏)です。大正時代、忍者映画を真似して屋根から飛び降りて大怪我をする子供などが続発し、一時期子供は子供向け教育映画しか見られないような禁制がかかりました。
長篇冒險小説「西藏に咲く花【その3】」(1917)

1917(大正6)年10月に発行された「少女の友」十月(第十巻第十一號)(實業之日本社刊)内の記事より、長篇冒險小説「西藏に咲く花」(森下雨村)です。現地の村に赤ん坊を置いて洞窟に入ったところ謎の仮面を被った仙人の臨終に立ち会います。
長篇冒險小説「西藏に咲く花【その1】」(1917)

1917(大正6)年10月に発行された「少女の友」十月(第十巻第十一號)(實業之日本社刊)内の記事より、長篇冒險小説「西藏に咲く花」(森下雨村)です。北インドからチベットを経由して上海に至るというかなり無謀なルートで旅をしている訳あり風の日本人男性二人と赤ちゃんです。格好は洋服にトルコ帽という中央アジアスタイルです。当時のチベットは辛亥革命によって成立した中国国民党政府によって清朝に続く領有権を主張されてはいたが、ダライ・ラマ13世によるチベット政府によって実効支配されていました。
雑誌記事「日光の裏山越え」(1917)

1917(大正6)年10月に発行された「少女の友」十月(第十巻第十一號)(實業之日本社刊)内の記事より、「日光の裏山越えー白根山と赤城山ー」(澁澤青花)です。筆者の登山趣味を語っていますが、大正初期においてすでに日本アルプスという呼称や登山趣味が定着していることがわかります。
長篇小説「十七年の春秋(二)・宇野浩二」【その3】(1917)

1917(大正6)年10月に発行された「少女の友」十月(第十巻第十一號)(實業之日本社刊)内の記事より、長篇小説「十七年の春秋(二)」(宇野浩二)です。少女が事情を語ります。母の死の床でバイオリンを弾いていた売れない音楽家の父が少女に仰天の告白をします。実はお前の本当の父親は別にいると。
長篇小説「十七年の春秋(二)・宇野浩二」【その2】(1917)

1917(大正6)年10月に発行された「少女の友」十月(第十巻第十一號)(實業之日本社刊)内の記事より、長篇小説「十七年の春秋(二)」(宇野浩二)です。ここで語り手である作者は母を亡くして泣いている一人の少女と出会います。
長篇小説「十七年の春秋(二)・宇野浩二」【その1】(1917)

1917(大正6)年10月に発行された「少女の友」十月(第十巻第十一號)(實業之日本社刊)内の記事より、長篇小説「十七年の春秋(二)」(宇野浩二)です。警官殺しで捕まった三吉は裁判で深い悔悟の念を示し終身刑となります。物語はさらに新たな展開と因縁の渦が巻き起こります。
雑誌記事「神樣の御本體」(1917)

1917(大正6)年10月に発行された「少女の友」十月(第十巻第十一號)(實業之日本社刊)内の記事より、「神樣の御本體」(齋藤隆三、武田豊四郎)です。前半は日本由来の神様で、後半はインド由来の神様です。著者の齋藤隆三(1875-1961)さんは茨城県生まれ、東京帝國大學文科大學國史科を卒業後、三井家家史編纂や日本美術院の理事などを勤め、江戸期の衣装風俗に関する著作も多数あります。武田豊四郎(1882-1957)さんは、早稲田大學文學部卒業後、同教授に就任し、仏教学者、民俗学者として活躍、奇矯な行動でも当時話題をさらいました。