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大東京寫眞案内「東京の耳」(1933)

東京の耳1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「東京の耳」です。在京新聞・通信各社の社屋です。右上が有楽町にあった朝日新聞社、左上が東京日日新聞社(現在の毎日新聞社)、その下が時事新報社、その下が報知新聞社、下右が朝日新聞社の輪転機、左が編集室の様子です。
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大東京寫眞案内「杉並區」(1933)

杉並區1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「杉並區」です。現在の東京都杉並区になります。写真は上が東京女子大学の本館で1931(昭和6)年に竣工しました。建築家のレーモンドが総合計画をしたキャンパスとして有名でこの本館は残っていますが、東寮や体育館等付帯施設は最近次々と取り壊されてしまいました。写真中と下は甲州街道風景です。上は舗装してある代田橋付近ですが、調布に向かうと下のように未舗装で肥桶を積んだ馬車が行き交う田舎道になります。

大東京寫眞案内「中野區」(1933)

中野區1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「中野區」です。現在の東京都中野区になります。写真は上が1929(昭和4)年に移転開業した中野駅北口です。その下は江古田にあった東京市の結核療養所で、1993年に施設統合により閉鎖され現在は公務員宿舎が建っています。写真下右は東洋大学の創始者で妖怪の研究者としても有名な井上圓了(1858-1919)氏が1904(明治37)年に建てた哲學堂で現在は哲学堂公園として整備されています。下左は中野坂上にある塔の山公園ですが、この三重塔は隣接する宝仙寺の境内にあります。

大東京寫眞案内「淀橋區」(1933)

淀橋區1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「淀橋區」です。現在の東京都新宿区の一部になります。写真上は淀橋浄水場の風景で、現在は新宿副都心の高層ビル街になっています。右ページ二番目は今も変わらぬ早稲田大学の大隈講堂、その下は新宿駅の駅舎、右下は早稲田大学演劇博物館になります。右ページ下左は小説「放浪記」で有名になった新宿角筈のカフェー街です。左ページは新宿駅東口から新宿三丁目を俯瞰した写真です。右のビルは三越新宿店で現在はビックロになています。左のビルは伊勢丹です。

大東京寫眞案内「澁谷區」(1933)

澁谷區1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「澁谷區」です。現在の東京都渋谷区になります。写真は右ページ上、および左ページは明治神宮になります。写真上中は代々木練兵場で現在は代々木公園です。写真右下は渋谷駅前の風景と道玄坂の百軒店商店街です。百軒店は関東大震災の復興事業で作られた商店街で現在も渋谷で繁盛しています。

大東京寫眞案内「世田谷區」(1933)

世田谷區1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「世田谷區」です。現在の東京都世田谷区になります。写真は右ページ上が玉(多摩)川河川敷、その下が新興住宅街の所謂文化住宅のひな壇、その下が駒澤大學になります。写真左ページ上は九品仏、その下は精神病院の代名詞、府立松澤病院、その下は松陰神社、その下は現在オリンピック公園になっている駒澤ゴルフリンクスです。

大東京寫眞案内「蒲田區」(1933)

蒲田區1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「蒲田區」です。現在の東京都大田区の一部になります。大森區と蒲田區が合併して大田区となった訳です。写真右ページ上は羽田飛行場です。短い滑走路と駐機場しかありませんが、既に大阪への定期便が出ています。下右が松竹キネマ蒲田撮影所です。多くの名作を生み出して「蒲田調」なる言葉を生み出しましたが、1936(昭和11)年に大船に移転して閉鎖されました。その左は穴守稲荷で江戸時代からの名所です。左ページ上から三枚は六郷川=多摩川の河口風景です。見えている橋は1925(大正14)年に竣工した第一京濱國道の六郷橋で、1984(昭和59)年に架け替えられて解体されました。下右は蒲田銀座の風景です。現在は「銀座」名は使っていないようです。

大東京寫眞案内「大森區」(1933)

大森區1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「大森區」です。現在の東京都大田区の一部になります。写真右ページ上から池上本門寺、その下が洗足池、下右が大森銀座商店街です。写真下左が世田谷から大森に流れる呑川の河口付近です。左ページ上が渋沢栄一が開発した田園調布の空撮で1923(大正12)年から分譲が始まりました。写真下右は大森貝塚の碑で、これは大田区側に現存しています。地域がまたがる品川区にも同様の碑があります。下左はのりそだ(海苔粗朶)の山ということで、海苔の養殖用に海中にさす木の枝です。当時の大森は所謂浅草海苔の大産地でした。

大東京寫眞案内「荏原區」(1933)

荏原區1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「荏原區」です。現在の東京都品川区の一部になります。写真右ページ上から反時計回りに小山銀座、蛇窪銀座、戸越銀座となります。この三つを荏原三銀座と称したそうですが、現在蛇窪駅は戸越公園駅に改称されて商店街の名前も戸越公園商店街に変わっています。写真右下は1928(昭和3)年に設立された昭和醫學専門學校、現在の昭和大学医学部です。写真左ページ中は中延八幡、左下は戸越銀座駅です。左ページ上に東京市内の私鉄電車一覧が示されていますが、現在は存在しない盲腸線がいくつか見られます。

大東京寫眞案内「目黒區」(1933)

目黒區1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「目黒區」です。現在の東京都目黒区になります。写真右ページ上が目黒競馬場ですがこの1933(昭和8)年に閉場され、現在は住宅街となっています。中は大圓寺の石仏、下は祐天寺です。写真左ページ上は東京帝大農学部ですが、1935(昭和10)年に本郷にあった第一高校と校地交換して移転し、現在は東大駒場キャンパスになっています。その下は隣接する東京帝大航空研で、関東大震災で越中島から移転してきました。現在は東京大学生産技術研究所等があります。その下は目黒不動、その下は輜重隊練兵場です。この忠魂碑は戦後撤去されて今はありません。

大東京寫眞案内「品川區」(1933)

品川區1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「品川區」です。現在の東京都品川区の一部になります。写真右ページ上が東京十社の一つ品川神社、その下はその品川神社からお台場方面を俯瞰した写真で現在はお台場の向こう側に臨海副都心が広がっています。その下は光福寺にある伊藤家の墓所で伊藤博文が埋葬されています。その下は第一京濱國道沿いにある江戸時代の鈴ヶ森刑場の後で、左手に京濱電鐵(現在の京浜急行)の高架が見えます。写真左ページ上は品川駅から省線(JR)を渡る八つ山陸橋で、当時は京濱電車が路面を走っていました。ちなみに品川駅は品川区にはなく芝區(現在の港区)にあります。なお、この1933(昭和8)年に京濱電車は専用跨線橋を並行して開通させ、品川駅に直接乗り入れを始めたため軌道併用は終了しました。写真下右は居木橋で大崎周辺の目黒川に架かる橋です。下左は品川海岸風景で護岸に多くの網が設置されています。

大東京寫眞案内「江戸川區」(1933)

江戸川區1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「江戸川區」です。現在の東京都江戸川区になります。写真上右は新川運河で江戸時代に掘られた運河でした。上中は千葉街道、現在の国道14号線になりますが、両側に建物が一つもありません。上左は今井橋付近で対岸は千葉県の行徳になります。写真中は小岩の善養寺にあった星降りの松で1940(昭和15)年に枯死し現在は二代目です。写真下右は中川放水路とその水門で現在は新中川と呼ばれています。下左は江戸川の篠崎堤の櫻で、現在も篠崎公園は桜の名所です。

大東京寫眞案内「葛飾區」(1933)

葛飾區1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「葛飾區」です。現在の東京都葛飾区になります。写真右ページ上の二枚は旧水元村で現在の水元公園周辺になります。その下は小菅刑務所で、現在の東京拘置所になります。世界一モダンと言われた1929(昭和4)年竣工の建物の内、管理棟のみ現存しています。左ページ上は千葉との県境である江戸川堤の風景、その下は柴又の帝釈天、その左は本田町の繁華街で現在の京成立石駅周辺になります。下は四ツ木の浄光寺境内にある徳川家光手植えの名木「登美の松」で現在の物は二代目です。

大東京寫眞案内「城東區」(1933)

城東區1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「城東區」です。現在の東京都江東区の一部になります。写真右ページ上は砂町海岸で現在は埋め立てられてしまっています。写真中は亀戸天神、写真下は小津安二郎の映画にも良く出てくる工場地帯です。写真左ページ上は砂町銀座の風景、その下は荒川に架かる葛西橋で現在よりも300m上流にあった木橋ですが、戦後崩落事故を起こし自動車通行止めとなった後1963(昭和38)年に現在の葛西橋が完成すると解体されました。その下は現在も江東区名物となっている金魚の生産池の様子、そしてその下は茫漠たる荒川河口の様子です。

大東京寫眞案内「向島區」(1933)

向島區1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「向島區」です。現在の東京都墨田区の一部になります。写真上右は大学のボート部の艇庫が集まる場所。上中は堀切橋で1924(大正13)年に完成した木橋で、現在は1967(昭和42)年に完成した250mほど北に架かっている橋になります。上左は白鬚神社で現在も隅田川七福神の一つです。写真中右が江戸時代からの名所、向島百花園でこれも隅田川七福神の一つです。写真下右は鐘淵紡績で、1930(昭和5)年の大争議の舞台でした。写真下左が隅田川に架かる白鬚橋で1931(昭和6)年に竣工しました。

大東京寫眞案内「足立區」(1933)

足立區1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「足立區」です。現在の東京都足立区になります。写真上は1931(昭和6)年に完成した花畑運河で中川と綾瀬川を結びます。当時は水運で栄えましたが現在は釣り船程度でしょうか。写真二枚目は綾瀬川の風景で荷物を積んだだるま船が行き交っています。三枚目は荒川にかかる千住新橋で1924(大正13)年に完成しました。1978(昭和53)年に架け替えに伴い撤去されました。写真下は荒川にかかる西新井橋から有名なお化け煙突を見たところです。1926(大正15)年に完成した千住火力発電所の煙突は千鳥配置になっているため、見る角度によって本数が変わり「お化け煙突」と呼ばれていましたが、1964(昭和39)年に解体されました。現在の西新井橋は1961(昭和36)年竣工の橋になっています。

大東京寫眞案内「板橋區(その2)」(1933)

板橋區(その2)1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「板橋區(その2)」です。現在の東京都板橋区と練馬区になります。写真上は室町時代に千葉氏の居城だった赤塚城址で現在は都立赤塚城跡公園として整備されています。周りの野原は幕末に高島秋帆が日本で初めて西洋式調練を行った軍事演習場としても有名ですが、現在は高島平団地が建ち並んでいます。写真上から二つ目は川越街道と中山道の分岐点(平尾追分)に建つ板橋警察署です。1935(昭和10)年には現在の場所に移転新築します。写真三つ目は大泉村といっていますが、現在の練馬区大泉学園周辺です。積んだ稲藁の後に西洋風の文化住宅(まさにトトロの家)が建っています。通常、これに続く母屋は純和風のはずです。下は練馬大根の収穫風景です。

大東京寫眞案内「板橋區(その1)」(1933)

板橋區(その1)1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「板橋區(その1)」です。現在の東京都板橋区と練馬区になります。写真上と中は1925(大正14)年に開園した豊島園(現としまえん)です。豊島氏の居城だった練馬城址に建設された遊園地で現在は板橋区でなく豊島区でなく練馬区にあります。写真下は三寳寺池で、現在は都立石神井公園として整備されています。これも現在は練馬区にあります。

大東京寫眞案内「王子區」(1933)

王子區1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「王子區」です。現在の東京都北区の一部になります。写真左上は赤羽ゴルフリンクスです。現在の赤羽ゴルフ倶楽部は戦後の設立ですが、場所はほぼ同じと思われます。写真中三枚は1930(昭和5)年に完成した荒川放水路で、その入り口となる岩淵水門は現在も残っています(旧水門)。写真右下は現在も桜の名所の飛鳥山公園、左下は名主の滝で現在は区立公園として整備されています。

大東京寫眞案内「荒川區」(1933)

荒川區1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「荒川區」です。現在の東京都荒川区になります。写真上は日暮里駅から俯瞰した尾久方面で、荒川區の象徴として工場地帯が挙げられています。写真中は日暮里銀座で現在も続く商店街です。写真下は1922(大正11)年に設立された荒川遊園で、戦後1950(昭和25)年に荒川区に買収され、現在は荒川区立あらかわ遊園となって都内唯一の公営遊園地として営業しています。

大東京寫眞案内「瀧野川區」(1933)

瀧野川區1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「瀧野川區」です。現在の東京都北区の一部になります。写真上中は農事試験場で養蚕が盛んだった名残です。上右が田端駅の風景で蒸気機関車が見えます。上左が現在も残る西ヶ原一里塚です。写真下は1930(昭和5)年に竣工したおとなし(音無)橋です。現在もその優美なアーチを見る事が出来ます。

大東京寫眞案内「豊島區」(1933)

豊島區1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「豊島區」です。ここから1932(昭和7)年に新たに東京市に組み込まれた新区になります。現在の東京都豊島区と一致します。写真上は学習院の正門で、当時は華族・皇族のための教育施設でした。中は雑司ヶ谷霊園で今も多くの著名人が眠っています。写真下は立教大学の一号館で1918(大正7)年に建設され現在も耐震補強工事をされて健在です。

大東京寫眞案内「殘る武蔵野(その2)」(1933)

殘る武蔵野(その2)1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「殘る武蔵野(その2)」です。写真上は練馬周辺の案山子、中と下は杉並区上井草周辺の野原です。今は住宅が密集して面影はありません。「文化の侵入」という言葉を使って、当時の人も東京に残されたノスタルジックな風景がなくなることを惜しんでいるようです。

大東京寫眞案内「殘る武蔵野(その1)」(1933)

殘る武蔵野(その1)1933じゅl

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「殘る武蔵野(その1)」です。現在の東京にはほとんど残っていない武蔵野の面影です。写真上は現在の東京都世田谷区の風景です。タイトルは「開拓者の家」だそうです。その下は足立区梅島の田植え風景。その下は現在の練馬区大泉付近での肥桶の風景です。田臭と言えばある年代以上の方には想像がつくでしょう。その下は豊島園の風景、一番下は板橋区赤塚城址附近の無人の畑作地帯です。現在は都立赤塚公園になっています。いずれも1932(昭和7)年の東京市の拡大に伴い郡部から編入された地域です。

大東京寫眞案内「深川區(その3)」(1933)

深川區(その3)1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「深川區(その2)」です。現在の東京都江東区の一部になります。写真上は隅田川河口付近で現在も埋め立ては進んでいますが、この茫漠とした雰囲気は似ています。その下は富岡八幡宮に隣接する深川公園です。左中は洲崎にある1791(寛政三)年の大津波警告の碑で、この辺りを大津波が襲い280余軒が高台に引っ越したそうですが、元の木阿弥になっています。写真下は現在も隅田川のシンボルとなっている永代橋で1926(大正15)年に竣工しました。

大東京寫眞案内「深川區(その2)」(1933)

深川區(その2)1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「深川區(その2)」です。現在の東京都江東区の一部になります。写真上は日本橋區と結ぶ清洲橋で、1928(昭和3)年に竣工しました。写真下は貯木場、所謂「木場」で、現在は埋め立てが進んだため新木場の方に移っていますが、跡地は木場公園として整備されています。

大東京寫眞案内「深川區(その1)」(1933)

深川區(その1)1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「深川區(その1)」です。現在の東京都江東区の一部になります。写真上は日本橋中州にあった浅野セメントの工場で、現在正面の水路は高速道路により塞がれています。写真中は現在もお祭りでにぎわう富岡八幡宮。写真下は高等商船学校で、現在は東京海洋大学越中島キャンパスです。

大東京寫眞案内「本所區(その3)」(1933)

本所區(その3)1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「本所區(その3)」です。現在の東京都墨田区の一部になります。写真上右が兩國橋とありますが、1932(昭和7)年に竣工した総武線隅田川橋梁の事になります。これにより、総武線がお茶の水まで延伸され都心とアクセスできるようになりました。その隣が隅田川に架かる橋梁の図面で、写真は左上から厩橋、駒形橋、吾妻橋となります。いずれもその優美な姿を現在も残しています。吾妻橋のたもとのサッポロビールブランドの大日本麦酒の工場は現在アサヒビールの本社になっています。

大東京寫眞案内「本所區(その2)」(1933)

本所區(その2)1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「本所區(その2)」です。現在の東京都墨田区の一部になります。写真上が兩國橋とありますが、1932(昭和7)年に完成したゲルバー橋は奥にあって見えず、これは1904(明治37)年に完成したトラス橋の方です。間もなく解体されて、別の場所で新たな橋となります。写真中は典型的な工場街で本所區の象徴とあります。写真下は森山松之助氏設計で1926(大正15)年完成の本所公会堂(現両国公会堂)です。この建物は現在も旧安田公園内にありますが老朽化のため使用を中止しており、このまま解体される恐れもあります。

大東京寫眞案内「本所區(その1)」(1933)

本所區(その1)1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「本所區(その1)」です。現在の東京都墨田区の一部になります。写真上が両国国技館です。1920(大正9)年に完成しましたが、関東大震災で内部を焼失、その後改装されるも東京大空襲でまた内部焼失、GHQに接収され、改装されてホールとなり、1958(昭和33)年からは日大講堂となりましたが、1983(昭和58)年に解体されました。下は震災記念堂で、1930(昭和5)年に伊東忠太氏の設計で竣工しました。関東大震災の身許不明の遺体が合祀されています。
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