広告「資生堂・コールドクリーム」(1937)
雑誌記事「名士とお母さま・吉屋信子女史」(1937)
広告「月經帶ビクトリヤ」(1937)

1937(昭和12)年5月発行の「主婦之友」五月號(主婦の友社刊)内の広告より「月經帶ビクトリヤ」(株式會社大和ゴム製作所)です。大和ゴム製作所は1910(明治43)年に東京に設立され、様々なゴム製品を生産していました。戦後は塩ビの加工製品が中心になり、住宅用壁紙等を生産する会社になりました。1970(昭和45)年に社名をヤマト化学工業株式会社と改めて現在に至ります。
雑誌記事「淀君・夏川静江」(1937)
広告「マルキン醤油」(1937)

1937(昭和12)年5月発行の「主婦之友」五月號(主婦の友社刊)内の広告より「マルキン醤油」です。マルキン醤油は1907(明治40)年に香川県で創業され、戦後まで続きましたが2013年に盛田株式会社に吸収合併されてそのブランドは消滅しました。
広告「ウテナ水白粉」(1937)
広告「マスターホームパクト」(1937)

1937(昭和12)年5月発行の「主婦之友」五月號(主婦の友社刊)内の広告より「マスターホームパクト」(マスター化粧品株式會社尚美堂)です。マスターブランドの化粧品は戦前戦後に多くの広告を出している大手でした。
広告「ウテナバニシングクリーム」(1937)

1937(昭和12)年5月発行の「主婦之友」五月號(主婦の友社刊)内の広告より「ウテナバニシングクリーム・ウテナほゝ紅」(久保政吉商店)です。ちなみに現在も存続する株式会社ウテナの現在の社長である岩倉具栄氏の父が女優の小櫻葉子さんのいとこに当ります。
雑誌目次絵「目次繪・松田富喬畫」(1937)

1937(昭和12)年5月発行の「主婦之友」五月號(主婦の友社刊)の目次絵です。昭和戦前期のモダンな「山ガール」の姿を松田富喬さんが描いています。松田富喬さんは愛知県生まれ、大阪の日本画家の北野恒富(1880-1947)門下として画業をスタートさせましたが、商業ポスターの図案や雑誌の表紙絵や挿絵などで昭和初期に大変人気がありました。
広告「酵母菓子・ビスコ」(1937)

1937(昭和12)年5月発行の「主婦之友」五月號(主婦の友社刊)の裏表紙裏広告より「酵母菓子・ビスコ」(グリコ株式會社)です。グリコ株式會社は1921(大正10)年に大阪で江崎利一氏によって創立され、現在も江崎グリコとして存続しています。ビスコは1933(昭和8)年に子供用ビスケットとして発売が開始され、現在においても日本における定番のお菓子となっています。
広告「キッコーマン醤油」(1937)

1937(昭和12)年5月発行の「主婦之友」五月號(主婦の友社刊)の表紙裏広告より「キッコーマン醤油」(野田醤油株式會社)です。現在では世界中に展開しているトップクラスの調味料会社キッッコーマン株式会社として存続しています。キッコーマンは江戸初期から千葉県野田で醤油や味醂を醸造していた店同士が明治に入って組合を作り共同販売したことが始まりです。味噌や醤油は地産地消が主流だった時代に珍しく全国区の企業となりました。
広告「プロレタリア映画入門」(1928)

1928(昭和3)年7月発行の雑誌「古今桃色草紙」創刊號(發藻堂書院)の表紙裏広告より「プロレタリア映画入門」村山知義著(前衛書房)です。昭和一桁に流行したエロ・グロ・ナンセンス系雑誌の広告にもう一つ流行した左翼系の本の広告が出ています。検閲をくぐり抜けるという行為が似ているせいか、両者の親和性は高いようです。
広告「ラブレター雑考」(1928)

1928(昭和3)年7月発行の雑誌「古今桃色草紙」創刊號(發藻堂書院)の裏表紙広告より「ラブレター雑考」(文藝資料研究會)です。文藝資料研究會と發藻堂はメンバーがほぼ同じ会社で、当時のエロ・グロ・ナンセンスのサブカルチャー出版物を積極的に発行していました。著者の池田文痴庵(1901-1972)氏は東京市麻布區生まれ、明治藥學専門學校を卒業後、海軍を経て森永製菓に勤務しました。大衆文化資料の収集・研究家として知られ多くの著作を残しています。
雑誌「古今桃色草紙・創刊號」(1928)
雑誌挿絵「蔭に働く人たち・中村篤九画」(1939)

1939(昭和14)年3月に発行された「少女の友」三月號(實業之日本社刊)内の記事挿絵より「蔭で働く人たち」です。作画は中村篤九(?-1947)さんです。大きなビルの地下にあるボイラー室の様子を描いています。中村さんは札幌生まれ、恋人と駆け落ちして上京し、新漫画派集団にも参加していた漫画家です。
広告「無電技士・製圖工」(1939)

1939(昭和14)年3月に発行された「少女の友」三月號(實業之日本社刊)内の広告より「無電技士・女子製圖工養成」(帝國無電通信學校・帝國製圖協會)です。無線技師と製図工養成学校の案内ですが、良く見るとどちらも住所は同じです。先日紹介した絵画の通信教育とも同じ住所です。通信教育専門の会社のようです。
広告「さしゑマンガ講義録」(1939)

1939(昭和14)年3月に発行された「少女の友」三月號(實業之日本社刊)内の広告より「さしゑマンガ講義録」(日本通信美術學校)です。添削式の絵画通信教育の広告です。現在も同様の広告が多いので需要は昔からあるようです。
広告「キング水彩」(1939)

1939(昭和14)年3月に発行された「少女の友」三月號(實業之日本社刊)内の広告より「キング水彩」(王様商會)です。王様商會は1918(大正7)年に創業された日本最古の国産クレヨン製造会社で、王様クレヨンの商標を覚えておられる方も多いと思います。現在も群馬県で会社は存続していますが、自社ブランドの製品の製造はしていないようです。
雑誌挿絵「黒板ロマンス・雨の降る日(その4)」(1939)
雑誌挿絵「黒板ロマンス・雨の降る日(その3)」(1939)
雑誌挿絵「黒板ロマンス・雨の降る日(その2)」(1939)
雑誌挿絵「黒板ロマンス・雨の降る日(その1)」(1939)

1939(昭和14)年3月に発行された「少女の友」三月號(實業之日本社刊)内の連載小説挿絵より「黒板ロマンス・雨の降る日」(作:嶋本志津夫)です。松野一夫(1895-1973)さんが挿絵を描いています。松野さんは福岡県小倉出身、小倉中学を中退して上京し中学校を卒業後画家を目指します。1921(大正10)年の帝展入選後挿絵画家としてデビューし、雑誌「新青年」の表紙絵で有名になりました。フランス留学を挟んで様々な雑誌に挿絵を描いています。作家の嶋本志津夫(1904-1979)さんは本名(神崎清)での評論家としての業績の方が有名です。香川県高松市出身で、東京帝國大學文學部を卒業後、女学校で教師をしていましたが危険思想の持ち主として解雇され、以後文筆業に専念し、評論家、ジャーナリスト、小説家として活躍しました。