fc2ブログ

雑誌記事「太公望・棚橋勇吉」(1938)

太公望1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「太公望」(棚橋勇吉)です。千葉県の大原海岸での撮影です。棚橋勇吉(1894?-?)さんは昭和戦前戦中期に活動した写真家でアサヒカメラ誌や少女ク倶楽部誌に多くの写真が掲載されています。
スポンサーサイト



雑誌記事「魚とり・蟲採り」(1938)

魚とり虫採り1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「魚とり」(中居正躬)「蟲採り」(松島年)です。子供達が夏休みでしょうか、遊んでいます。中居正躬(1904-1994)さんは戦前戦後とプロの写真家として活動し、戦後は日本写真芸術専門学校で後進の育成にも勤めました。松島年さんは戦前のアサヒカメラ誌への写真掲載はいくつかありますが詳細はわかりませんでした。

雑誌記事「波上に跳ぶ・重良光」(1938)

波上に飛ぶ1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「波上に跳ぶ」(重良光)です。重良光さんは千葉県鴨川市に在住した写真家で、1936(昭和11)年に設立された千葉県写真連盟の設立にも携わりました。昭和戦前期にアサヒカメラ誌に多くの写真投稿、寄稿をしています。

雑誌記事「海辺の人物」(1938)

海辺の人物

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「海辺の人物」です。写真は上が「海の歡喜」(峰岸威光)、下二枚が<作例>(鹿野寧)です。峰岸さんについては写真家としての情報を見つけられませんでした。

雑誌記事「旅に題材を求めて・日暮正次」(1938)

旅に題材を求めて1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「旅に題材を求めて」(日暮正次)です。写真は旅先で何気なく写した駅ホームの弁当屋や干してある手ぬぐいとか電柱とか。当時は何気ない風景でも現代から見ると貴重な資料です。

雑誌記事「夏の深川・前川直」(1938)

前川直1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「夏の深川」(前川直)です。丸髷和服のお嬢さんが談笑しています。前川直さんについては詳しいことは分かりませんでした。

雑誌記事「夏の深川・宮川曼魚」(1938)

夏の深川1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「夏の深川」(宮川曼魚)です。宮川曼魚(1886-1957)さんは東京日本橋生まれ、鰻屋の子供として生まれ、のちに別の鰻屋を経営する傍、江戸文化研究家として活動しました。

広告「カメラはタムラへ」(1938)

田村日進堂1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の広告より「カメラはタムラへ」(田村日進堂東京支店)です。すでに輸入カメラの統制が始まっており、お金を出しても国内では買えない状況となっているようです。

広告「日本犬」(1938)

日本犬1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の広告より「日本犬」(日本犬柴犬研究所)です。戦前戦中戦後とよく見かける広告です。研究所をなのっていますがただのペット商です。ちなみに磯貝氏は洋犬の販売をする別会社ももっています。

雑誌記事「寫眞思ひ出草・岡本かの子」(1938)

写真思い出草1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「寫眞思ひ出草」(岡本かの子)です。岡本かの子(1889-1939)さんは東京赤坂生まれ、和歌や詩を雑誌投稿して採用されるようになり、また19歳の時に漫画家の岡本一平さんと結婚し、後に芸術家となる岡本太郎さんの母親としても有名です。写真作品は「砂上」(安井仲治)です。安井仲治(1903-1942)は大阪市生まれ、裕福な家庭で育ち10代半ばで写真を始め、関西のアマチュア写真界の中心メンバーとして活躍しました。

雑誌記事「水藝の舞臺・花柳章太郎」(1938)

水芸の舞台1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「水藝の舞臺」(花柳章太郎)です。もうこれは写真と関係ない舞台公演のエッセイになっています。

雑誌記事「一年生の成績報告・日名子實三」(1938)

日名子実三1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「一年生の成績報告」(日名子實三)です。日名子實三(1892-1945)さんは大分県臼杵生まれ、臼杵中学から慶應義塾大學に進学後、中退して入り直した東京美術學校を卒業し彫刻家となりました。日本蹴球協会の八咫烏マークや八紘一宇塔のデザイナーとして有名です。カメラを手にして一年目の感想を述べています。

広告「ビクターカメラ・ウオークス」(1938)

ビクターカメラ1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の広告より「ビクターカメラ・ウオークス」です。「近日発売!!自動捲取装置付ビクラ=シックス」とありますがこれは120フィルムを使った6x6版カメラで、当時のフィルム裏紙にこのサイズの枠の数字が印字されていなかったため、一枚ごとに巻き上げが止まるというストッパーが付いているという意味です。逆に他のカメラは自分で赤窓の数字を見ながら巻き上げレバーを止めねばならず、一枚飛ばしや二重写しは日常茶飯事でした。Victor Cameraは本鳥写真機械工業所のブランドで、戦前多くのスプリングカメラを製造していました。

雑誌記事「キャンプ・塚本閣治」(1938)

キャンプ1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「キャンプ」(塚本閣治)です。戦前も登山やスキーを楽しむ人がいれば、当然キャンプを楽しむ人もいるわけで、大学生を中心にアウトドアは盛んだったようです。

雑誌記事「逆光線の亂舞・白柳秀湖」(1938)

逆光線の乱舞1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「逆光線の亂舞」(白柳秀湖)です。白柳秀湖(1884-1950)さんは静岡県生まれ、早稲田大学を卒業後、一時期社会主義文学を志しますが、その後社会評論家、歴史家として活動しました。

雑誌記事「夏の思ひ出話・河野鷹思」(1938)

夏の思い出話1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「夏の思ひ出話」(河野鷹思)です。写真は唐武さんの尾道近郊の農村風景です。

雑誌記事「農村スケッチ・唐武」(1938)

農村スケッチ1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「農村スケッチ」(唐武)です。唐武(1902-1990)さんは岩手県二戸生まれ、昭和戦前期に「芸術写真」の運動をアマチュア写真家として進めていました。戦後は岩手県盛岡市内に写真館を開業し、営業写真と後進の育成に努めました。作例は原田富夫(1914-1945)さんの「炎天の勞働」です。原田富夫さんは広島県尾道市に生まれ、地元で就職してアマチュア写真家として活動しました。写真も尾道郊外の農村風景です。その後出征して満州に赴きそのまま帰りませんでした。

広告「III型セミプリンス」(1938)

セミプリンス1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の広告より「國産カメラの最高基準品・III型セミプリンス」(藤本寫眞工業)です。レンズとシャッターをドイツ製にしているので高性能をうたっています。

雑誌記事「大阪・小石清」(1938)

大阪1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「大阪」(小石清)です。大阪の天王寺公園より通天閣を望んでいます。

雑誌記事「赤外寫眞・小石清」(1938)

赤外写真1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「赤外寫眞」(小石清)です。小石清(1908-1957)さんは大阪生まれ、高等小学校卒業後、浅沼商会に入社して写真技術を身につけて独立、戦前を代表する写真家の一人となりました。1937(昭和12)年のパリ万国博覧会でのコラージュ写真展示にも参加しています。

広告「カメラの附属品は何でもクロバーで」(1938)

クロバー1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の広告より「代表的國産品・カメラの附属品は何でもクロバーで」(萩工業貿易株式會社寫眞部)です。この時期、クロバーは萩工業貿易のブランドで、カメラやその附属品は国産で、ラジオなどは輸入販売していました。

雑誌記事「海水浴スナップ・吉田裕彦」(1938)

海水浴スナップ1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「海水浴スナップ」(吉田裕彦)です。吉田裕彦さんはこの頃盛んに作品を発表されていますが、詳細はわかりませんでした。

雑誌記事「夢水泳・木村荘八」(1938)

夢水泳1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「夢水泳」(木村荘八)です。木村荘八(1893-1958)さんはいろは牛肉店創業者の妾腹の子として東京日本橋生まれ、中学卒業後白馬会で絵画を学び、画家となりました。写真は吉田裕彦さんの撮影で「鵠沼海岸にて」です。

雑誌記事「海上旅行の撮影・金丸重嶺」(1938)

海上旅行の撮影1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「海上旅行の撮影」(金丸重嶺)です。船上での撮影のコツを書いてあります。金丸さんはこの号の表紙のカラー写真も撮っています。

雑誌記事「サバクカメラ行・横山隆一」(1938)

サバクカメラ行1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「サバクカメラ行」(横山隆一)です。漫画家の横山隆一さんがサバクに撮影旅行に行った体でルポ漫画をかいていますが、どう見ても資料写真を組み合わせたナンセンス漫画です。

雑誌記事「夏の露出表」(1938)

夏の露出表1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「夏の露出表」です。夏場(晴れの昼間)における標準フィルム(DIN16/10)の絞りとシャッター速度の組み合わせを作例を踏まえて示しています。DIN16/10はドイツ工業規格の対数感度で、ASA(=ISO)換算で32です。デジタル時代にはあまりピンとこないかもしれません。

雑誌記事「商業寫眞・大門八郎」(1938)

商業写真1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「商業寫眞」(大門八郎)です。大門八郎さんはこの時期のカメラ雑誌に名前が見られますが、詳細はわかりませんでした。

雑誌記事「健康美と裸體美・田中敏男」(1938)

健康美と裸体美1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「健康美と裸體美」(田中敏男)です。モデルはアメリカの映画女優ディアナ・ダービンさんです。田中敏男さんは銀座で1933(昭和8)年頃から戦中まで「ルパン」という喫茶店を営んでいたアマチュアの写真家で、写真評論もよく行っていたため、この喫茶店は写真家のたまり場となっていました。

雑誌記事「浴衣模様・日暮正次」(1938)

浴衣模様1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「浴衣模様」(日暮正次)です。浴衣の線画が書いてありますが、よく見るとこの模様は葦簀ばりに縞模様の影が落ちているのがまるで浴衣のように見えるという仕掛けです。

雑誌記事「夏山の花を撮る・黒田米子」(1938)

夏山の花を撮る1938jun

 1938(昭和13)年6月に発行された「アサヒカメラ・夏の特別號」(東京朝日新聞社)内の記事より「夏山の花を撮る」(黒田米子)です。黒田(村井)米子(1901-1986)さんは神奈川県にジャーナリストの村井弦斎の長女として生まれ、東京女子大学を卒業後、随筆家となり、その後NHKに就職してディレクターとなりました。また女性登山家の草分けとしても知られていました。
プロフィール

nao_koba

Author:nao_koba
昭和モダンの世界へようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
from 2012/2/20
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR