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雑誌記事「懸賞繪手本」(1918)

懸賞絵手本1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事「懸賞繪手本」です。「山に鳥居」(跡見玉枝筆)とありますが、これを手本として投稿するのだと思います。跡見玉枝(1859-1943)さんは江戸の生まれ、従姉妹の跡見花花蹊さんなどに日本画を習い、女学校の絵画教師などを経て桜花を得意とする日本画家となります。
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雑誌記事「お答へ」(1918)

お答え1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事「讀者くらぶ」より「お答へ」です。読者からの質問に対する回答なのですが、質問は書いてありません。なんと吉屋信子さんの住所の問い合わせに対して答えています。当時ファンレターなどは直接本人の自宅に送られていたようです。映画俳優などの名鑑にも自宅住所が書いてあります。

雑誌記事「讀者くらぶ」(1918)

読者くらぶ1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より「讀者くらぶ」です。愛読者のハガキ投稿の紹介ページでまさに少女雑誌の肝です。感想で「花物語」に言及している人が多いですが、この作者の吉屋信子さんも読者投稿の中で頭角を現しプロの作家となった方です。

雑誌記事「猫塚物語【その3】」(1918)

猫塚物語1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より「猫塚物語 ー私の自慢話ー」(戸川貞雄)です。戸川少年らは猫の死骸を回収してお墓を作ってあげています。

雑誌記事「猫塚物語【その2】」(1918)

猫塚物語1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より「猫塚物語 ー私の自慢話ー」(戸川貞雄)です。挿絵の少年は典型的な明治末期から大正にかけての小学生の服装をしています。

雑誌記事「猫塚物語【その1】」(1918)

猫塚物語1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より「猫塚物語 ー私の自慢話ー」(戸川貞雄)です。戸川貞雄(1894-1974)さんは東京本郷生まれ、幼少時は父の仕事の都合で台湾で過ごしました。在学中から執筆活動を始め、早稲田大学文学部卒業後は東京社の編集者を経て作家となります。戦後平塚市長を二期にわたって勤めました。

雑誌記事「子供の靴下」(1918)

子供の靴下1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より「子供の靴下」(吉田とく)です。吉田とくさんは日本橋高等女学校と東京高等女学校の講師で、この頃少女雑誌にこのような編み物や手芸の記事をいくつか書いています。

雑誌記事「少女タイムス」(1918)

少女タイムス1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より「少女タイムス」です。新聞の体裁をとって各地の話題を取り上げています。一月になるのは左下の「各地の感冒」という見出しのニュースで、欧州から感冒が流行しているとの記事ですが、これは悪名高い新型インフルエンザ「スペイン風邪」の流行を報じているものと思われます。世界中で猖獗を極め、第一次世界大戦以上の死者を出したと言われています。

雑誌記事「お正月の重詰」(1918)

お正月の重詰1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より「お正月の重詰」(指原乙子)です。当時の比較的簡素なおせち料理の紹介です。指原さんは三年前の記事から講師から校長に出世しています。

雑誌記事「少女歌話」(1918)

少女歌話1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より「少女歌話」(太田水穂)です。太田水穂(1876-1955)さんは長野県生まれ、長野県師範学校を卒業後、教師をしながら和歌を発表し歌人として有名です。国文学者、教師にして歌人であるため女学生向けの和歌の解説などはお手の物でしょう。

雑誌記事「婦人少女講話會の盛況」(1918)

婦人少女講和会の盛況1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より「婦人少女講話會の盛況」です。東京社の婦人少女雑誌読者向けのイベントレポートです。かなりお堅い講演会だったようですが、盛況だったようです。

雑誌記事「新年號豫告」(1918)

新年号予告1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より「新年號豫告」です。日本はこの後、第一次世界大戦の終戦に伴う不況が始まります。予告カットはキューピー人形で遊ぶ少女です。

広告「美顔洗粉」(1918)

美顔洗粉1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の広告より「美顔洗粉」(桃谷研究試驗所)です。女学校に通っているような方なら化粧品の化学的成分とその作用機構は当然知っていますよね、という挑戦的な広告です。この化粧品会社は研究所を名乗っていることもあって、その化学的成分を広告の売りにしています。

広告「美顔クリーム」(1918)

美顔クリーム1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の広告より「美顔クリーム」(桃谷研究試驗所)です。美顔化粧料が36種類あると豪語しています。このクリームはある高貴な方のリクエストで特別に作られたと主張しています。

広告「白色美顔水」(1918)

白色美顔水1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の広告より「白色美顔水」(桃谷研究試驗所)です。「清新なる薄化粧料」ということです。メーカーその他何の記載もありませんが、美顔シリーズということで当時の方はわかったのでしょう。

少女小説「蝶子の父【その3】」(1918)

蝶子の父1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より少女小説「蝶子の父(其十二)」(上司小劍)です。失意の蝶子さんが帰ってきたのはとても立派な叔父さんのお屋敷です。

少女小説「蝶子の父【その2】」(1918)

蝶子の父1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より少女小説「蝶子の父(其十二)」(上司小劍)です。父親に会えず意気消沈した蝶子さんを叔父さんが迎えに来ました。この頭が隠れるような大きなリボンは当時流行したのでしょうか。

少女小説「蝶子の父【その1】」(1918)

蝶子の父1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より少女小説「蝶子の父(其十二)」(上司小劍)です。作者の上司小劒(1874-1947)さんは奈良県生まれ、大阪に預けられているときに文学に触れ、上京後読売新聞社に勤務して編集局長になりながら作家としても認められました。

雑誌記事「静岡縣立高等女學校」(1918)

静岡高等女学校1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より「女學校評判記・静岡縣立高等女學校」です。当時の静岡市内の様子が伝わってきます。地方都市の重みが今よりはるかにあった時代のようです。

雑誌記事「懸賞考へ物」(1918)

懸賞考え物1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より「懸賞考へ物」です。空間認識能力を問う問題でしょうか、答えはどうやら上が鏡餅、下が雪だるまだと思われます。

少女小説「親の光り【その3】」(1918)

親の光り1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より少女小説「親の光り」(松山みどり)です。時効になって貸し倒れてしまった貸金の相手が欧州大戦の影響で今や大金持ちになっており、この没落した家族は無事に豊かな生活に戻ります。

少女小説「親の光り【その2】」(1918)

親の光り1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より少女小説「親の光り」(松山みどり)です。とても大きなリボンをつけた長女が、一家が没落する原因となった書類を処分しています。

少女小説「親の光り【その1】」(1918)

親の光り1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より少女小説「親の光り」(松山みどり)です。松山みどりさんはこの時期にいくつか小説を発表していますが、詳細はわかりませんでした。

雑誌記事「懸賞繪さがし」(1918)

懸賞絵探し1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より「懸賞繪さがし」です。点線を結んで何を書いてある絵か当てるのですが、点線の密度が濃すぎて結ぶまでもありません。郵送の締め切りが11/20となっていますので十二月号は十一月の頭には出版されている計算でしょうか。

少女小説「冬の夜話【その2】」(1918)

冬の夜話1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より少女小説「冬の夜話」(村岡澤)です。家の前で羆と対峙した娘のお高さんは羆との睨み合いに勝利します。しかしバク転で間合いを取る羆とは村岡さんちょっとサーカスの見過ぎなのでは。

少女小説「冬の夜話【その1】」(1918)

冬の夜話1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より少女小説「冬の夜話」(村岡澤)です。村岡澤さんは大正期にいくつか少女小説を発表していますが、詳細はわかりませんでした。北海道で病気の母と住む少女の元に羆の出現情報がもたらされます。

雑誌記事「鳩ぽっぽ【その2】」(1918)

鳩ぽっぽ1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より「鳩ぽっぽ」(和田雅夫)です。和田雅夫さんはここでは絵ではなくエッセイを書いています。上段の少女百科問答コラムもシミ抜きの質問など実用的なものが多いですね。

雑誌記事「鳩ぽっぽ【その1】」(1918)

鳩ぽっぽ1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より「鳩ぽっぽ」(和田雅夫)です。作者の和田雅夫さんは「コドモノクニ」の編集主任を務めるなど児童画の世界では有名な方です。上段のコラムの少女百科問答も気になりますが。

雑誌記事「キャスリンのクリスマス」(1918)

キャサリン1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より「キャスリンのクリスマス」(岡田みつ)です。作者の岡田みつ(1875-1940)さんは東京生まれ、東京女子師範學校を卒業後、母校の教鞭を執っていた教育者です。当時の英作文の事例が紹介されています。

雑誌記事「自由の娘【その2】」(1918)

自由の娘1918dec

 1918(大正7)年12月に発行された「少女畫報」(第七年第十二號)(東京社刊)内の記事より「自由の娘」(宮田脩)です。アメリカ独立戦争時の女性の内助の功を紹介しています。
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