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雑誌讀物「林子さんの秋の歌」(1915)

林子さんの秋の歌1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の讀物より「林子さんの秋の歌」(古江生)です。古江生さんはこの時期の少女画報に多くの詩を発表していますが詳細は不明です。
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雑誌讀物「小品・青い橘」(1915)

青い橘1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の讀物より「小品・青い橘」(伊澤みゆき)です。伊澤みゆきさんはこの頃少女画報にて小説を多く発表していました。

雑誌記事「ゆく秋のあはれ」(1915)

ゆく秋のあはれ1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「ゆく秋のあはれ ー少女文話その一〇ー」(内海月杖)です。内海月杖(1872-1935)さんは神奈川県生まれ、東京帝国大學文科大學を卒業後、あさか社や明星で歌人として活躍、国文学者としても後に明治大学教授となり活躍しました。また東京六大学野球リーグ創設者としても有名。

雑誌記事「ポンチ・玉子焼」(1915)

玉子焼1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「ポンチ・玉子焼」(こでらけん)です。慌て者で落ち着きのない花子さんのお話です。目次にはポンチとあります。作者の「こでらけん」さんはこの時期に少女画報の表紙の多くを書いている洋画家の小寺謙吉(1887-1977)さんではないかと思われます。小寺さんは岐阜県生まれ、東京美術学校を卒業後フランスに留学し、帰国後多くの展覧会に入選して著名画家となりました。

雑誌讀物「少女小説・兄と妹」(1915)

兄と妹1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の讀物より「少女小説・兄と妹」(田村俊子)です。少女向け連載小説です。田村俊子(1884-1945)さんは東京浅草生まれ、府立第一高女卒業後、作家を志して幸田露伴の弟子になります。女優を経て作家としてデビューし人気作家となりました。

雑誌讀物「豊後のお竹」(1915)

豊後のお竹1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の讀物より「豊後のお竹」(村上武三郎)です。村上武三郎さんはこの頃、少女画報に何作か発表していますが、詳細はわかりませんでした。

雑誌記事「繪行脚・岡蔭葉」(1915)

絵行脚1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「繪行脚」(岡蔭葉)です。いわゆる絵日記ルポといったところでしょうか、女性たちの目に留まった日常を描いています。作者についての詳細はわかりませんでした。

雑誌記事「紡績會社の女工【その2】」(1915)

紡績会社の女工1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「紡績會社の女工 ー 働く少女その二 ー 」(和田古江)です。当時としては環境が悪いのは当たり前なので特に指摘はしていませんが、12時間の労苦の報酬は金銭的には僅かであると言い切っています。働いている少女たちの服装が、和服で帯はお太鼓、頭は丸髷と全く働くような格好ではありません。

雑誌記事「紡績會社の女工【その1】」(1915)

紡績会社の女工1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「紡績會社の女工 ー 働く少女その二 ー 」(和田古江)です。こちらはいわゆる女工哀史の世界です。和田古江さんは雑誌「コドモノクニ」の編集主任として有名な編集者です。

雑誌讀物「火の種」(1915)

火の種1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の讀物より「火の種」(小林永二郎:作)です。小林永二郎さんは大正から昭和にかけて活躍した挿絵画家、漫画家です。

雑誌中表紙「少女画報第四巻第十號」(1915)

少女画報中表紙1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)の中表紙です。バックのイラストや挿入されている写真についての説明はありません。秋の川辺の風景をモチーフにしたのでしょうか。

雑誌記事「懸賞寫眞」(1915)

懸賞写真1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「懸賞寫眞」です。謎の合成写真ですが、この子供の前の巨大な生き物の名前を書いて、正解すれば抽選で賞品がもらえるそうです。

雑誌記事「働く少女」(1915)

働く少女1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「働く少女」です。高等小学校に通いながら納豆売りをしている14歳(数えなので満だと12-3歳でしょうか)の少女です。義務教育を終えているので家計を助けるために働かなければなりません。20世紀初頭ではまだ世界的にも当たり前の光景です。背景の下渋谷とはまだ豊多摩郡渋谷町時代の現在でいう代官山辺りの住宅街となります。

広告「琴の譜」(1915)

琴の譜1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の広告より「琴の譜」(東京社)です。琴の独習者向けテキストのようです。著者の鈴木皷村(1875-1931)さんは宮城県生まれ、箏曲、洋楽を学び新箏曲を提唱して京極流の始祖となりました。

広告「女子日用文・少女手紙の文」(1915)

辰文館1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の広告より「女子日用文・少女手紙の文」(辰文館)です。辰文館は明治後期から大正期に東京に存在した出版社ですが、関東大震災以降は不明です。

雑誌記事「河邊」(1915)

河辺1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「河邊」です。河のほとりに佇む北米の少女二人です。お揃いの服に採集スタイルで何を採っているのでしょうか。

雑誌記事「葡萄園」(1915)

葡萄園1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「葡萄園」です。茨城県牛久にある神谷シャトーの葡萄園です。遠くにシャトーカミヤ本館が見えます。とても日本の風景には見えません。明治末にこの農園が完成した時は驚かれたでしょうね。

雑誌記事「高原の秋」(1915)

高原の秋1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「高原の秋」です。良家の子女の皆さんが秋の軽井沢を散策しています。当時の流行りの髪型が特徴的です。

広告「少女の友・十月號」(1915)

少女之友1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の広告より「少女の友・十月號」(實業之日本社)です。これもライバル雑誌の広告です。学校の先生におる美談紹介のような記事が多いようです。

広告「少女・十月號」(1915)

少女十月号1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の広告より「少女・十月號」(時事新報社)です。これもライバル雑誌の広告です。秋の七草の「秋」がなぜか落ちています。

広告「少女世界・十月號」(1915)

少女世界10月号1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の広告より「少女世界・十月號」(博文館)です。当時はライバル雑誌の広告を平気で載せていました。作家陣に早くも吉屋信子さんの名があります。

広告「習字の速進法」(1915)

大日本習字速進会1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の広告より「習字の速進法」(大日本習字速進會)です。以前紹介した帝國習字速成學會とは別団体のようです。それだけ手習いの需要があったということでしょうか。

雑誌記事「縄飛」(1915)

縄跳1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「縄飛」です。どう見ても走高跳ですが、確かにバーではなく重りをつけた縄になっています。当時まだ女子スポーツには世間の抵抗が強く、オリンピックの陸上競技に女子選手が参加できたのは1928(昭和3)年のアムステルダム大会からでした。

寫眞小説「虚榮の夢(二)」(1915)

虚栄の夢1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より寫眞小説「虚榮の夢(二)」です。作者のクレジットはありません。わがまま娘、病気の母をほったらかしにして、ちょっと浅草に活動写真を見に行っている間に母親の容体が急変(そんなに悪かったの?)してお亡くなりに!わがまま娘は心を入れ替えてめでたしめでたし、という教訓話??。大正前半に、すでに浅草での活動写真が庶民の娯楽になっています。

寫眞小説「虚榮の夢(一)」(1915)

虚栄の夢1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より寫眞小説「虚榮の夢(一)」です。作者のクレジットはありません。典型的なセレブのわがまま娘登場です。

雑誌記事「世界一週」(1915)

世界一周1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の記事より「世界一週」です。巴里(パリ)、伯林(ベルリン)、倫敦(ロンドン)、維納(ウィーン)、彼得倶羅土(ペトログラード)、紐育(ニューヨーク)の街の様子ですが、第一次世界大戦が始まって一年以上経っているはずなのにまるで何もないかのような記事です。 日本はノンキなものだったのでしょうか。

広告「新少女・秋期特別號」(1915)

新少女1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の広告より「新少女・秋期特別號」(婦人之友社)です。「新少女」は1915(大正4)年から1919(大正8)年までの5年間存在した少女向け雑誌です。婦人之友社は1903(明治36)年に羽仁もと子、吉一夫妻によって創立された出版社で、現在も存続しています。

広告「ホーカー液」(1915)

ホーカー液1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の広告より「東京で一番よく賣れる美人となるホーカー液」(堀越二八堂)、第二回懸賞「手輕な化粧法」當選發表です。なんと数千通の応募があったそうです。

広告「大日本實修女學會」(1915)

大日本実修女学会1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)内の広告より「大日本實修女學會」です。当時はやった講義録による通信教育で、修了すると高等女学校卒業クラスの教養が得られるといううたい文句です。家庭や経済的事情で進学できないけれども向学心がある方が多かったのでこういう商売も成り立ったのでしょうか。大日本実修女学会は実践女子学園の創設者である下田歌子(1854-1936)さんによって設立された通信教育です。

雑誌口繪「山羊」(1915)

山羊1915oct

 1915(大正4)年10月に発行された「少女畫報」(第四年第十號秋季特別號)(東京社刊)の寫眞口繪「山羊」です。自宅の庭先でペットの山羊と戯れる三姉妹という設定です。
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