広告「クリーム繪具」(1939)

1939(昭和14)年3月に発行された「少女の友」三月號(實業之日本社刊)内の広告より「クリーム繪具」(株式會社原田商店・コインペン本舗)です。汽車印がトレードマークのようですが、詳細はわかりませんでした。
広告「ヨット鉛筆」(1939)

1939(昭和14)年3月に発行された「少女の友」三月號(實業之日本社刊)内の広告より「ヨット鉛筆」(東洋文具鉛筆製作所)です。東洋文具鉛筆製作所は1916(大正5)年に創業され、戦前は三菱、トンボと並んで三大鉛筆メーカーと言われましたが、1967(昭和42)年に倒産しました。
雑誌挿絵「古都の乙女・蕗谷虹児画(その3)」(1939)
雑誌挿絵「古都の乙女・蕗谷虹児画(その2)」(1939)
雑誌挿絵「古都の乙女・蕗谷虹児画(その1)」(1939)
雑誌挿絵「黄砂に昇る陽・松本盛昌画(その2)」(1939)
雑誌挿絵「黄砂に昇る陽・松本盛昌画(その1)」(1939)

1939(昭和14)年3月に発行された「少女の友」三月號(實業之日本社刊)内の連載小説挿絵より「黄砂に昇る陽」です。山中峯太郎(1885-1966)さん作の連載小説に、松本盛昌さんが挿絵を描いています。山中峯太郎さんは大阪生まれ、陸軍士官学校から陸軍大学校に入学するも中国革命に参加して軍を免職され、東京朝日新聞の記者となりましたが、相場絡みの虚偽報道事件で逮捕され退社、出獄後は作家として様々な雑誌に小説を書き、特に少年雑誌向けの冒険小説で人気を博しました.
雑誌挿絵「友情明暗日記・松本かつぢ畫」(1939)
雑誌挿絵「大地の娘・芝義雄画」(1939)

1939(昭和14)年3月に発行された「少女の友」三月號(實業之日本社刊)内の連載小説挿絵より「大地の娘」です。田村泰次郎(1911-1983)さん作の連載小説に、芝義雄さんが挿絵を描いています。田村さんは三重県四日市生まれ、早稲田大学文学部を卒業後小説家となりました。
雑誌挿絵「理惠子の手帖・不破俊子畫」(1939)

1939(昭和14)年3月に発行された「少女の友」三月號(實業之日本社刊)内の連載小説挿絵より「理惠子の手帖」です。田郷虎雄(1901-1950)さん作の連載小説に不破俊子さんが挿絵を描いています。作者の田郷虎雄さんは長崎県平戸町長の次男として生まれ、長崎師範学校を卒業後、小学校の教員をしていましたが、1927(昭和2)年に作家を目指し上京、1931(昭和6)年に懸賞小説に当選してデビューし作家となりました。NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の原作者になります。不破俊子さんは戦前に少女雑誌等で活躍した挿絵画家です。
雑誌挿絵「次女日記・河目悌二畫」(1939)

1939(昭和14)年3月に発行された「少女の友」三月號(實業之日本社刊)内の連載小説挿絵より「微笑小説・次女日記」です。由利聖子さん作の連載小説「次女日記」に河目悌二さんが挿絵を描いています。由利聖子(1911-1943)さんは、1929(昭和4)年、東京府立第三高等女学校卒業。1932(昭和7)年に作家としてデビューし、病気で亡くなるまで少女雑誌で主にユーモア小説を書いていました。河目悌二(1889-1958)さんは、愛知県刈谷出身。愛知県立第二中学校を経て、1913(大正2)年に東京美術学校を卒業し、挿絵を描く仕事を始めました。1920(大正9)年、小林商店(現在のライオン)に入社して広告画を担当、1937(昭和12)年に退社した後は挿絵画家として戦後まで活動しました。