広告「腎臓病にブロア」(1938)

1938(昭和13)年12月発行の雑誌「東宝映画・十二月上旬號」(東寳映畫社)内の広告より「腎臓病にブロア」(吉松腎臓病製劑部)です。病院長の吉松軍司先生は戦前、戦後と腎臓病関係の著書も多数あり、権威だったようです。
広告「整腸藥の權威・ワカ末」(1938)

1938(昭和13)年12月発行の雑誌「東宝映画・十二月上旬號」(東寳映畫社)内の広告より「整腸藥の權威・ワカ末」(若林製藥所)です。これは現在もクラシエ製薬から発売されている整腸剤ですが、若林製薬所はクラシエ製薬の前身である薬種問屋の中村滝商店(後の中滝製薬)の傘下にあり、ワカ末は1917(大正6)年に発売されました。当時民間療法で整腸に効果のあった薬草から若林哲郎博士が薬効成分を抽出し「若林の粉末」として商品化したのが最初でした。
広告「東寳映畫『胡椒息子』」(1938)

1938(昭和13)年12月発行の雑誌「東宝映画・十二月上旬號」(東寳映畫社)の表紙裏広告より「胡椒息子」(藤田潤一監督)です。写真は子役の林文夫さんです。林文夫さんは戦前に子役で数作映画出演していますが、その後の活動は判りませんでした。
広告「世界最小カメラ・ミゼット」(1938)

1938(昭和13)年12月発行の雑誌「東宝映画・十二月上旬號」(東寳映畫社)内の広告より「世界最小カメラ・ミゼット」(株式會社美篤商會)です。17.5mm幅のミゼットフィルムを使用した豆カメラです。美篤(ミスズ)商會は1920年に設立されたカメラ会社で、1937(昭和12)年に売り出したミゼットが当り、豆カメラブームを起こしました。戦後は富士写真フィルムの特約店として存続しましたがフィルムカメラの衰退とともに2004年に会社を解散しました。
雑誌記事「東寳映畫『むかしの歌・胡椒息子』」(1938)

1938(昭和13)年12月発行の雑誌「東宝映画・十二月上旬號」(東寳映畫社)の記事より「むかしの歌・胡椒息子」です。上が「むかしの歌」(石田民三監督)で花井蘭子さんと藤尾純(1911-1987)さんです。助監督に市川崑(1915-2008)さんがいます。この作品は森本薫(1912-1946)さんの原作・脚本です。森本さんは大阪市生まれ、北野中から第三高校を経て京都帝国大学を1937(昭和12)年に卒業、在学中から演劇や映画の作家、俳優、脚本家、演出家として活動しました。戦中に文学座で「女の一生」を公演し、戦後も再演を繰り返すロングランとなります。御本人は結核が戦争中に悪化し、戦後すぐに34歳で早逝されました。下が「胡椒息子」(藤田潤一監督)で写真は子役の林文夫さんと嵯峨善兵(1909-1989)さんです。原作は獅子文六(1893-1969)さんの同名小説です。獅子文六(本名:岩田豊雄)さんは絹織物商の息子として横浜に生まれ、慶應幼稚舎、普通部から慶應大学に進学するも中退、フランスに留学して演劇を勉強し帰国後、1937(昭和12)年に岸田國士さんらと劇団文学座を立ち上げます。その後「獅子文六」の筆名で小説も多く発表し、人気作家、演出家となりました。
広告「東寳映畫『軍港の乙女達』」(1938)
雑誌記事「スタア出世物語・江戸川蘭子」(1938)

1938(昭和13)年12月発行の雑誌「東宝映画・十二月上旬號」(東寳映畫社)の記事より「スタア出世物語・江戸川蘭子・歌姫日記」(瀧川保吉:文)です。江戸川蘭子さんの半生が描かれています。江戸川さんはこの頃SKDを退団後PCLから映画デビューし、東宝系で活躍していました。
広告「近代人のタバコ・光」(1938)

1938(昭和13)年12月発行の雑誌「東宝映画・十二月上旬號」(東寳映畫社)の広告より「近代人のタバコ・光」です。当時タバコは大蔵省専賣局による独占販売でした。雑誌には意外とタバコの広告は見かけません。光は戦前戦後期に販売された中級タバコで、杉浦非水氏のデザインパッケージでした。
雑誌記事「花井蘭子・澤村貞子・袁美雲・江島瑠美」(1938)

1938(昭和13)年12月発行の雑誌「東宝映画・十二月上旬號」(東寳映畫社)の記事より「花井蘭子・澤村貞子・袁美雲・江島瑠美」です。写真右上は花井蘭子さん、右下が澤村貞子(1908-1996)さん、左上が袁美雲(1918-1999)さん、左下が江島瑠美(1926-)さんです。澤村貞子さんは東京浅草生まれ、父は狂言作者、兄は四代目澤村國太郎さん、弟は加東大介さん、甥は長門裕之さんと津川雅彦さんと役者の一族です。府立一女から日本女子大に入学しますが築地小劇場で女優となり退学、プロレタリア運動挫折後は日活から映画デビューし人気女優となりました。袁美雲さんは中国浙江省杭州生まれで6歳で京劇、9歳で映画デビューしその後人気女優となりました。戦後は上海で映画女優として活躍しています。江島瑠美さんは「悦ちゃん」の芸名で子役として活躍していましたが、これ以降女優活動はなされていないようです。
雑誌記事「まんが都會生活革新案」(1938)

1938(昭和13)年10月発行の雑誌「サンデー毎日・十月十六日第二増大號」(大阪毎日新聞社)の記事より「まんが都會生活革新案」(岸丈夫・加藤悦郎畫)です。非常時と言われていながら都会の贅沢な生活を冗談めかして揶揄していますが、この革新案は数年後にシャレでなくなります。逆に言えばまだ昭和13年の段階では呑気なものです。岸丈夫(1909-?)さんは岩手県生まれ、旧制盛岡中学を卒業後1929(昭和4)年に画家を目指して上京、岡本一平さんの影響で漫画家に転向し、1932(昭和7)年の新漫画派集団にも参加、様々な雑誌に主に風刺漫画を発表するようになりました。日米開戦後海軍に召集されるも横須賀で終戦、戦後も漫画を書きましたがその後の詳しい消息は判りません。加藤悦郎(1899-1959)さんは北海道小樽生まれ、1914(大正3)年に高等小学校卒業後小樽新聞に漫画記者として入社、北海タイムスなどを経てプロレタリア美術運動に参加、プロレタリア運動が下火になった後も1935(昭和10)年にサンチョクラブに参加し風刺漫画が各誌に掲載され、戦後も政治的な風刺漫画を多数発表しました。
広告「パーマネント・マロミ"MALOTMIE"」(1938)

1938(昭和13)年10月発行の雑誌「サンデー毎日・十月十六日第二増大號」(大阪毎日新聞社)の広告より「パーマネント・マロミ"MALOTMIE"」です。本店は新宿伊勢丹近く、地図の銀座店は銀座4丁目交差点の近くと現在ではどちらも一等地です。
雑誌記事「隨想」(1938)

1938(昭和13)年10月発行の雑誌「サンデー毎日・十月十六日第二増大號」(大阪毎日新聞社)の記事より「隨想」のカットです。イラストレーターの記述はなく、「め」というサインの方もわかりませんでした。デザイン化されたモダンな女性が描かれています。
広告「乃木の薫(天昇堂)」(1938)

1938(昭和13)年10月発行の雑誌「サンデー毎日・十月十六日第二増大號」(大阪毎日新聞社)の広告より「有名線香・乃木の薫」(天昇堂)です。このお線香は現在でも製造販売されていて御墓参りの定番です。
広告「大衆文藝」(1938)

1938(昭和13)年10月発行の雑誌「サンデー毎日・十月十六日第二増大號」(大阪毎日新聞社)の広告より「新作大衆文藝號」です。これは大阪毎日新聞社がサンデー毎日の増刊号として出版していた雑誌です。小栗虫太郎さんや三上於菟吉さんなど人気作家の作品の他に第23回大衆文藝佳作が主に掲載されています。なお、この回の大衆文藝入選作が本サンデー毎日に掲載されている藤野庄三名義の「約束」という作品ですが、この方は後の人気作家の山岡荘八さんです。
広告「鶏御料理きんなべ」(1938)

1938(昭和13)年10月発行の雑誌「サンデー毎日・十月十六日第二増大號」(大阪毎日新聞社)の広告より「鶏・御料理・水だき・きんなべ」です。このお店は現在も京都の建仁寺近くで営業しています。朝6時から営業の上、入浴も出来るそうです。
広告「ヂヤウザイ粒六(田河水泡:繪)」(1938)

1938(昭和13)年10月発行の雑誌「サンデー毎日・十月十六日第二増大號」(大阪毎日新聞社)の広告内の4コマ漫画「ヂヤウザイ粒六」(田河水泡:繪)で、「わかもと」(株式会社栄養と育児の会)の広告になっています。田河水泡(1899-1989)さんは東京本所の生まれ、小学校を卒業後働いていましたが、兵役から帰ってくると画家を目指し、美術系の専門学校を卒業します。その後、村山知義氏のマヴォに参加したりしていましたが、落語の座付き作家を経て漫画家となり、「のらくろ」で爆発的な人気を得ました。
雑誌記事「松竹映畫『灰燼』新興映畫『御存じ紫頭巾』」(1938)

1938(昭和13)年10月発行の雑誌「サンデー毎日・十月十六日第二増大號」(大阪毎日新聞社)の記事より松竹映畫「灰燼」(冬島泰三監督)と新興京都映畫「御存じ紫頭巾」(木藤茂監督)の紹介です。上段の「灰燼」は西南戦争を舞台にした徳富蘆花氏作の原作で、左上が主演の高田浩吉さん右上が伏見信子さんと高田浩吉さん、その下が志賀靖郎さん本庄克二さん高田浩吉さんです。下段の「御存じ紫頭巾」は大正時代から現代まで数多く作られている正義の味方紫頭巾物で写真は右が羅門光三郎さんと松浦妙子さん、左が羅門光三郎さんと伴淳三郎(1908-1981)さんです。
雑誌記事「日活映畫『貞操の證』、東寳映畫『虹立つ丘』」(1938)

1938(昭和13)年10月発行の雑誌「サンデー毎日・十月十六日第二増大號」(大阪毎日新聞社)の記事より日活映畫「貞操の證」(千葉泰樹監督)と東寳映畫「虹立つ丘」(大谷俊夫監督)の紹介です。「貞操の證」はJMDBでは「女性行路」となっていて、原作は竹田敏彦(1891-1961)さんの同名小説、写真は右は星玲子(1915-2003)さんと子役の井上惠美子さん、左上は井染四郎(1907-?)さん星玲子さん井上惠美子さん、その下は杉狂児(1903-1975)さんと星玲子さんです。「虹立つ丘」はJMDBでは「虹に立つ丘」となっていて、写真は右が岸井明さんと神田千鶴子(1915-?)さん、左が御橋公(1895-1962)さんと高峰秀子さんと村瀬幸子(1905-1993)さんです。
雑誌記事「寳塚娘の大行進」(1938)

1938(昭和13)年10月発行の雑誌「サンデー毎日・十月十六日第二増大號」(大阪毎日新聞社)の記事より「寳塚娘の大行進」(ヅカガール・ビッグパレード)です。この年に行われたドイツとイタリアでの公演の紹介です。
広告「富士ネオパンクロフィルム」(1938)

1938(昭和13)年10月発行の雑誌「サンデー毎日・十月十六日第二増大號」(大阪毎日新聞社)の広告より「富士ネオパンクロフィルム」(富士寫眞フィルム株式會社)です。銀塩を感光させる白黒フィルムは感光する光の波長によってクロム、パンクロ、USクローム、赤外などいろいろなグレードが用意されていました。
雑誌記事「假面劇場(横溝正史:作)」(1938)

1938(昭和13)年10月発行の雑誌「サンデー毎日・十月十六日第二増大號」(大阪毎日新聞社)の記事より連載長篇探偵小説「假面劇場」(横溝正史:作)です。横溝正史(1902-1981)さんは神戸に生まれ、1920(大正9)年に旧制神戸二中を卒業後第一銀行に就職しますが、雑誌「新青年」の懸賞小説に入選します。その後大阪薬学専門学校を1924(大正13)年に卒業して薬剤師となり家業の薬局を手伝いながら小説を書き続けました。江戸川乱歩の勧めで上京し1927(昭和2)年には雑誌「新青年」の編集長となります。しかし1934(昭和9)年には持病の肺結核が悪化し、八ヶ岳山麓での療養生活が始まります。戦後抗生物質の投与で全快し、金田一耕助シリーズで一躍人気作家となりました。
雑誌記事「家庭漫畫ターちやんとキツパウ(小寺鳩甫)」(1937)

1937(昭和12)年3月発行の雑誌「週刊朝日・三月二十一日號」(朝日新聞社)の記事より家庭漫畫「ターちやんとキツパウ」(作:小寺鳩甫)です。小寺鳩甫(1889-1962)さんは大阪生まれの漫画家で、様々な雑誌に描いていました。「ターちやん」は週刊朝日に連載していたキャラクターです。
広告「ラヂオはシャープ受信機」(1937)

1937(昭和12)年3月発行の雑誌「週刊朝日・三月二十一日號」(朝日新聞社)の広告より「ラヂオはシャープ受信機」(早川金属工業株式會社)です。立志伝中の人と知られる早川徳次(1893-1980)さんは東京生まれ、金属細工の丁稚奉公から金属加工の町工場を立ち上げ、シャープペンシルなど様々な発明を行って業態を拡大しますが、関東大震災の混乱で事業を清算、1924(大正13)年大阪に移って早川金属工業研究所を一から立ち上げ、ラジオ受信機などを「シャープ」ブランドで生産を始め、1935(昭和10)年には株式会社化、1936(昭和11)年には早川金属工業株式会社に、1942(昭和17)年には早川電機工業株式会社に社名を変更し、1970(昭和45)年に現在のシャープ株式会社になりました。