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雑誌記事「心の不思議・電話姫」(1927)

心の不思議・電話姫1927oct

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)十月號の記事より「心の不思議・電話姫」です。上中の二枚の写真は1926年公開のドイツ映画「心の不思議"Geheimnisse einer Seele"」(Georg Wilhelm Pabst監督)よりベルナー・クラウス"Werner Krauss"さんとルート・ワイヤー"Ruth Weyher"さんです。下は1927年公開のパラマウント映画「電話姫"The Telephone Girl"」((Herbert Brenon監督)よりマッジ・ベラミー"Madge Bellamy"さんとワーナー・バクスター"Warner Baxter"さんです。
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雑誌グラビア「バスター・キートン氏"Mr. Buster Keaton"」(1927)

バスター・キートン氏1927oct

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)十月號のグラビア記事より「バスター・キートン氏"Mr. Buster Keaton"」です。バスター・キートン"Buster Keaton"(1895-1966)さんはチャップリン、ロイドと並ぶ世界の三大喜劇王と呼ばれています。キートンさんは米国カンザス州生まれ、両親とも舞台芸人で小さい頃から舞台に上がり、映画にも出演していました。出征した第一次大戦からの帰国後、多くのサイレント喜劇に主演し大変な人気を博しました。

雑誌記事「東亞・帝キネ・マキノ映畫十月新作」(1927)

東亞帝キネマキノ十月新作1927oct

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)十月號の記事より「東亞と帝キネとマキノ映畫」新作紹介です。上は東亞キネマ「逆轉」(長尾史録監督)の光岡龍三郎さんと浅岡昇子さん、中右は帝國キネマ演藝「天下泰平」(江後岳翠監督)の泉清子さんと中村小福さん、中左はマキノプロダクション「砂繪呪縛」(マキノ省三監督)の河上君榮さんと鈴木澄子さん、下は東亞キネマ「南風」(石田民三監督)の高田稔さんと鏡淳子さんです。

雑誌グラビア「愛のくちづけ」(1927)

ドン・ファン1927oct

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)十月號のグラビア記事より「愛のくちづけ」です。場面は1926(大正15)年米国公開のワーナーブラザース映画「ドン・ファン"Don Juan"」(Alan Crosland監督)よりジョン・バリモア"John Barrymore"(1882-1942)さんとメリー・アスター"Mary Astor"(1906-1987)さんです。

雑誌記事「プロダクション十月新作」(1927)

独立プロダクション新作1927oct

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)十月號の記事より「プロダクション映畫」新作紹介です。上は勝見庸太郎プロダクション作品「文七元結」(勝見正義監督)の勝見庸太郎さんです。中は諸口十九社作品「美代吉殺し」(二川文太郎監督)より諸口十九さんと筑波雪子さんです。下は築地小劇場製作昭和キネマ(ミナトーキー)作品「黎明」(小山内薫監督)より右は汐見洋さんと東山千榮子(1890-1980)さん、左は東屋三郎さんです。原作は佐藤雪夫さんです。この作品は音声をフィルムにプリントするトーキーの試作的作品で後の日本初のトーキー映画「マダムと女房」で実用化されます。

雑誌グラビア「ビリー・ドーヴ嬢"Miss. Billie Dove"」(1927)

ビリー・ドーヴ嬢1927oct

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)十月號のグラビア記事より「ビリー・ドーヴ嬢"Miss. Billie Dove"」です。ビリー・ダヴ(1903-1997)さんはスイス移民の子としてアメリカに生まれ、十代から家計の支援の為モデルとして働いていました。その後ハリウッド映画に出演するようになり、1920年代には最も人気のある女優の一人となりました。映画監督との結婚と離婚を経て1932(昭和7)年に映画界を引退し、石油会社幹部と結婚しました。

雑誌記事「日活映畫十月新作」(1927)

日活映画1927oct

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)十月號の記事より「日活映畫」新作紹介です。上は「砂繪呪縛」(高橋寿康監督)の酒井米子さんと伊藤みはるさんです。この原作は日活、マキノ、東亜、松竹の4社競作同時公開です。中は「髑髏組」(中山呑海監督) の桂武男さんと木下千代子さん、下右は「尊王攘夷」(池田富保監督)の山本嘉一さん、下左は「當世變り者」(三枝源次郎監督)の根岸東一郎さんと瀧花久子さんです。

雑誌グラビア「秋深む("The Way of All Flesh")」(1927)

秋深む1927oct

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)十月號のグラビア記事より「秋深む」です。写真はパラマウント映画"The Way of All Flesh"(Victor Fleming監督)よりエミール・ヤニングス"Emil Jannings"(1884-1950)さんとベル・ベンネット"Belle Bennett"(1891-1932)さんです。

雑誌グラビア「イヴァン・モジュヒン氏"Mr. Ivan Mosjuhine"」(1927)

イヴァン・モジュヒン氏1927oct

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)十月號のグラビア記事より「イヴァン・モジュヒン氏"Mr. Ivan Mosjuhine"」です。イワン・イリイチ・モジューヒン"Иван Ильич Мозжухин"(1889-1939)さんはロシア生まれ、モスクワ大学で法学を学んだ後、1908(明治41)年に映画に出演したのをきっかけ演劇界に入ります。革命後はフランスを中心にヨーロッパで俳優、監督として活動しました。1926(大正15)年にアメリカに進出し、ジョン・モスキン"John Moskin"を名乗りアメリカ映画にも出演しますが、1928(昭和3)年には再びヨーロッパに活動の中心を移しました。最後の映画出演は「地中海」(バロンセリ監督)でした。

雑誌記事「松竹映畫十月新作」(1927)

松竹映画1927oct

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)十月號の記事より「松竹映畫」新作紹介です。上は「久遠の像」(重宗務監督)より林千歳さんと小林新一郎さん、中は「先生とその娘」(佐々木恒次郎監督)より新井淳さんと佐々木清野さん、下右は「孤児」(大久保忠素監督)より高尾光子さんと藤川正一さんと小桜葉子さん、下左は「復讐鬼」(丘虹二監督)より吾妻三郎さんと旭清明さんです。

雑誌グラビア「悩める紅輪/ノーマ・タルマツヂ嬢」(1927)

ノーマ・タルマッヂ1927oct

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)十月號のグラビア記事より「悩める紅輪/ノーマ・タルマツヂ嬢」です。ノーマ・タルマッヂ"Norma Talmadge"(1894-1957)さんは米国ニュージャージー州生まれ、両親の離婚後はブルックリンで母と暮らし、1910(明治43)年に映画デビューしました。1922(大正11)年にハリウッドに移るまではニューヨークで活動していました。トーキー化後は人気が伸び悩み1930(昭和5)年を最後に映画から引退しました。自身がプロデュースした「カミーユ」(Fred Nibro監督)は1926(大正15)年に米国公開したサイレント映画で、デュマの「椿姫」が原作です。

雑誌記事「日本映画新作紹介」(1927)

慈悲心鳥、海邊の女王、盛綱、戀の簪1927oct

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)十月號の記事より、「慈悲心鳥と海邊の女王/盛綱と戀の簪」です。写真上が菊池寛氏原作の日活映画「慈悲心鳥」(溝口健二監督)で夏川静江さんと原光代さんです。中右が松竹映画「海邊の女王(JMDBでは『海浜の女王』)」(牛原虚彦監督)の鈴木伝明さんと柏美枝(1904-1966)さんです。お二人とも日本人離れして見えますが、柏美枝さんはイギリス人のお雇い外国人を祖父に持つクォーターで、「伝説のモガ」だそうです。中左がマキノプロ映画「盛綱」(マキノ省三監督)で月形龍之介(1902-1970)さん、下が帝キネ作品「戀の簪」(森本登良男監督)の市川百々之助(1906-1978)さんと山下澄子(1899-?)さんです。

雑誌グラビア「松竹座九月狂言『新牡丹灯籠』」(1927)

新牡丹灯籠1927oct

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)十月號のグラビア記事より松竹座九月狂言「新牡丹灯籠」です。写真は八百屋お七に扮した女役者嵐あやめを演じる柳さく子さんです.

雑誌グラビア「ヴィルマ・バンキー嬢"Miss. Vilma Banky"」(1927)

ヴィルマ・バンキー嬢1927oct

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)十月號のグラビア記事より「ヴィルマ・バンキー嬢"Miss. Vilma Banky"」です。ヴィルマ・バンキー"Vilma Banky"(1903-1992)さんはハンガリー生まれ。学校を卒業後、速記者となりますが、1919(大正8)年にドイツで映画デビュー、ヨーロッパの映画に出演していたところハリウッドのプロデューサーにスカウトされ、1925(大正14)年にアメリカに移ります。その後ハリウッドの映画に幾つも主演しますが、結婚とトーキーの普及により1933(昭和8)年に映画界を引退しました。

雑誌グラビア「帝國劇場『月謡荻江一節』」(1927)

帝国劇場月謡荻江一節1927oct

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)十月號のグラビア記事より「帝國劇場『月謡荻江一節』」です。写っているのは初瀬浪子さんと守田勘彌さんです。

雑誌グラビア「胸ぬち燃ゆる」(1927)

魔炎1927oct

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)十月號のグラビア記事より「胸ぬち燃ゆる」です。米国ユナーテッドアーチスツ配給の映画「魔炎"The Magic Flame"」の一場面より、主演のロナルド・コールマン"Ronald Colman"(1891-1958)さんとヴィルマ・バンキー"Vilma Banky"(1901-1991)さんです。コールマンさんはイギリス人の俳優で「コールマン髭」の語源の方です。

雑誌グラビア「助高屋高助の姉輪の平次」(1927)

助高屋高助1927oct

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)十月號のグラビア記事より「青年俳優寫眞錦繪/助高屋高助の姉輪の平次」です。(五代目)助高屋高助(1900-1962)さんは七代目澤村宗十郎(1875-1949)さんの長男として浅草に生まれ、澤村高丸として5歳で初舞台、助高屋高丸を経て1920(大正9)年に5代目高助を襲名しましたが体型のせいもあって活躍の場が限られたそうです。

雑誌裏表紙「メイ・ムレイ嬢"Mae Murray"」(1927)

メイ・マレー1927oct

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)十月號の裏表紙より、「メイ・ムレイ嬢」です。メイ・マレー"Mae Murray"(1889-1965)さんは米国ヴァージニア州ポーツマス生まれ。1906(明治39)年にダンサーとしてブロードウェイで踊り始め、世界を巡業していました。1916(大正5)年に映画デビューし、サイレント時代のMGMのスターとなりました。しかし声がトーキー向きでなかった事と年齢によって人気も急落し、ビリー・ワイルダー監督の「サンセット大通り」における元大女優のモデルといわれています。

雑誌「劇と映画"The Play & Movie" 十月號」(1927)

劇と映画昭和二年十月號1927oct

 1927(昭和2)年発行の雑誌「劇と映画」"The Play & Movie" 十月號(国際情報社)です。表紙は豊原国周(1835-1900)画「市川左團次の吉田三五郎」です。描かれているのは「澤村訥升の恩地左近」です。二代目澤村訥升(1838–1886)さんは五代目澤村宋十郎さんの長男で、宋十郎襲名間近の舞台公演中に倒れ急逝しました。死後六代目を追贈されています。

雑誌グラビア「ウィリアム・ヘインズ氏"Mr. William Haines"」(1927)

ウィリアム・ヘインズ1927aug

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)八月號のグラビア記事より「ウィリアム・ヘインズ氏"Mr. William Haines"」です。ウィリアム・ヘインズ"William Haines"(1900-1973)さんは米国バージニア州スタントン生まれ、1922(大正11)年にスカウトされ、映画デビューし徐々に人気が出て1935(昭和10)年まで活躍し、それ以後はインテリアデザイナーとして働きました。彼は自分がゲイである事を表明していたのでハリウッド初の同性愛スターといわれています。

雑誌記事「プロダクシヨン八月新作」(1927)

プロダクション1927aug

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)八月號の記事より「プロダクシヨン」八月の新作映画紹介です。この頃は独立プロダクション作品も多く制作されましたが、映画館系列の問題でいずれも大手映画会社に吸収されていきました。上段左右は落合浪雄プロダクション作品人形劇「彌次喜多再興」より「なげしやんせの女」です。中右は衣笠映画聯盟作品「御用船」(衣笠貞之助監督)の林長二郎さん。下右は阪妻プロ作品「9番倉庫」(小澤得二監督)より伏見信子さんと稲垣浩さんです。中と下の左は阪妻プロ作品「海洋を越えて(JMDBでは「血染めの十字架」)」(安田憲邦監督)より阪東妻三郎さんと伏見直江さんと志賀靖郎さんです。

雑誌グラビア「アドルフ・マンジウ氏"Mr. Adolphe Menjou"」(1927)

アドルフ・マンジュー1927aug

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)八月號のグラビア記事より「アドルフ・マンジウ氏"Mr. Adolphe Menjou"」です。アドルフ・マンジュー"Adolphe Jean Menjou"(1890–1963)さんは米国ペンシルヴァニア州ピッツバーグ生まれ。コーネル大学を卒業後、1916(大正5)年に俳優となります。多くのハリウッド映画に出演し、アカデミー賞にもノミネートされました。

雑誌記事「東亞と帝キネ八月新作」(1927)

東亜と帝キネ1927aug

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)八月號の記事より「東亞と帝キネ」八月の新作映画紹介です。上右は東亞映畫「血櫻峠」(仁科熊彦監督)の阪東太郎さん。上左は東亞映畫「愛の讃歌(JMDBでは「男、女、男」)」(印南弘監督)の宮嶋健一さんと千種百合子さん。中右は東亞映畫「倉橋伝助」(仁科熊彦監督)の阪東太郎さんと小坂照子さん。中左は帝キネ「當世三人娘(JMDBでは「当節三人娘」)」(大森勝監督)の里見明さんと松葉笑子さん。下右は帝キネ「哀愁」(大森勝監督)の歌川八重子さんと花田明さん。下左は帝キネ「梁川庄八」(佐藤樹一路監督)の尾上紋十郎さんらです。

雑誌記事「新橋演舞場と松竹座」(1927)

新橋演舞場と松竹座1927aug

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)八月號の記事より「新橋演舞場と松竹座」の演劇公演紹介です。写真上と下は新橋演舞場で公演された澤田正二郎一座の「星亨」です。上は仮装舞踏会の場面、下は星亨役の澤田正二郎さんです。中の二枚は松竹座の公演で、右が大関柊郎氏作の「新婚後の生活」、左が岡本綺堂氏作の「白虎隊」の場面です。

雑誌記事「松竹と日活八月新作」(1927)

松竹と日活1927aug

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)八月號の記事より「松竹と日活」八月の新作映画紹介です。上と中右は松竹映画「毒唇」(野村芳亭監督)の撮影スナップです。中右は岩田祐吉さんと松井千枝子さんです。中左は日活映画「地雷火組」(池田富保監督)の河部五郎さんです。下は日活映画「東洋武侠團」(内田吐夢監督)より右から築地浪子さん、根岸東一郎さん、中山呑海さん、山本嘉一さん、澤蘭子さんです。

雑誌グラビア「メイ・マツカヴオイ嬢"Miss May Macavoy"」(1927)

メイ・マカヴォイ嬢1927aug

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)八月號のグラビア記事より「メイ・マツカヴオイ嬢"Miss May Macavoy"」です。メイ・マカヴォイ"May McAvoy"(1899-1984)さんは米国ニューヨーク州生まれ、サイレント時代に人気を博しましたが1929(昭和4)年に結婚を期に引退しました。

雑誌記事「日活映畫八月新作」(1927)

日活映画1927aug

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)八月號の記事より「日活映畫」八月の新作紹介です。右上より「討たれぬ仇」(若山治監督)より桂武男さんと櫻木梅子さん、左上が「稲妻」(木藤茂監督)より高木永二さんと瀧花久子さん、中が東坊城恭長さんの初監督作品「旅藝人」、右下が「東洋武侠團」(内田吐夢監督)の浅岡信夫さん、左下が「地雷火組」(池田富保監督)の河部五郎さんと酒井米子さんです。

雑誌グラビア「クララ・ボウ嬢"Miss Clara Bow"」(1927)

クララ・ボウ嬢1927aug

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)八月號のグラビア記事より「クララ・ボウ嬢"Miss Clara Bow"」です。クララ・ボウ"Clara Bow"(1905-1965)さんは米国ニューヨーク市生まれ、1922(大正11)年に雑誌の美人コンテストに優勝し、映画デビューします。1927(昭和2)年に公開された「イット"It"」で主演すると一気に世界的大スターとなり、「イット」は日本でも流行語になりました。

雑誌グラビア「帝國劇場『良人に背く勿れ』」(1927)

帝國劇場・良人に背く勿れ1927aug

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)八月號のグラビア記事より帝國劇場「良人に背く勿れ」です。この演劇は劇作家の近藤經一(1897-1986)さんが岡田嘉子さん・竹内良一さん駆け落ち事件を題材にとって作成した脚本です。お二人の役を松本幸四郎さんと河村菊江さんが演じています。

雑誌記事「松竹映畫八月新作」(1927)

松竹映画1927aug

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)八月號の記事より「松竹映畫」八月の新作紹介です。右上より「處女の死」(五所平之助監督)より奈良眞養さんと松井潤子さん、左上は「毒唇」(野村芳亭監督)の岩田祐吉さんと八雲恵美子さん、中は「戀慕夜叉」(清水宏監督)の柳咲子さんと市川松之助さん、下右は「悲願千人斬」(吉野二郎監督)の藤野秀夫さん、下左は「子に泣く」(佐々木恒次郎監督)の佐々木清野さんと日守新一さんです。
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