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輝やく大東京「大東京交通圖(其一)」(1933)

大東京交通図(その1)1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「輝やく大東京『大東京交通圖(其一)』」です。現在のJRと私鉄の路線と概ね変わっていない事が判ります。大きな違いはこの年の夏に開通する渋谷-吉祥寺間の井の頭線がまだないことで、ひと月後の開業なら書いておいても良いと思うのですが。面白いのは現在地下鉄となっている路線の上に私鉄が走っている事でしょうか。新宿-荻窪間、巣鴨-下板橋間、王子-赤羽岩淵間、瑞江-大島間等です。あと今はない小さな盲腸線が沢山あります。
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輝やく大東京「大東京の交通」(1933)

大東京の交通

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「輝やく大東京『大東京の交通』」です。写真は上右から東京駅の省線(現JR東日本)電車、市営電車、市営バス、無軌条電車(トロリーバス)です。左手に各駅の発車番線、行き先表示板、下に市電とバスの料金表があります。山手線の環状運転開始が1925(大正14)年、総武線の両国-お茶の水間の開通が1932(昭和7)年、お茶の水-中野間の複々線運転開始が1933(昭和8)年と、この頃にはだいたい現在の線形が完成しています。

輝やく大東京「市長・市章・市役所」(1933)

輝く大東京1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「輝やく大東京『市長・市章・市役所』」です。上は当時の東京市長、牛塚虎太郎(1879-1966)氏です。牛塚氏は富山県生まれ、東京帝国大学法科を卒業後、官僚になり岩手県、群馬県、宮城県、東京府知事を歴任、1933(昭和8)年より東京市長に互選され、任期を勤め上げました。その後は1942(昭和17)年に衆議院議員となり、戦後は郷里に隠退しました。東京市章は現在も都章として使われています。東京市役所は東京府との合同庁舎で1943(昭和18)年の都制施行に伴い都庁舎になりました。

空から眺めた大東京「歌舞伎座と昭和通り」(1933)

歌舞伎座と昭和通り1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「空から眺めた大東京『歌舞伎座と昭和通り』」です。歌舞伎座は関東大震災前に焼失して震災時は建設中でしたが1925(大正14)年に完成しています。左側の昭和通りは震災復興の目玉として当初幅員108mで計画されましたが、計画が理解されず縮小されました。それでもこれだけの広さです。

空から眺めた大東京「松坂屋上空より上野公園を望む」(1933)

松坂屋上空より上野公園を望む1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「空から眺めた大東京『松坂屋上空より上野公園を望む』」です。上野駅に繋がる電車の高架の路線数は今と変わらないように見えます。上野公園の周りは今よりもずっと建物が少なく、法面も見えてすっきりしています。上野公園地下の京成上野駅出入り口は開いていますが、開業はこの年の12月なのでまだ使用されていません。

空から眺めた大東京「聖橋上空から」(1933)

聖橋上空から1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「空から眺めた大東京『聖橋上空から』」です。1927(昭和2)年に完成したばかりの聖橋の上空からニコライ堂を中心とした駿河台を俯瞰しています。手前の廃墟は震災後放置されている岩崎邸です。井上眼科の辺りも更地のままです。左手に1927(昭和2)年に竣工した淡路小学校のモダンな校舎も見えます。今は廃校になり高層ビルに変わっていますが。記事によると「中央に白い帶のやうに見えるのが、本郷臺より聖橋を經て、神田小川町に到る舗装路。右手下端が帝都隨一の麗橋聖橋で、その橋下を流れるのが神田川、これに沿つて省電中央線のレールが光る。中央にそゝりたつドームが神田のシムボルニコライ堂、その他この駿河臺地の名物は、軒並みにたつ大小の病院、右手上方に見える建築がその中の一つ日本大學附屬病院である。」

空から眺めた大東京「銀座通り」(1933)

銀座通り1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「空から眺めた大東京『銀座通り』」です。教文館ビルがまだ建設中で、その間にある中村屋や山野楽器の辺りは空き地です。記事によると「一番下の左方に見える純白の建物が、この程出來上がつた服部時計店、そのお向ひが銀座三越、その上方に一つ飛んで松屋デパート、上方はるかに京橋、それを渡つてかすかながら、京橋交叉點際の第一相互ビルがうかゞはれる。左手に高く白いのが銀座ビル、その他、汚れて穢なくて黒くちつぽけな、銀座裏の寄生蟲カフエ群の屋根、屋根、屋根を含んだ、銀座一丁目から尾張町銀座四丁目に到る全景がこれ。」

空から眺めた大東京「橋梁美を鳥瞰する」(1933)

橋梁美を鳥瞰する1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「空から眺めた大東京『橋梁美を鳥瞰する』」です。隅田川上空の両国付近から上流を望んでいます。記事によると「大東京の、ほんたうに大東京らしい姿は、先づ隅田川の十一橋、圖はその中、兩國橋(一番下)一つとんで藏前橋、次が厩橋、駒形橋、吾妻橋一番上にかすかに望まれるのが言問橋である。兩國橋の直ぐ上が、兩國神田驛間を結ぶ省線鐵橋、その右側が兩國驛で、お向ひの圓屋根が大角力に名高い國技館、驛を越えて上方に見える今一つの圓屋根が安田家寄贈の本所公會堂、近くに震災記念堂や東洋一を誇る同愛記念病院も望まれる。」

空から眺めた大東京「新議事堂を望む」(1933)

新議事堂を望む1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「空から眺めた大東京『新議事堂を望む』」です。国会議事堂の竣工は1936(昭和11)年ですが、この時点でほぼ完成しているように見えます。記事によると「上方中央に見える白堊の殿堂、これこそ新日本最大の誇り、堂々帝都の空に聳える新國會議事堂の英姿、その上方右手よりが、軍國日本の最高權威参謀本部、その後方に三宅坂を挾んで、内壕中の絶景と呼ばれる辨慶堀のあたりが、かすかに見える。下方坂路の左の廣大な屋敷が、歴代首相の住む内閣總理大臣の官邸である。」

空から眺めた大東京「大東京の心臓を俯瞰する(その2)」(1933)

大東京の心臓(2)1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「空から眺めた大東京『大東京の心臓を俯瞰する』(その2)」です。京橋から日本橋上空からの航空写真です。左上に日本銀行や日本橋のデパート街が見えます。中央の測道付きの広い通りが昭和通りになります。現在はこの川の形に高速道路が走っています。

空から眺めた大東京「大東京の心臓を俯瞰する」(1933)

大東京の心臓1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「空から眺めた大東京『大東京の心臓を俯瞰する』」です。東京駅の上空からの航空写真です。八重洲口には外濠が残っています。新丸ビルや国鉄本社はまだ建設されておらず、市庁舎も古いままです。

空から眺めた大東京「數寄屋橋附近」(1933)

数寄屋橋附近1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)より、「空から眺めた大東京『数寄屋橋附近』」です。記事によると「帝國ホテル上空よりの撮影。眞中の白い建物が日本劇場、お隣りが朝日新聞と邦樂座、その右手が外濠、橋は下から順に上方へ、數寄屋橋、有樂橋、比丘尼橋、一つ飛んで鍛冶橋、八重洲橋、下方鍵型の建物が東京有數の新しさを誇る泰明小学校、左手の黒い帶のやうに見えるのが省線、そのガードをくゞつて直ぐ向ひ合って左に東日、右に報知新聞社、上方遥かに東京驛がガスに曇つて、驛前の中央郵便局だけがくつきりと白く浮ぶ。數寄屋橋を過つて左右に走るのが第四號幹線歌舞伎通り。」

博文館:編「大東京寫眞案内」(1933)

大東京写真案内1933jul

 1933(昭和8)年7月発行の「大東京寫眞案内」(博文館:編)です。震災から10年経って復興したモダン都市東京の写真案内ムックです。表紙は銀座上空から日本橋、三越、三井本館等を空撮した物です。今は高速道路で蓋がされた川や橋が良く見えています。博文館は1887(明治20)年に本郷に設立された出版社で、1892(明治25)年に日本橋本町に社屋を移しています。大正昭和初期は人気雑誌「太陽」や「新青年」を発行したり、東販や東京堂や共同印刷の前身を設立したり大変栄えましたが、戦後は博文館新社として日記帳等を発行しています。

雑誌記事「リボン細工と紙撚細工の作品」(1931)

リボン細工と紙撚細工1931jun

 1931(昭和6)年6月発行の雑誌附録「新型手藝大アルバム・少女倶樂部六月號附録」(大日本雄辯會講談社)の中の記事より「リボン細工と紙撚細工の作品」です。上二つは大妻技藝學校の、下二つはリボン刺繍作畫協會の斎藤茂さんの作品です。

雑誌記事「フラワーリリー細工とリボン刺繍作品」(1931)

フラワーリリー細工とリボン刺繍1931jun

 1931(昭和6)年6月発行の雑誌附録「新型手藝大アルバム・少女倶樂部六月號附録」(大日本雄辯會講談社)の中の記事より「フラワーリリー細工とリボン刺繍作品」です。村山岩子さんはこの時期に手芸関係の本を大変沢山書いています。

雑誌記事「ビーズ細工の額と手提袋」(1931)

ビーズ細工1931jun

 1931(昭和6)年6月発行の雑誌附録「新型手藝大アルバム・少女倶樂部六月號附録」(大日本雄辯會講談社)の中の記事より「ビーズ細工の額と手提袋」です。清霞学院長の戸田清子さんの作品です。この学校の詳細は判りませんでした

雑誌記事「クレープペーパー細工のいろいろ」(1931)

クレープペーパー細工のいろいろ1931jun

 1931(昭和6)年6月発行の雑誌附録「新型手藝大アルバム・少女倶樂部六月號附録」(大日本雄辯會講談社)の中の記事より「クレープペーパー細工のいろいろ」です。クレープペーパーを使った人形の洋服やランプの飾りなどです。前述の佐藤都代子さんの作品です。

雑誌記事「外國刺繍の作品」(1931)

外國刺繍の作品1931jun

 1931(昭和6)年6月発行の雑誌附録「新型手藝大アルバム・少女倶樂部六月號附録」(大日本雄辯會講談社)の中の記事より「外國刺繍の作品」です。外国刺繍といっても、日本刺繍に対応した技法の意味で、高津鶴子さんはこの頃の婦人雑誌等に多くの刺繍製作記事を載せています。上の刺繍屏風はこの年に朝香宮紀久子様が鍋島家に嫁いだおりの嫁入り道具の一つだそうです。

雑誌記事「クレープペーパー細工の装飾人形」(1931)

クレープペーパー細工の装飾人形1931jun

 1931(昭和6)年6月発行の雑誌附録「新型手藝大アルバム・少女倶樂部六月號附録」(大日本雄辯會講談社)の中の記事より「クレープペーパー細工の装飾人形」です。クレープペーパーはひだやしわの付いた紙です。レディス洋裁学院は佐藤(木崎)都代子さんによって1926(大正15)年に現在も続くドレスメーカー女学院とほぼ同時に創立された洋裁学校の元祖です。

雑誌記事「手藝品で飾った少女のお部屋」(1931)

少女のお部屋1931jun

 1931(昭和6)年6月発行の雑誌附録「新型手藝大アルバム・少女倶樂部六月號附録」(大日本雄辯會講談社)の中の記事より「手藝品で飾った少女のお部屋」です。記事内の作品で飾り立てたモデルルームです。当時の理想的な少女の部屋と思われますが、床の間床柱付きの客間を無理矢理洋間仕立てにして、他も色々和洋折衷で大変興味深いです。

雑誌附録「新型手藝大アルバム・少女倶樂部六月號附録」(1931)

手芸大アルバム1931jun

 1931(昭和6)年6月発行の雑誌附録「新型手藝大アルバム・少女倶樂部六月號附録」(大日本雄辯會講談社)です。これは 「少女倶樂部六月號附録・女子名選手画報」とリバーシブルになっているものです。大妻学院の創始者、大妻コタカ(1884-1970)さんが序文を載せています。

雑誌記事「井上浩子さん」(1931)

井上浩子1931jun

 1931(昭和6)年6月発行の雑誌附録「少女倶樂部六月號附録・女子名選手画報」(大日本雄辯會講談社)内の記事より、井上浩子さんです。戦前のスキー・スケート競技ではフィギュアスケートを除き女子種目がほとんどありませんでした。

雑誌記事「細矢敏子さん」(1931)

細矢敏子1931jun

 1931(昭和6)年6月発行の雑誌附録「少女倶樂部六月號附録・女子名選手画報」(大日本雄辯會講談社)内の記事より「凛々しい乗馬姿」細矢敏子さんです。在学する成城高女は成城学園の高等女学校として1927(昭和2)年に創立されました。

雑誌記事「柳澤惠美子さん」(1931)

柳澤惠美子1931jun

 1931(昭和6)年6月発行の雑誌附録「少女倶樂部六月號附録・女子名選手画報」(大日本雄辯會講談社)内の記事より、体育ダンスを踊る柳澤惠美子さんです。所属の東京府立第二高女は現在の都立竹早高校です。

雑誌記事「吉田艶子さん」(1931)

吉田艶子1931jun

 1931(昭和6)年6月発行の雑誌附録「少女倶樂部六月號附録・女子名選手画報」(大日本雄辯會講談社)内の記事より、吉田艶子さんです。吉田さんは1929(昭和4)年と1930(昭和5)年の御所高女所属で全日本陸上選手権女子やり投げで優勝しています。奈良縣立御所高等女學校は1904(明治37)年に創立され、戦後は御所高校、現在の県立青翔中高です。

雑誌記事「小川正榮さん」(1931)

小川正栄1931jun

 1931(昭和6)年6月発行の雑誌附録「少女倶樂部六月號附録・女子名選手画報」(大日本雄辯會講談社)内の記事より、小川正榮さんです。100m13秒2で、当時のトップクラスの記録を持っています。

雑誌記事「田中千代子さん」(1931)

田中千代子1931jun

 1931(昭和6)年6月発行の雑誌附録「少女倶樂部六月號附録・女子名選手画報」(大日本雄辯會講談社)内の記事より、田中千代子さんです。頌榮高等女学校のバスケットボール選手ですが、フリースローの世界選手権保持者とあります。

雑誌記事「湯浅千代子さん」(1931)

湯浅千代子1931jun

 1931(昭和6)年6月発行の雑誌附録「少女倶樂部六月號附録・女子名選手画報」(大日本雄辯會講談社)内の記事より、湯浅千代子さんです。女子体育専門学校在学中、1929(昭和4)年の神宮大会で100メートル走と走り幅跳びで学生女子新記録、1930(昭和5)年の日本選手権でも両種目で学生女子新記録、1931(昭和6)年の日本選手権で100メートル走の学生女子タイ記録を打ち立てました。

雑誌記事「林喜美子さん」(1931)

林喜美子1931jun

 1931(昭和6)年6月発行の雑誌附録「少女倶樂部六月號附録・女子名選手画報」(大日本雄辯會講談社)内の記事より、林喜美子さんです。林さんは毎日テニス選手権のシングルスで1931,1933,1934(昭和6、8、9)年に優勝、ダブルスでも1930,1933,1934(昭和5、8、9)年に優勝しています。

雑誌記事「小林知子さん」(1931)

小林知子1931jun

 1931(昭和6)年6月発行の雑誌附録「少女倶樂部六月號附録・女子名選手画報」(大日本雄辯會講談社)内の記事より、小林知子(1910-)さんです。小林さんは愛知淑徳高等女学校の創設者である小林清作氏の次女として生まれました(ちなみに長女が愛子、三女が淑子、四女が徳子)。幼い頃からテニスを始め、1930(昭和5年)と1931(昭和6)年の全日本選手権シングルスで優勝しています。
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