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建築寫眞類聚「書齋と應接の構成[17]」(1932)

書斎と応接の構成1932july

 1932(昭和7)年7月に発行された建築寫眞類聚・第八期・第九輯「書齊と應接の構成」(洪洋社)より、「書齋三題」(レオン・デジャイル、ピエル・シャロー、E.R.ラミー)です。「上圖右、圓形を描いた特殊な天井の構成にならつて、部屋の眞ん中に机を置いた變つた書齋の一例で、能率を無視した貴族趣味の感あるものだ。上圖左は書齋としての書棚と机の配置を見る位のもので、他に特徴はない。下圖はホテルの一室で、勿論居間を兼ねたものである。」
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建築寫眞類聚「書齋と應接の構成[16]」(1932)

書斎と応接の構成1932july

 1932(昭和7)年7月に発行された建築寫眞類聚・第八期・第九輯「書齊と應接の構成」(洪洋社)より、「書齋」(ワルテル・ソボトカ)です。「書見を主とした主人室で、時に應接にも用ひられる。別に見どころとしてはないが、机の位置と書棚との密接な關係が變つた點である。」

建築寫眞類聚「書齋と應接の構成[15]」(1932)

書斎と応接の構成1932july

 1932(昭和7)年7月に発行された建築寫眞類聚・第八期・第九輯「書齊と應接の構成」(洪洋社)より、「書齋の一隅三題」(ウオルフガング及パウル・ホフマン、ヨゼフ・ウルバン、フウ及レスカッツェ)です。「机兼用書棚の形式は澤山あるが、上圖右は机と書棚とが相對的關聯を以て、美しい一種の意匠を形成し、心地よく壁面の空間を占有した最もよき一例である。上圖左は稍相似た單獨の書棚を對照の為めに掲出したもの、下圖は新しい形式を持つ複雑な書棚の例。」

建築寫眞類聚「書齋と應接の構成[14]」(1932)

書斎と応接の構成1932july

 1932(昭和7)年7月に発行された建築寫眞類聚・第八期・第九輯「書齊と應接の構成」(洪洋社)より、「書齋」(E.プリンツ)です。「大書齋の一部を現はしたもの、室の構成としては決して清新とは言へないが、書齋らしい書齋と云ふ點で特に一面大で紹介した。机の甲板を延長した其脚部の折疊みになる構造を注意されたい。」

建築寫眞類聚「書齋と應接の構成[13]」(1932)

書斎と応接の構成1932july

 1932(昭和7)年7月に発行された建築寫眞類聚・第八期・第九輯「書齊と應接の構成」(洪洋社)より、「書齋の一隅三題」(J.ミューレル、パウル・グレッセル、ルドウイヒ・コツマ)です。「上下の二圖は最近流行の机兼用書棚で、中の圖は應接を兼ねたさゝやかな書齋のセツトである。」

建築寫眞類聚「書齋と應接の構成[12]」(1932)

書斎と応接の構成1932july

 1932(昭和7)年7月に発行された建築寫眞類聚・第八期・第九輯「書齊と應接の構成」(洪洋社)より、「書齋二題」(マルセル・ブルーエ、ルイ・ソニョー)です。「フランス構成派の人々の作品、共に、壁面などに一寸した新しい味を見せる外全體としては鋼管家具の清新味が、全空氣を支配してゐる。」 ここでいうマルセル・ブルーエはおそらくハンガリー出身でドイツのバウハウスで活躍したマルセル・ブロイヤー(1902-1981)のことと思われ、フランス構成派というのは誤り。この写真にもあるカンチレバーチェアはいまだに人気の家具です。

建築寫眞類聚「書齋と應接の構成[11]」(1932)

書斎と応接の構成1932july

 1932(昭和7)年7月に発行された建築寫眞類聚・第八期・第九輯「書齊と應接の構成」(洪洋社)より、「書齋」(H.スティファニ)です。「書棚まわりの装飾過剰が、現代眼からは聊か批判さるべきであらうが、其の悠揚たる大觀は、我々の書齋として教へられるべきものがあらう。」

建築寫眞類聚「書齋と應接の構成[10]」(1932)

書斎と応接の構成1932july

 1932(昭和7)年7月に発行された建築寫眞類聚・第八期・第九輯「書齊と應接の構成」(洪洋社)より、「書齋二題」(フランス、H.ルットゲン)です。「上圖、家具其他にフランス特有の溫か味を觀取し得るのであるが、壁面の装飾は、色彩其他の關係で實際觀はよいかも知れぬが、此單色の寫眞では、部屋全體を騒然たらしめた憾みがないでもない。下圖、出窓の際に置かれた穏かな文机、平和な書齋である。」

建築寫眞類聚「書齋と應接の構成[9]」(1932)

書斎と応接の構成1932july

 1932(昭和7)年7月に発行された建築寫眞類聚・第八期・第九輯「書齊と應接の構成」(洪洋社)より、「書齋四題」(ペーター・ベーレンス、リヒアルト・ルーメルシュミツー、ハンス・ブッセル、ハンス・ステールホフ)です。「上圖は或る田園住宅のスタディオで、窓と机の位置、机の清新さ、長方形の本棚と壁面との調和等が、落ち付いた静謐な空氣を醸成する。左中央の圖は、さゝやかな書齋であるが、何となく邦人向のする部屋だ。左下は机、戸棚、書棚等、連續的關係に配置された能率的な設備で右圖は出窓の下を造り付の書棚として、氣のきいた形容を描き出してゐる。」

建築寫眞類聚「書齋と應接の構成[8]」(1932)

書斎と応接の構成1932july

 1932(昭和7)年7月に発行された建築寫眞類聚・第八期・第九輯「書齊と應接の構成」(洪洋社)より、「書齋」(フリッツ・グロッス)です。「室面積が可なり經濟的につかはれ小じんまりと整頓した小住宅向の書齋で全體に小器用さがひらめいている。」

建築寫眞類聚「書齋と應接の構成[7]」(1932)

書斎と応接の構成1932july

 1932(昭和7)年7月に発行された建築寫眞類聚・第八期・第九輯「書齊と應接の構成」(洪洋社)より、「書齋」(フランス)です。「一部に階段昇り口の見ゆる落付のわるさうな變つた書齋である。が恐らく此の階段を昇ると上は主人の寝室であらう。机の配置も普通の書齋の様に、現實的にかたづいて居らぬ所に、反つて清新な空氣が漂つてゐる。」

建築寫眞類聚「書齋と應接の構成[6]」(1932)

書斎と応接の構成1932july

 1932(昭和7)年7月に発行された建築寫眞類聚・第八期・第九輯「書齊と應接の構成」(洪洋社)より、「書齋」(フフランス)です。「部屋の隅二ヶ所に書棚を設け、窓際を植木棚とした賑やかな構成であるが其の獨特な机の配置と、一部書棚との關係も極めて能率的で、一日中の長時間を消費する設備としてうなづかれる手法である。」

建築寫眞類聚「書齋と應接の構成[5]」(1932)

書斎と応接の構成1932july

 1932(昭和7)年7月に発行された建築寫眞類聚・第八期・第九輯「書齊と應接の構成」(洪洋社)より、「書齋」(フリッツ・フッス)です。「主人室の一隅、晴れやかな窓際に文書机を備へた景觀、こだわりのない鷹揚な空間は、悠々自適する事が出來やう。」

建築寫眞類聚「書齋と應接の構成[4]」(1932)

書斎と応接の構成1932july

 1932(昭和7)年7月に発行された建築寫眞類聚・第八期・第九輯「書齊と應接の構成」(洪洋社)より、「書齋」(ローレンス・コーチャー/ゲルハルト・ツィーグラー)です。「圖は建築家のビヂネス・スペースであるが、勿論又書齋としても使はれてゐる。家具其他の清新な構成は、正に我等の書齋として適はしいものである。」

建築寫眞類聚「書齋と應接の構成[3]」(1932)

書斎と応接の構成1932july

 1932(昭和7)年7月に発行された建築寫眞類聚・第八期・第九輯「書齊と應接の構成」(洪洋社)より、「應接を兼ねた書齊」(F.A.ブロイハウス)です。「居間のホールの一側に、本棚、机、椅子、テーブル等を配して、書斎と應接を兼ねしめたもの、机脇壁画の地圖は新しいよい装飾効果を挙げてゐる。此の反對側にはソファー其他の家具の配列が安らかな寛ぎを暗示してゐる。」

建築寫眞類聚「書齋と應接の構成[2]」(1932)

書斎と応接の構成1932july

 1932(昭和7)年7月に発行された建築寫眞類聚・第八期・第九輯「書齊と應接の構成」(洪洋社)より、「書斎」(フランス)です。「ギャラリーを持つ大まかな書斎ではあるが、整頓した書棚と、清新な机と、全體に大書斎としての威容を保ってゐる點が取るべきである。」

建築寫眞類聚「書齋と應接の構成[1]」(1932)

書斎と応接の構成1932july

 1932(昭和7)年7月に発行された建築寫眞類聚・第八期・第九輯「書齊と應接の構成」(洪洋社)より、「書斎」(ジョヨージ・レームス)です。アール・デコからモダニズムに移行中のようなデザインですが、デザイナーの詳細はわかりません。編者コメントが「一九二六年頃の作品としては、穏健で而も清新なものと思ふ。壁面装飾の表現文様も、今の眼で見て、餘り嫌味に見えない所が信条である。」

建築寫眞類聚「書齋と應接の構成」(1932)

書斎と応接の構成1932july

 1932(昭和7)年7月に発行された建築寫眞類聚・第八期・第九輯「書齊と應接の構成」(洪洋社)の表紙です。当時最先端の欧米の書斎や応接室の事例写真集になります。世の中アール・デコが大流行し、その後のモダニズムの萌芽も見られます。家具はともかくこれだけ広い書斎を持てる階級というのは推して知るべしですが。洪洋社は1912(大正元)年に高梨由太郎(1882-1938)さんによって設立され、その後長男の高梨勝重さんに引き継がれ、戦中まで出版活動を続けました。本書の編集発行者は高梨勝重さんになります。

広告「實業之日本社代理部」(1917)

実業之日本社代理部1917sept

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」九月(第十巻第十號)(實業之日本社刊)内の裏表紙裏広告より、「實業之日本社代理部」です。裁縫用具セットと刺繍獨習函です。郵便振替で振り込めば届く通信販売です。当時からこのようなカタログ通信販売は盛んなようです。

雑誌記事「註文の仕方」(1917)

注文の仕方1917sept

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」九月(第十巻第十號)(實業之日本社刊)内の記事より、「註文の仕方」です。いわゆる雑誌の奥付になります。当時の送金方法が郵便(貯金)振込、郵便為替、切手代用(一割増)であることがわかります。これで一年分払い込んで定期購読すれば毎月手元に郵便で届くわけです。

雑誌記事「談話倶樂部」(1917)

談話クラブ1917sept

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」九月(第十巻第十號)(實業之日本社刊)内の記事より、「談話倶樂部」です。いわゆる編集後記です。百年前の大久保の様子が描写されています。「戸山ヶ原」といわれ、森が点在する原っぱが広がっていたようです。

頓智問答「そんなに笑つて顎がはづれたらどうなさいます」(1917)

頓知問答1917sept

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」九月(第十巻第十號)(實業之日本社刊)内の記事より、頓智問答「そんなに笑つて顎がはづれたらどうなさいます」です。今回はこのお題での回答に、◎や○に’など評者によって点数がつけられています。やっぱり評者による返しが面白さの肝ですね。

投書「私の好きな色は、、、、、、」(1917)

私の好きな色1917sept

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」九月(第十巻第十號)(實業之日本社刊)内の記事より、投書「私の好きな色は、、、、、、」です。お題に対する読者からの投稿エッセイです。当時の女学生の色の好みが知れますが、赤、紫、白、ピンクと現在やっても大差ないかもしれません。次回のお題は「私の好きな玩具」だそうです。

投書「圖畫」(1917)

図画1917sept

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」九月(第十巻第十號)(實業之日本社刊)内の記事より、投書「圖畫」です。いわゆる読者投稿の掲載です。読者である女子学生が一生懸命トレースした跡がうかがえます。

雑誌記事「投書規定」(1917)

投書規定1917sept

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」九月(第十巻第十號)(實業之日本社刊)内の記事より、「投書規定」です。少女の友に限らず各少女雑誌は大量の読者投稿がなされていました。そこで見出された女性作家も多かったようです。通常の投稿の他に色々なお題で集めているようです。

懸賞「皿の上の果物」(1917)

皿の上の果物は1917sept

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」九月(第十巻第十號)(實業之日本社刊)内の記事より、懸賞「皿の上の果物」です。ムシを取ったら10になった、元の果物はなんでしょうといういわばナゾナゾです。答えはもしかしてナシ(74)からムシ(64)を取って10という事でしょうか。

出版だより「家庭遊戯・齋藤鹿山」(1917)

家庭遊戯1917sept

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」九月(第十巻第十號)(實業之日本社刊)内の記事より、出版だより「家庭遊戯」(齋藤鹿山)です。家族や友人と遊べるゲームを紹介した「娯楽の巻」の内容の一部を紹介しています。齋藤鹿山(1866-1943)さんは秋田県男鹿生まれで秋田で最初期に西洋画を学んでいますが、その後秋田新聞などを創刊して文筆、作家の道に入ります。

口語詩「子供の賣り方・星野水裏」【その2】(1917)

子供の売り方1917sept

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」九月(第十巻第十號)(實業之日本社刊)内の記事より、口語詩「子供の賣り方」(星野水裏)です。この話の教訓は、もし将来の夢があるならば口に出すべきだという事でしょうか。

口語詩「子供の賣り方・星野水裏」【その1】(1917)

子供の売り方1917sept

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」九月(第十巻第十號)(實業之日本社刊)内の記事より、口語詩「子供の賣り方」(星野水裏)です。口語詩とありますが、その文体は童話のようです。センセーショナルな題名ですが、内容には含蓄があります。

滑稽對話「飛んだ御馳走」【その2】(1917)

飛んだ御馳走1917sept

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」九月(第十巻第十號)(實業之日本社刊)内の記事より、滑稽對話「飛んだ御馳走」(澁澤青花)です。女学生と子供達の工房が終わった後、子供達は悪戯で別荘の表札を華族の物と交換してしまいます。勘違いでやってきたお使いの方とのやりとりが新喜劇のようです。女学生達は子爵様に差し入れられたお菓子を食べてしまい大騒ぎで大団円?です。
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