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小説「薔薇惡魔の話(渡邊啓助)」【その1】(1938)

薔薇悪魔の話1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の記事より小説「薔薇惡魔の話」(渡邊啓助:作、横井福次郎:畫)です。渡邊啓助(1901-2002)さんは秋田生まれ、セメント技師で転勤族だった父のためにあちこちに移ります。茨城県立水戸中学から青山學院高等部英語師範科を卒業し、中学校の英語教員となるも退職して九州帝國大學に入り西洋史学を専攻、1930(昭和5)年に卒業後は中学校の歴史の教員となりました。大学在学中から探偵小説を書き始め、1937(昭和12)年に教師を辞め専業作家となりました。
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広告「ビムネ帽子」(1938)

ビムネ帽子1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の広告より「ベルギー製 ビムネ帽子」です。以前紹介した物の別パターンです。「奥懐しい健康美の完成には…」だそうです。

広告「森永ミルクチヨコレート」(1938)

森永ミルクチョコレート1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の広告より「森永ミルクチヨコレート」(森永製菓株式會社)です。「濃縮されたスポーツエネルギーです!」だそうです。

広告「時計はセイコー」(1938)

時計はセイコー1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の広告より「時計はセイコー」(服部時計店)です。服部時計店は1881(明治14)年に創業され、時計工場を精工舎、販売部門を株式会社服部時計店としてセイコーブランドの時計を製造販売しました。現在はグループ企業をまとめたセイコーホールディングス株式会社となっています。なぜか英国製のホイペット戦車の写真が掲載されています。

小説「カフヱ奇談(妹尾アキ夫)」【その3】(1938)

カフェ奇談1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の記事より小説「カフヱ奇談」(妹尾アキ夫:作、横井福次郎:畫)です。好意で泊めてもらった女給さんの部屋から大金の入った封筒を持ち出すの図です。色々事件が進行しますが、最後はどんでん返しのオチがつきます。

小説「カフヱ奇談(妹尾アキ夫)」【その2】(1938)

カフェ奇談1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の記事より小説「カフヱ奇談」(妹尾アキ夫:作、横井福次郎:畫)です。挿絵の横井福次郎(1912-1948)さんは東京の芝生まれ、関東大震災で生家をなくし実祖父の養子となります。時事新報の植字工をしていましたが、漫画家を目指して退職し北沢楽天に師事、漫画家となります。SF漫画の礎を築いたと言われていますが、36歳の若さで肺結核のため夭折しました。

小説「カフヱ奇談(妹尾アキ夫)」【その1】(1938)

カフェ奇談1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の記事より小説「カフヱ奇談」(妹尾アキ夫:作、横井福次郎:畫)です。妹尾アキ夫(韶夫)(1892‐1962)さんは、岡山県津山市生まれ、早稲田大學英文科卒業後、1922(大正11)年頃からクリスティーなど探偵小説の翻訳を手がけ、自作の探偵小説も多く発表しました。

広告「新髙ドロップ」(1938)

新高ドロップ1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の広告より「新髙ドロップ」(新髙製菓株式會社)です。「味覺から來る魅力美!」だそうです。

小説「六月政變(甲賀三郎)」【その2】(1938)

六月政変1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の記事より小説「六月政變」(甲賀三郎:作、川瀬成一郎:畫)です。挿絵の川瀬成一郎さんは栃木県出身の洋画家で、戦前戦後に多くの挿絵を雑誌に描いています。

小説「六月政變(甲賀三郎)」【その1】(1938)

六月政変1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の記事より小説「六月政變」(甲賀三郎:作、川瀬成一郎:畫)です。甲賀三郎(1893-1945)さんは滋賀県生まれ、一高から、東京帝國大學化学科を卒業、染料会社を経て農商務省の技手となります。その傍ら探偵小説の執筆活動をはじめ、戦前の本格探偵小説の第一人者となります。1928(昭和3)年より作家専業となり、その後大下宇陀児さんと「本格」「変格」論争を繰り広げました。戦争中に肺炎のため亡くなりました。

広告「昭和十三年學生ダイアリー」(1938)

学生ダイアリー1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の広告より「昭和十三年學生ダイアリー」(博文館)です。旧制中学・高女の学生向け日記帳です。進学案内や進路案内などの付録がついているようです。

広告「ヴオーグテックス」(1938)

ヴォーグテックス1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の広告より「ヴオーグテックス」です。羅紗、すなわち毛織物生地のメーカーのようですが、現在の同名の会社とは異なるようです。

小説「賭博者(小栗虫太郎)」【その3】(1938)

賭博者(小栗虫太郎)1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の記事より小説「賭博者」(小栗虫太郎:作、茂田井武:畫)です。お金のことで揉める母娘のシーンです。ポール・デルヴォーの描く女性のようで日本人には見えませんが。

小説「賭博者(小栗虫太郎)」【その2】(1938)

賭博者(小栗虫太郎)1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の記事より小説「賭博者」(小栗虫太郎:作、茂田井武:畫)です。この絵と構図、どこかで見たことがあると思ったらアンドリュー・ワイエス作の「クリスティーナの世界」にそっくりなのですが、その絵は戦後の1948年作なので茂田井さんは参考にすることはできません(笑)。さらに元ネタがあったのでしょうか。

小説「賭博者(小栗虫太郎)」【その1】(1938)

賭博者(小栗虫太郎)1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の記事より小説「賭博者」(小栗虫太郎:作、茂田井武:畫)です。小栗虫太郎(1901-1946)さんは東京神田出身、京華中学を卒業後、サラリーマンや印刷所経営を経て探偵小説家となりました。横溝正史さんの急病による代理原稿という形のデビューだったそうです。茂田井武(1908-1956)さんは東京日本橋生まれ、赤坂中学を卒業後、様々な画塾で学びパリ留学後挿絵画家となりました。この作品の頃は小栗家に居候していたそうです。戦後は児童画家として活躍しました。

広告「ウテナバニシングクリーム」(1938)

ウテナクリーム1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の広告より「ウテナバニシング(雪印)クリーム」(久保政吉商店)です。「浴後・顔剃後に缺かされぬ整肌料!」「肌アレを防ぎ溌剌の美肌を育くむ」そうです。

広告「頭痛にノーシン」(1938)

ノーシン1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の広告より「頭痛に頭腦疲労恢復にノーシン」(荒川長太郎合名會社)です。荒川長太郎合名会社は江戸時代に創業された薬問屋が1917(大正6)年に会社組織となったもので1990年に株式会社アラクスに改名しています。ノーシンは現在も販売されている頭痛薬の定番です。

広告「トンボ鉛筆」(1938)

トンボ鉛筆1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の広告より「トンボ鉛筆」です。1913(大正2)年に浅草に創業された小川春之助商店は1927(昭和2)年に「トンボ印」を商標にして鉛筆を発売、1939(昭和14)年に製造部門は株式会社トンボ鉛筆製作所、販売部門はトンボ鉛筆商事株式会社として会社組織となり、戦後に2社が統合されて現在の株式会社トンボ鉛筆となりました。

広告「丸善アテナインキ」(1938)

丸善インク1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の広告より「丸善アテナインキ」です。極端に図案化された女性が面白いです。

小説「獵奇商人(城昌幸)」【その3】(1938)

猟奇商人1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の記事より小説「獵奇商人」(城昌幸:作、坪内節太郎:畫)です。究極の刺激を求めて冒険をしているシーンですが、最後にショートショート的なオチがつきます。

小説「獵奇商人(城昌幸)」【その2】(1938)

猟奇商人1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の記事より小説「獵奇商人」(城昌幸:作、坪内節太郎:畫)です。この作品もショートショートの形式をとっていると思います。退屈していた主人公が怪しい人物に誘われて深夜の東京を徘徊している図です。

小説「獵奇商人(城昌幸)」【その1】(1938)

猟奇商人1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の記事より小説「獵奇商人」(城昌幸:作、坪内節太郎:畫)です。作者の城昌幸(1904-1976)さんは東京神田生まれ、京華中学を中退後、作家になりました。ショートショートの先駆者と言われています。挿絵の坪内節太郎(1905-1979)さんは岐阜県生まれ、大阪市立大阪商大卒業後、天彩画塾に学び独立展などに入選して洋画家となりました。

広告「マス・ケート指導 ファッションスクール」(1938)

ファッションスクール1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の広告より「マス・ケート指導 ファッションスクール」です。マス・ケート(1902-1955)さんは旧姓を平井満壽子さんといい、帝國女子専門學校(現:相模女子大)を卒業後、読売新聞記者やデザイナーをしていましたが、アメリカ人英語教師ポール・ケートさんと結婚し、マス・ケートさんになりました。1930(昭和5)年に出版した「洋装通」(四六書院)という本でも有名です。

広告「さくらフヰルム」(1938)

さくらフィルム1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の広告より「さくらフヰルム(六櫻社)です。「どのカメラにも傑作を約束する」そうですが、やはりカメラマンの腕が問題なのでは?

広告「森永ミルクチヨコレート」(1938)

森永ミルクチョコレート1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の広告より「森永ミルクチヨコレート」(森永製菓株式會社)です。「羅馬は一日にして成らず、この眞價また然り」だそうです。

広告「神經衰弱不眠症にカルモチン」(1938)

カルモチン1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の広告より「神經衰弱不眠症にカルモチン」(武田長兵衛商店)です。カルモチンはブロムワレリル尿素を含有する鎮静・催眠剤で、文豪の自殺に多用されたことで知られています。欧米ではその危険性からほぼ禁止薬物になっています。

小説「諜報 (海野十三)【その3】」(1938)

諜報1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の記事より小説「諜報」(海野十三:作、高井貞二:畫)です。取調官がスパイの容疑者のトリックを次々と見破っていく軍事探偵物の短編集です。

小説「諜報 (海野十三)【その2】」(1938)

諜報1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の記事より小説「諜報」(海野十三:作、高井貞二:畫)です。取調官がスパイの容疑者のトリックを次々と見破っていく軍事探偵物の短編集です。

小説「諜報 (海野十三)【その1】」(1938)

諜報1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の記事より小説「諜報」(海野十三:作、高井貞二:畫)です。作者の海野十三(1897-1949)さんは徳島県生まれ、神戸一中から早稲田大学理工学部を卒業し逓信省に入り、勤務しながら探偵小説などを発表し、戦前は軍事科学小説、SF小説などを多数発表し日本SFの始祖と言われています。挿絵の高井貞二(1911-1986)さんは大阪生まれ、和歌山県立伊都中学を卒業後上京し二科展に入選して洋画家となりました。

広告「ボルサリノ帽子」(1938)

ボルサリノ帽子1938jan

 1938(昭和13)年1月発行の雑誌「新青年・新年特大號」(博文館)内の広告より「ボルサリノ帽子」(Borsalino社)です。デザインが同じでコピーが違うだけの広告がたくさん掲載されています。「日本のインテリ階級に賞用さる」そうです。
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