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広告「セミ・プラウド」(1936)

セミプラウド1936dec

 1936(昭和11)年12月に発行された雑誌「アサヒカメラ臨時増刊・アマチュア冬の寫眞術」(朝日新聞社)内の広告より「セミ・プラウド」(山下友治郎商店)です。セミ版(6x4.5)の120ロールフィルムを使うカメラの広告です。プラウドというブランドは隅田光機製作所の製品になります。山下友治郎商店は戦前のカメラ材料卸問屋で、戦後は中央写真用品株式会社になりました。
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広告「マツダ引伸用寫眞電球」(1936)

マツダランプ1936dec

 1936(昭和11)年12月に発行された雑誌「アサヒカメラ臨時増刊・アマチュア冬の寫眞術」(朝日新聞社)内の広告より「マツダ引伸用寫眞電球・マツダ引伸用スヰッチ」(東京電氣株式會社)です。マツダは後に東芝に合併される同社の電球のブランドです。

広告「オプトクローム社」(1936)

オプトクローム1936dec

 1936(昭和11)年12月に発行された雑誌「アサヒカメラ臨時増刊・アマチュア冬の寫眞術」(朝日新聞社)の裏表紙裏広告より「オプトクローム社」です。オプトクローム社は後に「ツバサ」ブランドの各サイズのスプリングカメラを上市しています。おそらくこのブローニー半裁版のセミカメラがその走りではないでしょうか。

広告「フオス・フレツクス」(1936)

フォスフレックス1936dec

 1936(昭和11)年12月に発行された雑誌「アサヒカメラ臨時増刊・アマチュア冬の寫眞術」(朝日新聞社)の表紙裏広告より「FOTH-FLEX/フオス・フレツクス」(日瑞貿易株式會社)です。日瑞貿易はGebrüder Volkartの日本法人で、大阪に1919(大正8)年に設立されました。前の資料では浅沼商會が輸入していましたが、別の業者も輸入していたようです。

広告「さくらフヰルム」(1936)

さくらフィルム1936dec

 1936(昭和11)年12月に発行された雑誌「アサヒカメラ臨時増刊・アマチュア冬の寫眞術」(朝日新聞社)の裏表紙広告より「さくらフヰルム」(六櫻社)です。「白銀に踊る!」とスキーの写真を掲載していますが、どう見ても転んだところです。

雑誌「アマチュア冬の寫眞術」(1936)

冬の写真術1936dec

 1936(昭和11)年12月に発行された雑誌「アサヒカメラ臨時増刊・アマチュア冬の寫眞術」(朝日新聞社)です。夏号に引き続いて発行された冬の撮影でのプロの写真の作例や、様々なノウハウが記載された増刊号の表紙です。

雑誌記事「讀者と記者」(1915)

読者と記者1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「讀者と記者」です。編集部に投稿された読者の感想文などを掲載しています。戦前の少女雑誌で特徴的なのはこの読者交流欄の充実で、各地方で読者大会なども開催されました。いまで言う所の「オフ会」と言ったところでしょうか。

雑誌記事「ものはづけ」(1915)

ものはづけ1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「ものはづけ」です。「物は付け」とは「〜するものは」という問いかけに対して気の利いた答えをするという言葉遊びです。元々は江戸時代に始まった俳句で返す遊びだったようです。

雑誌記事「一口ばなし」(1915)

一口ばなし1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「一口ばなし」です。読者投稿による小話です。現代でも雑誌やラジオにありそうな内容ですね。

雑誌記事「懸賞繪探し」(1915)

懸賞絵探し1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「懸賞繪さがし」です。この絵の中に風景以外が隠されているという趣向です。手前の山並みが女性の横顔に見えるというところでしょうか。

雑誌讀物「少女小説・雨よ風よ【その3】」(1915)

雨よ風よ1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の讀物より「少女小説・雨よ風よ」(江見水蔭)です。やはり囚われの身の少女と出会ったお嬢様は、ここが謎の組織のアジトで、自分たちは外国に売り飛ばされるかもという事を聞かされます。

雑誌讀物「少女小説・雨よ風よ【その2】」(1915)

雨よ風よ1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の讀物より「少女小説・雨よ風よ」(江見水蔭)です。攫われたお嬢様は薬は嗅がされていたようですがどうやら無事のようです。内房の海岸沿いの屋敷に閉じ込められているようです。

雑誌讀物「少女小説・雨よ風よ【その1】」(1915)

雨よ風よ1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の讀物より「少女小説・雨よ風よ」(江見水蔭)です。覆面の怪人達にお嬢様を拉致されてしまったようです。大正一桁ですが、電報も電話もあります。

雑誌記事「わらびのかね」(1915)

わらびのかね1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「わらびのかね」(渡間小尾)です。渡間小尾さんは大正期の少女画報に多くのエッセイを発表していますが、詳細はわかりませんでした。

雑誌讀物「少女小品・月のロマンス【その2】」(1915)

月のロマンス1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の讀物より「少女小品・月のロマンス」(山内あきを)です。月の光の下で様々な物語に思いを凝らす少女の図です。

雑誌讀物「少女小品・月のロマンス【その1】」(1915)

月のロマンス1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の讀物より「少女小品・月のロマンス」(山内あきを)です。山内あきをさんはこの時期の少女画報に何作か作品を発表していますが詳細は不明です。

広告「美顔白粉」(1915)

美顔白粉1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の広告より「美顔白粉」(桃谷順天館)です。昭和の広告でも科学的な根拠をうたっていますが、すでに大正初期から「學者が創製したる」と開発した博士の実名を挙げています。

雑誌讀物「少女小説・黒髪船長(二)【その3】」(1915)

黒髪船長1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の讀物より「少女小説・黒髪船長(二)」(石塚月亭)です。父の夢枕に日出子さんの本当のお母さんが立ったようです。

雑誌讀物「少女小説・黒髪船長(二)【その2】」(1915)

黒髪船長1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の讀物より「少女小説・黒髪船長(二)」(石塚月亭)です。少女小説にありがちな、色々問題を抱えた家庭のようです。

雑誌讀物「少女小説・黒髪船長(二)【その1】」(1915)

黒髪船長1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の讀物より「少女小説・黒髪船長(二)」(石塚月亭)です。石塚月亭(1883-?)さんは鹿児島県に生まれ、作家、編集者として大正時代に活躍後、鹿児島に戻って三州社の社長となり昭和40年代まで雑誌「三州」の主筆として地元の文化発展に貢献しました。

雑誌記事「向島の秋色」(1915)

向島の秋色1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「向島の秋色」(和田古江)です。編集者男三人で震災前の東京ルポルタージュです。

雑誌記事「懸賞判じ繪」(1915)

懸賞判じ絵1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「懸賞判じ繪」です。これはなかなか難しいですね。

雑誌讀物「少女小説・秋雨降る夜【その3】」(1915)

秋雨降る夜1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の讀物より「秋雨降る夜」(瀬戸滄煙)です。まだ電気が普及しておらず、灯油ランプで居間を照らしています。考えてみれば「灯油」って今だに使われていますね。

雑誌讀物「少女小説・秋雨降る夜【その2】」(1915)

秋雨降る夜1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の讀物より「秋雨降る夜」(瀬戸滄煙)です。挿し絵の作者のクレジットはありません。当時の家庭の台所は床に座って調理していました。

雑誌讀物「少女小説・秋雨降る夜【その1】」(1915)

秋雨降る夜1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の讀物より「秋雨降る夜」(瀬戸滄煙)です。瀬戸滄煙さんは少女画報を中心にこの頃小説を書いていたようですが詳細は不明です。

雑誌記事「薩摩芋のお料理」(1915)

薩摩芋のお料理1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「薩摩芋のお料理」(指原乙子)です。帝國女子割烹學校講師の指原乙子さんは大正から昭和にかけて多くの料理本を執筆しています。その肩書きも東京女子割烹学校校長や女子美術学校講師など様々です。

雑誌記事「平常着の始末」(1915)

平常着の始末1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「平常着の始末」(手塚かね子)です。日本女子大學教授の手塚かね子さんは西洋料理研究でも知られ、多くのレシピ本も出版しています。

雑誌讀物「少女奇談・美しき迎船」(1915)

美しき迎え船1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の讀物より「少女奇談・美しき迎船」(小野小峡)です。小野小峡さんは大正期に多くの小説、翻訳、書評を発表しています。

雑誌記事「寫眞行脚・暁華生」(1915)

写真行脚1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「寫眞行脚」(暁華生)です。いわゆる写真日記ルポといったところでしょうか、日比谷公園、向島、新子安海水浴場の少女たちです。

雑誌讀物「少女小説・小鳥の歌」(1915)

小鳥の歌1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の讀物より「少女小説・小鳥の歌」(尾島菊子)です。尾島菊子(1884-1956)さんは富山県生まれ、徳田秋声さんに師事し新聞の懸賞小説に入選して小説家となりました。結婚後筆名を「小寺菊子」に変更しています。
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