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雑誌グラビア「野邊に戀語る二人」(1927)

ガートルード・オルムステッド&ジョージKアーサー1927aug

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)八月號のグラビア記事より「野邊に戀語る二人」です。写真は1926(大正15)年米国公開のMGM映画「間抜野郎"The Boob"」(William A. Wellman監督)で共演したガートルード・オルムステッド"Gertrude Olmstead"(1897–1975)さんとジョージ・ケー・アーサー"George K. Arthur"(1899–1985)さんです。
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雑誌記事「帝國劇場七月興行」(1927)

帝劇7月興行1927aug

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)八月號の記事より「帝國劇場七月興行」です。短編連作の上演の様子です。上が「支那眼鏡」で市川壽美蔵さん、森律子(1890-1961)さん、初瀬浪子(1911-1951)さんです。下右が「安心」の松本幸四郎(七代目)(1870-1949)さんと助高屋高助(1900-1962)さんです。下左は武者小路実篤氏原作の「留守」で松本幸四郎さんと森律子さんです。

雑誌グラビア「籐椅子に凭る(柳さく子嬢)」(1927)

柳さく子1927aug

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)八月號のグラビア記事より「籐椅子に凭る/時代劇の女王 柳さく子嬢」です。この題名は「よりかかる」と読みます。柳さく子さんは無声映画期の時代劇で人気を博しました。

雑誌グラビア「松竹座『怪談あだし仇浪』石河薫」(1927)

松竹座:怪談あだし仇浪1927aug

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)八月號のグラビア記事より松竹座「怪談あだし仇浪」舞台写真です。写っているのは竹本住龍役の石河薫さんです。石河薫(1901-1972)さんは神奈川県生まれの女優です。1908(明治41)年有楽座で初舞台をふみ、1925(大正14)年には松竹映画「寂しき路」で映画デビューします。その後浅草松竹座、浪花座などの舞台で戦後まで活躍しました。

雑誌グラビア「『接吻を花に求めて』オリーヴ・ボーデン嬢」(1927)

オリーブ・ボーデン1927aug

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)八月號のグラビア記事より「『接吻を花に求めて』オリーヴ・ボーデン嬢」です。オリーブ・ボーデン"Olive Borden"(1906-1947)さんは米国バージニア州生まれ。1922(大正11)年にマック・セネットのコメディ映画の水着女優として映画デビュー、人気女優となり多くの映画に出演しましたが1934(昭和9)年に映画界を引退しました。

雑誌グラビア「帝國劇場:四谷五更話」(1927)

四谷五更話(帝国劇場)1927aug

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)八月號のグラビア記事より「帝國劇場:四谷五更話」です。写真は主演の市川壽美蔵さんと村田嘉久子さんです。この劇は四谷怪談の所謂スピンアウト作品で、お岩の妹のお袖が実は稀代の毒婦であるという設定で、松井松葉さんの脚本になります。村田嘉久子(1893-1969)さんは、東京は品川生まれ。川上貞奴さんの帝國女優養成所一期生として学び、舞台女優となりました。

雑誌グラビア「『仲よし』原光代嬢・夏川静江嬢」(1927)

夏川静江・原光代1927aug

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)八月號のグラビア記事より「『仲よし』原光代嬢・夏川静江嬢」です。「モダンガール」姿(日傘は和風ですが)の日活女優、原光代さんと夏川静江さんです。

雑誌グラビア「片岡千代之助の池添孫八」(1927)

片岡千代之助1927aug

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)八月號の巻頭グラビアより青年俳優寫眞錦繪「片岡千代之助の池添孫八」です。片岡千代之助(1903-1994)さんは後に(十三代目)片岡仁左衛門を襲名します。

雑誌裏表紙「ジヨン・クロツフオード嬢"Joan Crawford"」(1927)

Joan Crawford 1927aug

 1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)八月號の裏表紙より、「ジヨン・クロツフオード嬢」です。ジョーン・クロフォード"Joan Crawford"(1904-1977)さんは米国テキサス州生まれ。大学を中退後、旅回りの巡業一座でダンサーとして働いていましたが、MGMにスカウトされてハリウッドに行き、1925(大正14)年に映画デビューしました。最初は端役ばかりでしたが猛烈な自己アピールで大きな役を獲得し人気女優となりました。戦後はアカデミー主演女優賞を獲得し、さらに大会社の社長夫人として大変なセレブとなりました。

雑誌「劇と映画"The Play & Movie" 八月號」(1927)

劇と映画昭和二年八月號1927aug

 1927(昭和2)年発行の雑誌「劇と映画」"The Play & Movie" 八月號(国際情報社)です。表紙は豊原国周(1835-1900)画「市川左團次の吉田三五郎」です。描かれているのは初代市川佐團次(1842-1904)さんで、二代目は実の息子です。上方歌舞伎の子役でしたが1865(元治二)年江戸に下り市川左団次と改名しました。美貌は評判を呼びましたが上方訛りが江戸の客に受けず、一から稽古を受け直して1870(明治3)年に再デビューし大人気となりました。明治座を設立し後の新作歌舞伎の礎を作るなど舞台の内外で活躍しました。

広告「銀座屋婦人雑貨」(1941)

銀座屋1941jul

 1941(昭和16)年に発行された雑誌「映画之友」(映画日本社刊)七月特輯號の広告より「銀座屋婦人雑貨」です。半年後には日米開戦ですが、通販でもまだまだ贅沢品は購入できています。

雑誌記事「新作日本映画紹介」(1941)

日本映画新作1941jul

 1941(昭和16)年に発行された雑誌「映画之友」(映画日本社刊)七月特輯號の記事より「新作日本映画」です。写真1は松竹映画「行きあふ人達」(瑞穂春海監督)より三宅邦子さん、三浦光子さん、斎藤達夫さんです。写真2は新興映画「仇討ちの日」(西原孝監督)より荒木又右衛門役の市川右太衛門さんです。写真3は日活映画「愛の一家」(春原政久監督)です。写真4は松竹映画「江戸の青空」(大曾根辰夫監督)より藤井貢さんと牧野ばら子さんです。写真5は日活映画「柳生月影抄」(荒井良平監督)より阪東妻三郎さんと橘公子さんです。

雑誌記事「眞山くみ子」(1941)

真山くみ子1941jul

 1941(昭和16)年に発行された雑誌「映画之友」(映画日本社刊)七月特輯號の記事より「職場から:眞山くみ子」です。眞山くみ子(1916-)さんは福島県生まれ、麹町高等女学校を卒業後1935(昭和10)年に日活多摩川に入社し、「高松美絵子」として映画デビュー、その後1936(昭和11)年に新興キネマに移籍し「眞山くみ子」と改名します。新興が大映となってもそのまま所属し戦後は脇役俳優として活躍しましたが、1960年代末の映画界引退後の詳細は不明です。

雑誌記事「カメラに描く(2)」(1941)

カメラに描く(2)1941jul

 1941(昭和16)年に発行された雑誌「映画之友」(映画日本社刊)七月特輯號の記事より「カメラに描く(2)」です。写真1は東宝映画「闘魚」(島津保次郎監督)の取材で厚生省の健康相談所を訪れた里見藍子さんら、写真2は日活多摩川撮影所での比良田惠子さん等のお茶の稽古風景、写真3は新興京都撮影所の清水将夫さん草島競子さん高山廣子さん伴淳三郎さん、写真4は俳優の東西野球大会の練習風景、写真5は日活映画「姿なき復讐」(松田定次監督)出演予定の宮城千賀子さんと鈴木伝明さんです。

広告「新興映画『母の灯』」(1941)

母の灯1941jul

 1941(昭和16)年に発行された雑誌「映画之友」(映画日本社刊)七月特輯號の広告より新興キネマ「母の灯」(深田修造・小石栄一監督)です。主演は浦辺粂子さんです。浦辺さんはまだ30代ですが既に老け役です。

雑誌記事「新しき人を推薦する」(1941)

若き花(その2)1941jul

 1941(昭和16)年に発行された雑誌「映画之友」(映画日本社刊)七月特輯號の記事より「若き花(その2)新しき人を推薦する」です。ベテラン女優が新人を紹介する体裁になっています。上が日活より姫美谷接子さんが文野朋子さんを紹介しています。文野朋子(1923-1987)さんは東京浅草出身、1938(昭和13)年に東京発声から映画デビューしました。その後大映を経て戦後は文学座などの舞台女優として活躍しました。下は新興キネマより美鳩まりさんが相馬千恵子さんを紹介しています。相馬千恵子(1922-)さんは青森県弘前市出身、日本橋タイピスト女学院を卒業後タイピストとして働いていましたが、1940(昭和15)年に新興キネマから映画デビューしました。戦後は大映の映画やテレビドラマに多数出演しました。

雑誌記事「若き花」(1941)

若き花1941jul

 1941(昭和16)年に発行された雑誌「映画之友」(映画日本社刊)七月特輯號の記事より「若き花」です。ベテラン女優が新人を紹介する体裁になっています。上が東宝より山田五十鈴さんが三谷幸子さんを紹介しています。下は松竹より北見禮子さんが大原英子さんを紹介しています。大原英子さんは松竹少女歌劇団出身で1939(昭和14)年に笠原英子名義で東宝から映画デビューし、この年に松竹に移籍し大原英子と改名しました。1946(昭和21)年まで映画に出演していますが、その後はわかりません。

雑誌附録「宮城千賀子」(1941)

映画之友カレンダー1941jul

 1941(昭和16)年に発行された雑誌「映画之友」(映画日本社刊)七月特輯號の折り込み附録より6月7月のカレンダーです。モデルは宮城千賀子さんです。「戰線偲んで銃後翼賛」という時局スローガンが掲げてあります。

広告「テルミーセルフトーン」(1941)

テルミー・セルフトーン1941jul

 1941(昭和16)年に発行された雑誌「映画之友」(映画日本社刊)七月特輯號の広告より「テルミーセルフトーン」です。テルミー化粧品の化粧水広告です。

雑誌記事「カメラに描く」(1941)

カメラに描く1941jul

 1941(昭和16)年に発行された雑誌「映画之友」(映画日本社刊)七月特輯號の記事より「カメラに描く」です。写真1は吉屋信子さん原作の松竹映画「花」(吉村公三郎監督)撮影中の吉村監督、田中絹代さん、上原謙さん、脚本の池田忠雄さんです。写真2は東宝映画「上海の月」(成瀬巳喜男監督)打ち合わせ中の汪洋さんと原作者の松崎啓次さん。写真3は東宝映画「歌へば天國」(山本薩夫監督)打ち合わせ中の古川ロッパさんら。写真4は松竹映画「結婚の理想」(中村登監督)の三宅邦子さんと三浦光子さんです。

雑誌記事「大泉とはこんなとこ(新興東京撮影所)」(1941)

大泉とはこんなとこ1941jul

 1941(昭和16)年に発行された雑誌「映画之友」(映画日本社刊)七月特輯號の記事より「大泉とはこんなとこ(新興東京撮影所)」です。現在の練馬区大泉学園にある新興キネマの撮影所紹介です。現在も東映東京撮影所として存続しています。1935(昭和10)年に開設された同撮影所は現在の姿から考えると驚くほど田舎に見えます。歩いている女性は女優の真山くみ子さんです。

広告「ヱビオス錠」(1941)

エビオス錠1941jul

 1941(昭和16)年に発行された雑誌「映画之友」(映画日本社刊)七月特輯號の広告より「ヱビオス錠」(大日本麦酒株式會社)です。モデルは佐野周二さんです。ヱビオス錠は麦酒酵母から抽出されたビタミン剤で、今でもアサヒビールから販売されています。

雑誌記事「ロケーションの一日」(1941)

ロケーションの一日

 1941(昭和16)年に発行された雑誌「映画之友」(映画日本社刊)七月特輯號の記事より「ロケーションの一日」です。撮影しているのはこの年の6月に公開された松竹映画「暁の合唱」(清水宏監督)で原作は石坂洋次郎さん、主演は木暮實千代さんです。この原作は戦後、1955年に香川京子さん主演で、1963年には星由里子さん主演でリメイクされています。

雑誌記事「わしが國さ・俳優出生地図(近畿の巻)」(1941)

わしが国さ1941jul
 1941(昭和16)年に発行された雑誌「映画之友」(映画日本社刊)七月特輯號の記事より「わしが國さ・俳優出生地図(近畿の巻)」です。東北・北海道の巻に引き続き、俳優の出生県に従って記入されています。大阪・京都・兵庫に出身者が集中しており、他の県は少ない事がわかります。

雑誌目次「三浦光子」(1941)

三浦光子1941jul

 1941(昭和16)年に発行された雑誌「映画之友」(映画日本社刊)七月特輯號の目次頁より三浦光子さんです。この写真は松竹映画「ゆきあふ人達(JMDBでは「往きあふ人々」)」(瑞穂春海監督)のスチルです。

雑誌記事「映画鑑賞に心得おくべし」(1941)

映画鑑賞に心得おくべし1941jul

 1941(昭和16)年に発行された雑誌「映画之友」(映画日本社刊)七月特輯號の記事より「映画鑑賞に心得おくべし」です。モデルは高田浩吉さんと水戸光子さんです。「映寫中はお互ひにヒソヒソ話でもおしやべりは慎しみませう。」「後の人の為に帽子を脱ぎませう。姿勢も行儀よく致しませう。」「暗い中だからとて飴パンむしやくしやは大人が不格好です。」「例へ面白くなくつてもこんなアクビはいけません。どうかと思ひますね。」

雑誌記事「このマークに幸あれ(2)」(1941)

このマークに幸あれ(2)1941jul

 1941(昭和16)年に発行された雑誌「映画之友」(映画日本社刊)七月特輯號の記事より「このマークに幸あれ」(その2)です。1941年当時存在していた主要な映画会社のマークと看板女優さんです。上が松竹で三宅邦子さんと三浦光子さんです。下が大都映画で阿部九州男さんと光川京子さんです。

雑誌記事「このマークに幸あれ(1)」(1941)

このマークに幸あれ(1)1941jul

 1941(昭和16)年に発行された雑誌「映画之友」(映画日本社刊)七月特輯號の記事より「このマークに幸あれ」(その1)です。1941年当時存在していた主要な映画会社のマークと看板女優さんです。上から新興の高山廣子さん、日活の宮城千賀子さん、東宝の高峰秀子さんです。高山廣子(1919-)さんは福岡県生まれ、1927(昭和2)年に子役として阪妻プロから映画デビューし1930(昭和5)年に帝キネに移籍、新興に改組後も所属し1939(昭和14)年に狸御殿が当り役となってスターとなります。戦後まで女優として活躍しますが引退後の詳細は不明です。

広告「東宝映画『上海の月』」(1941)

上海の月1941jul

 1941(昭和16)年に発行された雑誌「映画之友」(映画日本社刊)七月特輯號の表紙裏広告より東宝映画「上海の月」(成瀬巳喜男監督)です。写真は山田五十鈴さんです。5月号の広告にもありましたが、公開されたのは7月1日です。

雑誌記事「ロケ隊秋田路を行く(原節子)」(1941)

ロケ隊秋田路を行く1941jul

 1941(昭和16)年に発行された雑誌「映画之友」(映画日本社刊)七月特輯號の記事より「ロケ隊秋田路を行く」です。1942(昭和17)年に東宝映画「若い先生」(佐藤武監督)として公開される映画の現地ロケ風景です。主演は原節子さんです。下の写真は袴姿の原さんとスーツ姿の助演の戸川弓子さんです。
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