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名士動物見立圖「これは誰?清水崑【その3】」(1938)

これは誰?1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内 の記事、名士動物見立圖「これは誰?」(清水崑:作)より、 「⑨燕ー上原謙、⑩龜ー柳家小さん、(11)兎ー長谷川一夫(林長二郎改め)、(12)白熊ー杉村陽太郎」です。(4代目)柳家小さん(1888-1947)さんは東京麹町生まれ、身体を壊して進学を断念し奉公に出た後、先代小さんに弟子入りして落語家を目指し1928(昭和3)年に4代目小さんを襲名しました。杉村陽太郎(1884-1939)さんは外交官を父として東京に生まれ高等師範附属中學、第一高等學校から東京帝國大學法學部を卒業後、外務省に入省し外交官として活躍、IOC委員なども歴任しました。
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名士動物見立圖「これは誰?清水崑【その2】」(1938)

これは誰?1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内 の記事、名士動物見立圖「これは誰?」(清水崑:作)より、 「⑤金魚ー三宅邦子、⑥貂ー丹羽文雄、⑦豹ー双葉山、⑧インコー松井翠聲」です。双葉山定次(1912-1968)さんは大分県宇佐生まれ、家業の手伝いをしていたが地元のアマチュア相撲大会で注目され立浪部屋に入門し頭角を現し横綱となり、今だに破られていない69連勝を成し遂げました。松井翠聲(1900-1973)さんは東京生まれ、早稲田大學を卒業後、外国無声映画の弁士となり、トーキー化後は漫談家、俳優として活躍しました。

名士動物見立圖「これは誰?清水崑【その1】」(1938)

これは誰?1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の記事、名士動物見立圖「これは誰?」(清水崑:作)より、「①海豹ー鮎川義介、②狆ー勝太郎、③犬ー村社講平、④狸ー木村義雄」です。鮎川義介(1880-1967)さんは山口県生まれ、東京帝國大學工科大學を卒業後、芝浦製作所を経て戸畑鋳物(現在の日立金属)を設立し、その後続々創業して日産コンツェルンを作り上げました。小唄勝太郎(1904-1974)さんは新潟県生まれ、芸者となって上京し小唄が評判となってレコードデビューして人気歌手となりました。村社講平(1905-1998)さんは宮崎県生まれ、宮崎中学でマラソン大会で優勝して注目され、中央大學法學部に進学して在学中にベルリンオリンピック代表や箱根駅伝の選手となり、卒業後は川崎重工業に就職して選手として活躍、陸軍への応召を経て戦後は毎日新聞社に就職してマラソンの発展や後進の育成に努めました。木村義雄(1905-1986)さんは東京本所生まれ、慶應普通部に通いながら将棋の修行に努め15歳で四段(プロ入り)し、多くのタイトルを得て十四世永世名人となりました。

広告「野球界・六月號」(1938)

野球界六月號1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の広告より、「野球界・六月號」(野球界社博文館)です。プロ野球はまだ今ほど人気はなく、話題の中心は東京六大学野球です。また半分は相撲記事のようです。

広告「森永ゆであづき」(1938)

森永ゆであづき1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の広告より、「森永ゆであづき」(森永食品工業株式會社)です。「みんなが皆な褒める」「口にあまへる團欒の味」だそうです。

広告「ライトインキ」(1938)

ライトインキ1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の広告より、「ライトインキ」(篠崎インキ製造株式會社)です。「天下一品一家一瓶」「世界をライト一色に!!」だそうです。

広告「講談雑誌六月號」(1938)

講談雑誌1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の広告より、「講談雑誌六月號」(博文館)です。片岡貢さんの「金色大盗傳」がピックアップされています。

広告「春は…健康の危機!」(1938)

ハリパ1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の広告より、「春は…健康の危機!」(田辺元三郎商店)です。記事の体裁を取っていますが、ビタミン剤の肝油製剤「ハリパ」の広告です。「ハリパ」は当時の田辺元三郎商店(現:田辺三菱製薬)の大ヒット商品で、開発を手掛けた内藤豊次さんはのちに独立してエーザイを創業します。

広告「ポンジー」(1938)

ポンジー1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の広告より、「ポンジー」(岡本信太郎商店)です。「素肌が荒れぬ様」「これこそこれから必要な萬人向の化粧法」だそうです。

雑誌記事「世界の怪奇:現代科學の怪奇」(1938)

現代科学の怪奇1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の記事、「世界の怪奇」より「現代科學の怪奇」(加賀町夫:作)です。副題に「騙された科學ジャーナリズム」とある通り、亜音速で飛ぶとされた鹿蝿の話です。もちろんそんな馬鹿な事はなく論文に掲載された一つのいい加減な数字が一人歩きしたものです。作家の加賀さんの経歴は判りませんでした。

雑誌記事「世界の怪奇:白骨の曠野」(1938)

白骨の広野1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の記事、「世界の怪奇」より「白骨の曠野」(三好季雄:作)です。ロシア反革命のウランゲリ将軍率いる白軍の末路のエピソードです。三好季雄(1904-1991)さんは愛媛県宇和島出身、早稲田大学文学部で火野葦平さんらと共に学び卒業後作家となりました。戦後は月光洗三の名前で多くの少年少女向け冒険小説を発表しています。

雑誌記事「世界の怪奇:人間密輸入團」(1938)

人間密輸入団1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の記事、「世界の怪奇」より「人間密輸入團」(葉田陽太郎:作)です。アメリカへの不法移民入国斡旋業者の話しです。当時のアメリカは失業対策として移民の入国を制限していました。葉田陽太郎さんは当時海外ミステリの翻訳を多くやっていますが経歴の詳細は判りませんでした。

雑誌記事「世界の怪奇:千萬長者謎の失踪」(1938)

千万長者謎の失踪1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の記事、「世界の怪奇」より「千萬長者謎の失踪」(平田統二:作)です。豪華クルーズ船からニューヨーク在住の日本人大富豪が謎の失踪をしたという記事です。作者の平田さんについては良く判りませんでした。

雑誌記事「世界の怪奇:廿世紀の寶島」(1938)

二十世紀の宝島1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の記事、「世界の怪奇」より「廿世紀の寶島」(黒潮映兒:作)です。この作家の詳細は判りませんでした。二十世紀に残る宝島伝説の話です。

雑誌記事「世界の怪奇:沙漠の怪音巨像」(1938)

沙漠の怪音巨像1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の記事、「世界の怪奇」より「沙漠の怪音巨像」(川端勇男:作)です。ルクソールの王家の谷入り口にある「メムノンの巨像」から怪音がするという記事です。川端勇男さんは南沢十七(1905-1983)さんの別名です。南沢さんは宮城県仙台市出身、三田中学を経て長崎医科大学薬学部を卒業した後、東京外国語学校(現在の東京外国語大学)でドイツ文学を専攻しました。卒業後は伝染病研究所などを経て報知新聞社の編集者をしながら探偵小説や科学小説を多く発表しました。

雑誌記事「世界の怪奇:ソ聯覆滅を狙ふ男」(1938)

ソ連覆滅を狙う男1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の記事、「世界の怪奇」より「ソ聯覆滅を狙ふ男」(井上英三:作)です。反ソビエトの亡命ロシア人によるファシスト系団体を率いるアンドレヴイツチ・ヴオンシアツキイ"Anastasy Andreyevich Vonsyatsky"(1898 –1965)氏の記事です。著者の井上英三(1902-1947)さんは大阪府出身で早稲田大学の仏文科を卒業後、早大講師となり、ユゴーの翻訳などで有名です。

雑誌記事「世界の怪奇:怪孤島の賣買」(1938)

怪孤島の売買1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の記事、「世界の怪奇」より「怪孤島の賣買」(相田洋:作)です。モンスターが出るような怪孤島の話ではなく現実的な外交軍事的なお話でした。

雑誌記事「世界の怪奇:生きてゐる斬首」(1938)

生きている斬首1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の記事、「世界の怪奇」より「生きてゐる斬首」(寮佐吉:作)です。寮佐吉(1891-1945)さんは愛知県生まれ、愛知県立第一師範学校を卒業し、愛知県や東京府の教師をしながら科学ライターや翻訳家として活躍しました。この記事は現在でも時々紹介される「怪奇の國ロシヤ」で行われた実験です。

雑誌記事「世界の怪奇:戦慄の國際スパイ團」(1938)

戦慄の国際スパイ団1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の記事、「世界の怪奇」より「戦慄の國際スパイ團」(草刈九十九:作)です。草刈九十九さんは昭和戦前期に雑誌のライターとして名前が出ていますが、詳しい経歴等はわかりませんでした。

広告「野球界増刊・夏場所相撲號」(1938)

夏場所相撲號1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の広告より、「野球界増刊・夏場所相撲號」(野球界社・博文館)です。雑誌「野球界」は1908年から1959年まで続いた野球雑誌でこのような相撲増刊を度々出していました。当時は現在も破られていない連勝記録を持つ横綱双葉山全盛時代です。

雑誌記事「忘れられぬ光景・景色・顔【その2】」(1938)

車中の女1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の記事、「忘れられぬ光景・景色・顔」より「車中の女」(吉田貫三郎:カツト・文)です。車中で無防備に寝てしまった女性を観察しております。

雑誌記事「忘れられぬ光景・景色・顔【その1】」(1938)

京城付近1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の記事、「忘れられぬ光景・景色・顔」より「京城附近」(東郷青兒:カツト・文)です。画家として有名な東郷さんですが文章もかなり達者なようです。

広告「イスラビン糖衣錠」(1938)

イスラビン1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の広告より、「イスラビン糖衣錠」(株式會社武田長兵衛商店)です。当時蔓延していた花柳病、すなわち性感染症である淋病の治療予防薬の広告ですが、現在は主に抗生物質によって治します。当時は対症療法のみでした。

雑誌記事「ソ聯空軍の對支援助暴露記」(1938)

ソ連空軍の対支援助暴露記1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の記事より「ソ聯空軍の對支援助暴露記」です。ドムニンなるソ連軍中尉が執筆しています。挿絵は霜野二一彦さんです。中国上空で撃墜され捕虜になったようです。当時は中国軍側に義勇兵と称して米ソ独などの支援部隊が派遣されていました。目的の一つは兵器の実験でしょうか。意外なのは同盟関係になる前のドイツ軍は中国国民党軍を支援しており、中国軍の精鋭部隊はドイツ軍と同様の装備でした。

広告「森永アベックみつ豆」(1938)

森永アベックみつ豆1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の広告より、「森永アベックみつ豆」(森永食品工業株式會社)です。森永食品はこの後森永製菓と合併し現在に至ります。これはみつ豆を二つの缶詰に分けて食べるときに混ぜるというアイデア商品のようです。

広告「講談雑誌六月號」(1938)

講談雑誌1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の広告より、「講談雑誌六月號」(博文館)です。「☆青春の喜びと悲しみを満載した☆現代愛戀小説傑作集」だそうです。

広告「新髙ドロップ」(1938)

新高ドロップ1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の広告より、「新髙ドロップ」(新髙製菓株式會社)です。「シーズン酣!!新髙ドロップを御忘れなく」だそうです。「酣」は「たけなわ」と読みます。

広告「競馬チック」(1938)

競馬チック1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の広告より、「競馬チック」(Caswell-Massey社)です。「一糸亂れぬ整髪は競馬チツクの獨壇場です」だそうです。整髪料は当時の男性の嗜みでした。

広告「高級石鹼マーシヤル」(1938)

マーシャル1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の広告より、「オリーブ油と黒砂糖で作った高級石鹼マーシヤル」(中原久太郎商店)です。リスリンとはグリセリンのことで、現在でも保湿剤などとして化粧品に使われています。

広告「月刊總目録」(1938)

玉泉堂書店1938jun

 1938(昭和13)年6月発行の雑誌「新青年・六月號」(博文館)内の広告より、「月刊總目録」(玉泉堂書店)です。どうやら本のアウトレットなのでしょうか、月遅れ雑誌などを安く売っていたようです。
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