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広告「幼年の友・涼み湧く八月號」(1917)

幼年の友1917aug

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」八月(第十巻第九號)(實業之日本社刊)内の広告より「幼年の友・涼み湧く八月號」(實業之日本社)です。これは自社の雑誌の広告です。「豚の大しくじり」は何をしくじったのでしょうか、気になります。
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広告「日本少年・八月夏休み號」(1917)

日本少年1917aug

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」八月(第十巻第九號)(實業之日本社刊)内の広告より「日本少年・八月夏休み號」(實業之日本社)です。すでに日本アルプスという名前が定着しているようです。

広告「少女畫報・少女新聞」(1917)

東京社1917aug

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」八月(第十巻第九號)(實業之日本社刊)内の広告より「少女畫報・少女新聞」(東京社)です。少女新聞は1916(大正5)年に創刊された少女向け新聞のようですが、あまり長続きはしなかった模様です。

広告「新少女・八月號」(1917)

新少女1917aug

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」八月(第十巻第九號)(實業之日本社刊)内の広告より「新少女・八月號」(婦人之友社)です。他の少女雑誌に比べて教訓臭が強そうで、長続きしなかったのはこのせいでしょうか。

寫眞口繪「金魚」(1917)

金魚1917aug

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」八月(第十巻第九號)(實業之日本社刊)内の寫眞口繪より「金魚」です。二重撮影による合成だそうです。女の子は浴衣、男の子は洋服にスモッグのようです。

寫眞口繪「伊香保と榛名」(1917)

伊香保と榛名1917aug

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」八月(第十巻第九號)(實業之日本社刊)内の寫眞口繪より「伊香保と榛名」です。いかにも大正時代らしい麻の背広とカンカン帽スタイルで観光地を巡っています。

寫眞口繪「池の翠」(1917)

池の翠1917aug

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」八月(第十巻第九號)(實業之日本社刊)内の寫眞口繪より「池の翠」です。身なりの良い子供達が麹町の清水谷公園の池で遊んでいます。現在も東京都千代田区紀尾井町にある公園で、もともと紀州徳川家のお屋敷で明治には大久保利通公が暗殺時に使っていました。市に寄贈され公園として整備されて1890年に公開されています。

広告「赤い椿・お伽夜話」(1917)

赤い椿1917aug

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」八月(第十巻第九號)(實業之日本社刊)内の広告より「赤い椿・星野水裏先生著/お伽夜話・岩下小葉先生著」(實業之日本社)です。どちらも重版の広告で、ベストセラーのようです。

広告「幼きものに・島崎藤村先生新著」(1917)

幼きものに1917aug

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」八月(第十巻第九號)(實業之日本社刊)内の広告より「幼きものに・島崎藤村先生新著」(實業之日本社)です。島崎藤村(1972-1943)さんは現在の岐阜県中津川市に生まれ、明治學院本科を卒業後、教師をしながら随筆や詩を発表しました。その後小説に転向し人気作家となりました。

広告「來大正七年度・入學準備講習録」(1917)

入学準備講習録1917aug

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」八月(第十巻第九號)(實業之日本社刊)内の広告より「來大正七年度・中學校高等女學校入學志望者用・入學準備講習録」(南海書院)です。いわゆる受験参考書でしょうか。すでに受験戦争は明治期から始まっていますので、学校制度と受験対策は切っても切れない関係の様です。

広告「少女・八月號」(1917)

少女1917aug

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」八月(第十巻第九號)(實業之日本社刊)内の広告より「少女・八月號」(時事新報社)です。「日本一の少女雑誌」を名乗っていますが、ライバル誌の紙面上でどの様な根拠で言っているのでしょうか。

雑誌口繪「欄に倚りて」(1917)

欄に倚りて1917aug

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」八月(第十巻第九號)(實業之日本社刊)内の原色版口繪より「欄に倚りて」(篠田十一郎畫)です。浴衣を着た姉妹でしょうか、白砂青松、心地好さそうです。足の指の表現が良いですね。

広告「笑の爆弾」(1917)

笑の爆弾1917aug

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」八月(第十巻第九號)(實業之日本社刊)内の広告より「滑稽小説・笑の爆弾・松山思水先生著」(實業之日本社)です。「さあさあお笑ひ下さい何よりの暑氣拂ひ」「抱腹絶倒お臍の宙返り請合と云ふ二十六篇の傑作を集めたものです.笑へるか笑へぬか物はためし是非お讀み下さい.」

雑誌口繪「江の島へ」(1917)

江の島へ1917aug

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」八月(第十巻第九號)(實業之日本社刊)内の原色版口繪より「江の島へ」(淺井みつい:作)です。淺井三井さんは日本画家の尾竹越堂(1868-1931)さんの三女として生まれ、日本画家の浅井県竹さんの養女となり、のちに日本画家の野口謙次郎に嫁ぎました。作家の有島武郎(1878-1923)さんとの交友で有名です。

広告「レート水白粉」(1917)

レート水白粉1917aug

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」八月(第十巻第九號)(實業之日本社刊)内の広告より「レート水白粉」(平尾賛平商店)です。「暑中のお嗜みに何品より大切な日焦を防ぎわざとらしいいや味なくお顔を美しくする」そうです。

広告「帝國習字速成學會」(1917)

悪筆矯正器1917aug

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」八月(第十巻第九號)(實業之日本社刊)内の広告より「悪筆」(帝國習字速成學會)です。悪筆矯正器なるものがどのようなものかわかりませんが、面白くて涼しいと謎のような形容詞です。

広告「實業之日本社代理部」(1917)

實業之日本社代理部1917aug

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」八月(第十巻第九號)(實業之日本社刊)の裏表紙裏広告より「實業之日本社代理部」です。本立てと文鎮のセットと、「都琴」とありますが現在大正琴として知られている楽器です。本当に大正時代に発明されています。

広告「三越呉服店」(1917)

三越呉服店1917aug

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」八月(第十巻第九號)(實業之日本社刊)の表紙裏広告より「三越呉服店」です。夏物や水着の広告です。暑中休暇が当時どのくらいあったのか気になるところです。しかしイラストの海は少し波が荒すぎて遊べる感じではありません。

広告「クラブ白粉」(1917)

クラブ白粉1917aug

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」八月(第十巻第九號)(實業之日本社刊)の裏表紙広告より「クラブ白粉」(中山太陽堂)です。水着で太陽の下にいますが、美白をうたっています。海にはヨットがいますが大正前期にすでに海といえばヨットのイメージなのでしょうか。

雑誌「少女の友・八月」(1917)

少女の友八月1917aug

 1917(大正6)年に発行された「少女の友」八月(第十巻第九號)(實業之日本社刊)です。表紙絵は川端龍子さんです。この本が発行された頃はヨーロッパでは第一次世界大戦が膠着状態になっていますが、ロシアで革命が発生しケレンスキー政権が立ち上がった頃です。

広告「カメラはムサシ」(1936)

カメラはムサシ1936dec

 1936(昭和11)年12月に発行された雑誌「アサヒカメラ臨時増刊・アマチュア冬の寫眞術」(朝日新聞社)内の広告より「カメラはムサシ」(無三四堂本店)です。四谷三丁目交差点に同名のカメラ店が存在するので、関係があるのではないでしょうか。

広告「アルマートDIII」(1936)

田村日進堂1936dec

 1936(昭和11)年12月に発行された雑誌「アサヒカメラ臨時増刊・アマチュア冬の寫眞術」(朝日新聞社)内の広告より「アルマートDIII」(田村日進堂東京支店)です。フィルムから印画紙に像を引き伸ばして焼き付ける機械です。御徒町駅近くの広小路交差点に日進堂ビルという雑居ビルがありますのでおそらくそこにあったのではないでしょうか。御徒町周辺には中古カメラ店が現在も多いです。

広告「九ミリ半撮影機・H型モートカメラ」(1936)

伴野貿易1936dec

 1936(昭和11)年12月に発行された雑誌「アサヒカメラ臨時増刊・アマチュア冬の寫眞術」(朝日新聞社)内の広告より「佛國パテー社新製品・九ミリ半撮影機・H型モートカメラ」(伴野貿易株式會社)です。当時の一番小型なムービーカメラ規格は9.5mmでパテー社はその代表的なメーカーでした。16mmフィルムに往復2列(A面B面のように)撮影する8mm規格はありましたが。

広告「最新型高級カメラ・髙野寫眞機店」(1936)

高野写真機店1936dec

 1936(昭和11)年12月に発行された雑誌「アサヒカメラ臨時増刊・アマチュア冬の寫眞術」(朝日新聞社)内の広告より「最新型高級カメラ」(髙野寫眞機店)です。現在岩本町一丁目交差点脇には「にっしんカメラ」という中古カメラ店が存在していますが、何か関係があるのでしょうか。

広告「最新型カメラフイルター」(1936)

双美商会1936dec

 1936(昭和11)年12月に発行された雑誌「アサヒカメラ臨時増刊・アマチュア冬の寫眞術」(朝日新聞社)内の広告より「最新型カメラフイルター」(双美商会)です。イラストのカメラはドイツのツァイスイコン社製コンタックスII型ですが流石にロゴは消されています。

雑誌記事「スキーを履かう・塚本閣治」(1936)

スキーを履こう1936dec

 1936(昭和11)年12月に発行された雑誌「アサヒカメラ臨時増刊・アマチュア冬の寫眞術」(朝日新聞社)内の記事より「スキーを履かう」(塚本閣治)です。塚本閣治(1896-1965)さんは印刷会社の社長の次男として生まれ、高等小学校在学中から小型シネフィルムを撮り始め、山岳写真家、映画監督として戦前戦後通して活躍された方で、多くの山岳映画、写真、著作を残しています。全日本山岳写真協会の初代会長でもあります。

雑誌記事「冬の室内撮影・熊谷辰男」(1936)

冬の室内撮影1936dec

 1936(昭和11)年12月に発行された雑誌「アサヒカメラ臨時増刊・アマチュア冬の寫眞術」(朝日新聞社)内の記事より「冬の室内撮影」(熊谷辰男)です。写真のモデルとなった堀一郎氏が柳田國男門弟の民俗学者(1910-1974)だとすると撮影当時は20代のはずですが、そうは見えません。そもそも大学院出たての少壮学者の筈ですので、別人でしょうか。

雑誌記事「人物撮影と冬・成田隆吉」(1936)

人物撮影と冬1936dec

 1936(昭和11)年12月に発行された雑誌「アサヒカメラ臨時増刊・アマチュア冬の寫眞術」(朝日新聞社)内の記事より「人物撮影と冬」(成田隆吉)です。成田隆吉(1895-?)さんは戦前に人物写真の専門家として活躍した写真家で、著書もいくつか出版されています。

雑誌記事「スキー写真術・堀野正雄」(1936)

スキー写真1936dec

 1936(昭和11)年12月に発行された雑誌「アサヒカメラ臨時増刊・アマチュア冬の寫眞術」(朝日新聞社)内の記事より「スキー写真術 ースキーテクニックのためにー」(堀野正雄)です。作例としてスキーヤーとシュプールの形の面白さや、列車を待つスキーヤー達の姿が印象的です。

雑誌記事「閃光撮影の知識・渡辺義雄」(1936)

閃光撮影1936dec

 1936(昭和11)年12月に発行された雑誌「アサヒカメラ臨時増刊・アマチュア冬の寫眞術」(朝日新聞社)内の記事より「閃光撮影の知識」(渡辺義雄)です。フラッシュ撮影はシンクロ端子がなかった時代は大変だったと思います。
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