雑誌記事「松澤初穂さん」(1931)

松澤初穂1931jun

 1931(昭和6)年6月発行の雑誌附録「少女倶樂部六月號附録・女子名選手画報」(大日本雄辯會講談社)内の記事より、松澤初穂(1914-2011)さんです。松澤さんは京都府舞鶴生まれ、市岡高等女学校(現在の大阪府立港高校)在学中に日本記録を樹立、卒業して日本女子体育専門学校に進学して1932(昭和7)年のロサンゼルスオリンピックの代表に選ばれました(予選敗退)。その後は日本女子体育専門学校で後進の育成に努めました。結婚後は菅谷姓となり、テレビ東京の会長を勤めた菅谷定彦氏の母親でもあります。
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雑誌記事「市口房子さん」(1931)

市口房子1931jun

 1931(昭和6)年6月発行の雑誌附録「少女倶樂部六月號附録・女子名選手画報」(大日本雄辯會講談社)内の記事より、市口房子さんです。市口さんは日本女子商業(現在の嘉悦大学)所属で1929(昭和4)年の日本選手権水泳競技大会女子400m自由形で優勝しています。

雑誌記事「永井峰子さん」(1931)

永井峰子1931jun

 1931(昭和6)年6月発行の雑誌附録「少女倶樂部六月號附録・女子名選手画報」(大日本雄辯會講談社)内の記事より、永井峰子さんです。永井さんは1930(昭和5)年日本選手権水泳競技大会の女子400m自由形で優勝しています。それ以外のプロフィールや「豊島倶樂部」の詳細は判りませんでした。

雑誌記事「前畑秀子さん」(1931)

前畑秀子1931jun

 1931(昭和6)年6月発行の雑誌附録「少女倶樂部六月號附録・女子名選手画報」(大日本雄辯會講談社)内の記事より、前畑秀子さんです。前畑秀子(1914-1995)さんは和歌山県橋本の出身、地元の高等小学校の水泳部で平泳ぎの学童日本記録を出し、卒業後実家の豆腐屋を手伝う予定だったところを愛知県の椙山高等女学校にスカウトされ編入、同学院の全面的バックアップで世界的選手となりました。この翌年のロサンゼルスオリンピックで銀メダル、その4年後のベルリンオリンピックでは金メダルと大活躍しました。1937(昭和12)年に医者と結婚して兵藤姓となり、戦後も椙山女学園の職員として後進の育成に努めました。

広告「東寳映畫『松下村塾』」(1939)

松下村塾1939jun

 1939(昭和14)年6月発行の雑誌「東宝映画・六月上旬號」(東寳映畫社)内の広告より東寳映畫「松下村塾」(重宗和伸監督)です。写真は主演の高田稔さんです。

雑誌記事「東寳映畫『幼き者の旗』」(1939)

幼き者の旗1939jun

 1939(昭和14)年6月発行の雑誌「東宝映画・六月上旬號」(東寳映畫社)内の記事より「幼き者の旗」(佐藤武監督)です。写真は右から神田千鶴子さん、水町庸子(1912-1941)さん、汐見洋(1895-1964)さん、子役の小高まさる(1928-)さん、小高たかし(1934-1945)さんです。

雑誌記事「椿澄枝」(1939)

椿澄枝1939jun

 1939(昭和14)年6月発行の雑誌「東宝映画・六月上旬號」(東寳映畫社)内の記事より椿澄枝さんです。「樋口一葉」(並木鏡太郎監督)のスチル写真です。撮影の秦大三さんは東宝作品のスチルを戦後も1970年代までずっと撮り続けた人です。

広告「ライオン歯磨」(1939)

ライオン歯磨1939jun

 1939(昭和14)年6月発行の雑誌「東宝映画・六月上旬號」(東寳映畫社)内の広告より「ライオン歯磨」(ライオン歯磨本舗)です。当時はライオン石鹸株式會社の商品でした。

雑誌記事「罌粟の花咲く家(著:丹羽文雄、繪:おちあいのぼる)」(1939)

罌粟の花咲く家1939jun

 1939(昭和14)年6月発行の雑誌「東宝映画・六月上旬號」(東寳映畫社)内の小説より「罌粟の花咲く家(著:丹羽文雄、繪:おちあいのぼる)」です。著者の丹羽文雄(1904-2005)さんは三重県四日市のお寺の長男として生まれ、三重県立富田中学から早稲田大学文学部に進み在学中から新進作家として活動を始め、1929(昭和4)年に卒業後は一旦地元に帰って僧職となりますが、すぐに僧職を捨て上京し作家となります。銀座を舞台とした風俗小説で人気を博しました。挿絵の落合登(おちあいのぼる)(1911-1968)さんは東京市本芝生れ、独学で絵を学び、1927(昭和2)年光風会に入選後、松竹洋画宣伝美術部に入り、1937(昭和12)年にPCL、後の東宝で美術課課長をしているという社内画家です。

雑誌記事「初夏の楽しい洋畫」(1939)

初夏の楽しい洋画1939jun

 1939(昭和14)年6月発行の雑誌「東宝映画・六月上旬號」(東寳映畫社)の記事より「初夏の楽しい洋畫」です。写真左上はマール・オベロン"Merle Oberon"さん、右はユニヴァーサル映画「青春問答"Service de Luxe"」(Rowland V. Lee監督)のコンスタンス・ベネット"Constance Bennett"さんとヴィンセント・ブライス"Vincent Price"(1911-1993)さん、左下はパラマウント映画「盗まれた天國"Stolen Heaven"」(Andrew L. Stone監督)のオランプ・ブラドナ”Olympe Bradna"(1920-2012)さんとジーン・レイモンド"Gene Raymond"(1908-1998)さんです。"Stolen Heaven"はなぜか後に邦題が「乙女の曲」と変わっています。

広告「森永ビスケット」(1939)

森永ビスケット1939jun

 1939(昭和14)年6月発行の雑誌「東宝映画・六月上旬號」(東寳映畫社)内の広告より「森永ビスケット」(森永製菓株式會社)です。1899(明治32)年に森永太一郎(1865-1937)氏によって設立された森永西洋菓子製造所は1912(大正元)年に森永製菓株式會社となり現在に至ります。戦前からキャラメルやチョコレートで有名となり、またキャンペーンガールを使ったり著名なデザイナーを広告に起用するなど時代の先端を走っていました。この広告にあるマリーは1923(大正12)年から、赤ちゃん用のマンナは1930(昭和5)年から発売されて現在でも販売されています。

広告「東宝文化映画シリーズ」(1939)

東宝文化映画シリーズ1939jun

 1939(昭和14)年6月発行の雑誌「東宝映画・六月上旬號」(東寳映畫社)の裏表紙裏広告より「東宝文化映画シリーズ」です。この年に改正された映画法によって、娯楽映画には必ず教育映画を併映しなければいけなくなったため、各社ラインナップをそろえています。

広告「明治紅茶」(1939)

明治紅茶1939jun

 1939(昭和14)年6月発行の雑誌「東宝映画・六月上旬號」(東寳映畫社)内の広告より「明治紅茶」(明治製菓株式會社)二点です。戦前から戦後にかけて明治ブランドの紅茶が売られていたようです。

雑誌記事「スタア豆辞典『中村正子』」(1939)

中村正子1939jun

 1939(昭和14)年6月発行の雑誌「東宝映画・六月上旬號」(東寳映畫社)の記事より「スタア豆辞典『中村正子』」です。中村正子(1918-?)さんは現在の東京都台東区の生まれ、上野高等女学校を卒業後JOスタヂオ(後の東宝)京都に入社、1938(昭和13)年に「五分の魂」(広瀬五郎監督)で映画デビューします。1939(昭和14)年に東宝東京に移りその年数本の映画に出演しますが、その後は不明です。

広告「パーマネントはナショナルへ」(1939)

パーマンネントはナショナルへ1939jun

 1939(昭和14)年6月発行の雑誌「東宝映画・六月上旬號」(東寳映畫社)内の広告より「パーマネントはナショナルへ」です。大阪の心斎橋筋にあった美容室で経営者の山口倫子さんは松下幸之助氏より直接ナショナルの名前をいただいたそうです。現在も後継の同名美容室が関西に存在します。

雑誌記事「秋川渓谷ハイキング(その2)」(1939)

秋川渓谷ハイキング1939jun

 1939(昭和14)年6月発行の雑誌「東宝映画・六月上旬號」(東寳映畫社)の記事より「秋川渓谷ハイキング(その2)」です。江波和子さん、戸川弓子さん、竹久千恵子さんと横山運平(1881-1967)さんです。横山運平さんは滋賀県彦根生まれ、新派の舞台に子役としてデビューしその後新派の舞台俳優を勤めますが、1912(大正元)年に後に日活となる吉沢商店目黒撮影所に入社し、盛んに新派劇の映像化に参加します。その後名脇役として映画会社を渡り歩き、戦後も名老け役として多数の映画に出演しています。

雑誌記事「秋川渓谷ハイキング」(1939)

遠足1939jun

 1939(昭和14)年6月発行の雑誌「東宝映画・六月上旬號」(東寳映畫社)の記事より「秋川渓谷ハイキング」です。東宝のスター俳優達が秋川渓谷周辺をハイキングしています。当時はまだ私鉄だった五日市線の東秋留駅周辺のようです。江波和子さんの今見てもおしゃれなパーマが美しいです。また以前ご紹介した星ヘタヤさんもいらっしゃいます。

広告「東寳映畫『樋口一葉』」(1939)

樋口一葉1939jun

 1939(昭和14)年6月発行の雑誌「東宝映画・六月上旬號」(東寳映畫社)の表紙裏広告より「樋口一葉」(並木鏡太郎監督)です。写真は主演の山田五十鈴さんです。このフィルムは現存しているようで、上映会等で公開される事もあるようです。

広告「次郎長漬(千代田屋本店)」(1939)

次郎長漬1939mar

 1939(昭和14)年3月発行の雑誌「東宝映画・三月上旬號」(東寳映畫社)内の広告より「次郎長漬」(千代田屋本店)です。いわゆるわさび漬けで長らく静岡土産の定番でしたが、千代田屋本店は2005(平成17)年に廃業してしまったため今では手に入りません。

広告「日本のディアナ・ダービンを募る」(1939)

日本のディアナ・ダービンを募る1939mar

 1939(昭和14)年3月発行の雑誌「東宝映画・三月上旬號」(東寳映畫社)内の広告より「日本のディアナ・ダービンを募る」です。東宝とビクター共同の女優・歌手募集の記事です。誰が選ばれたのか気になるところですが、発表記事を見つけられませんでした。

広告「ラヂオは・・ナショナル」(1939)

ラヂオはナショナル1939mar

 1939(昭和14)年3月発行の雑誌「東宝映画・三月上旬號」(東寳映畫社)内の広告より「ラヂオは・・ナショナル」(松下無線株式會社)です。「銃後の固めはこの名機で」とキャッチコピーは少し戦時色が出ています。

広告「近代人のタバコ・光」(1939)

近代人のタバコ光1939mar

 1939(昭和14)年3月発行の雑誌「東宝映画・三月上旬號」(東寳映畫社)内の広告より「近代人のタバコ・光」です。当時はまだ反米色は強くなく、チェリーやゴールデンバットやホープなど英語名のタバコもまだ沢山残っていました。

広告「資生堂中煉歯磨」(1939)

資生堂中練歯磨き1939mar

 1939(昭和14)年3月発行の雑誌「東宝映画・三月上旬號」(東寳映畫社)内の広告より「資生堂中煉歯磨」です。資生堂も自社ブランドの歯磨き剤を販売していました。この頃最も使われていた粉状の歯磨き粉に対してペースト状の練り歯磨きも古くからありました。

雑誌記事「冬山にて・梅園龍子」(1939)

梅園龍子1939mar

 1939(昭和14)年3月発行の雑誌「東宝映画・三月上旬號」(東寳映畫社)の記事より「冬山にて・梅園龍子」です。撮影した磯沼秀夫さんは当時明治製菓宣伝部所属の写真家で、1943(昭和18)年4月にこの梅園龍子さんと梅園さんをカジノフォーリーから映画界に引き抜いた川端康成さんの媒酌で結婚します。

広告「お茶は静岡」(1939)

お茶は静岡1939mar

 1939(昭和14)年3月発行の雑誌「東宝映画・三月上旬號」(東寳映畫社)内の広告より「お茶は静岡」です。モデルとして入江たか子さんを起用して地方ブランドのPRにしては気合いが入っています。

雑誌記事「樋口一葉を語る座談会」(1939)

樋口一葉1939mar

 1939(昭和14)年3月発行の雑誌「東宝映画・三月上旬號」(東寳映畫社)の記事より「樋口一葉を語る座談会」です。写真は山田五十鈴さんと長谷川時雨(1879-1941)さんです。作家であり女性地位向上の運動家でもあった長谷川時雨さんは東京日本橋に弁護士の娘として生まれ、女性に教育はいらないという家庭の風潮に反発し池田侯爵家に行儀見習い奉公中に独学したり、佐佐木信綱氏から古典を習ったりしていましたが1897年に18歳で親の命令に従って成金の息子と結婚しますが、遊び人の夫のため破綻し離婚します。その頃雑誌への投稿作品が認められ、作家としてまた女性運動家として亡くなるまで活動しました。

広告「東寳映畫『はたらく一家』」(1939)

はたらく一家1939mar

 1939(昭和14)年3月発行の雑誌「東宝映画・三月上旬號」(東寳映畫社)の裏表紙裏広告より「はたらく一家」(成瀬巳喜男監督)です。元プロレタリア作家として有名な徳永直(1899-1958)さんが原作で、主演は徳川夢聲さんです。徳永直さんは熊本県生まれ、小学校在学中から印刷工などをしていましたが、組合活動で林房雄さん等と知り合い、1922(大正11)年に上京し、植字工として働きながら組合の雑誌などに小説を掲載するようになり、1926(大正15)年の共同印刷争議で解雇され作家となります。労働運動等をテーマとしたプロレタリア作家として活動しますが、小林多喜二さんの殺害など弾圧の高まりから転向宣言をしました。ただ時局に沿った作品の他にもこの作品のように労働者の目線の作品を多く残しており、戦後も活躍しました。

広告「フナキヤ元町シャツ店」(1939)

フナキヤ1939mar

 1939(昭和14)年3月発行の雑誌「東宝映画・三月上旬號」(東寳映畫社)内の広告より「フナキヤ元町シャツ店」です。神戸市内にあった紳士服店で、戦後もアイビーブームを支えた老舗でしたが現在は閉店しているようです。

広告「東寳映畫『頰白先生』」(1939)

頬白先生1939mar

 1939(昭和14)年3月発行の雑誌「東宝映画・三月上旬號」(東寳映畫社)の表紙裏広告より「頰白先生」(阿部豊監督)です。写真は主演の古川緑波さん、下は右から高峰秀子さん、堤眞佐子さん、神田千鶴子さんです。原作は内田百間(戦後に百閒)さんのエッセイです。

雑誌記事「『その前夜』からの山田五十鈴」(1939)

山田五十鈴1939mar

 1939(昭和14)年3月発行の雑誌「東宝映画・三月上旬號」(東寳映畫社)の記事より「『その前夜』からの山田五十鈴」です。「その前夜」(萩原遼監督)は山中貞雄さんの「木屋町三条」が原作です。山中監督が戦病死して果たせなかった映画化を愛弟子の萩原遼(1910-1976)監督が行いました。萩原遼さんは大阪市生まれ、大連第一中学校を卒業後1930(昭和5)年にマキノプロダクションに入社、同プロ解散後、1934(昭和9)年に日活京都に入社、山中貞雄監督の「鳴滝組」に参加します。1936(昭和11)年に監督に昇進します、1937(昭和12)年にJ.O.スタジオ(後の東宝)に移籍、戦後は新東宝を経て東横映画に移籍し1970(昭和45)年まで映画監督を続けました。
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