1941(昭和16)年に発行された雑誌「映画之友」(映画日本社刊)五月特輯號の広告よりコロムビア映画「明日への戰ひ」"The Howards of Virginia"(フランク・ロイド監督)です。主演はケーリー・グラントさんで助演はマーサ・スコットさんです。アカデミー賞にもノミネートした1940年米国公開の大作映画ですが、日米関係が悪化した昭和16年になってもハリウッド映画はまだ公開されています。
1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)七月號のグラビア記事より「涼風に憩ふ踊り子:ドロシー・セバスチアン嬢」です。ドロシー・セバスチャン"Dorothy Sebastian"(1903-1957)さんは米国アラバマ州生まれ、15歳で女優になりたくて両親の反対を押し切りニューヨークに家出、その後ハリウッドにスカウトされて人気女優となりました。
1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)七月號の記事より松竹映画の新作紹介です。右上は「悲願千人斬」(吉野二郎監督)の藤野秀夫さんと田中絹代さん、左上は「からくり娘」(五所平之助監督)の八雲恵美子さんと二葉かほるさんと小藤田正一さん、中は「春の雨」(清水宏監督)の松井千枝子さんと三田英児さん、下右は「白虎隊」(野村芳亭監督)の柳さく子さん等、下左は「むさゝびの三吉」(重宗務監督)の横尾泥海男さんらです。
1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)七月號のグラビア記事より岡本綺堂作「水野十郎左衛門」(歌舞伎座)です。写真は市川左團次(二代目)(1880-1940)さん、市川松蔦 (二代目)(1886-1940)さん、市川寿美蔵(六代目)(1886-1971)さんです。作者の岡本綺堂(1873-1939)さんは東京高輪生まれ、東京府尋常中学(現在の日比谷高校)を卒業後、1890(明治33年)東京日日新聞(源氏の毎日新聞)に記者として入社します。1891(明治34)年に最初の小説を東京日日新聞に発表し小説家デビューしますが、新聞記者は1913(大正2)年まで続けています。新歌舞伎の脚本家としても成功していましたが、シャーロックホームズのような探偵小説を書きたいと、1916(大正5)年に日本最初の十手物である「半七捕物帳」を発表し大人気となりました。
1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)七月號の記事より日活映画の新作紹介です。右上は「落城の秋」(吉本清濤監督)の澤村春子さんと尾上松葉さんです。左上は「漕艇王」(内田吐夢監督)の廣瀬恒美さんら、中は「慈悲心鳥」(溝口健二監督)の夏川静江さんと中野英治さん、下右は「流轉」(伊藤大輔監督)の大河内伝次郎さんと伊藤みはるさん、下左は「落ち武者」(中山呑海監督)の尾上多見太郎さんと隼秀人さんです。
1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)七月號のグラビア記事より「アンナ・メイオン嬢」です。アンナ・メイ・ウォン"Anna May Wong"(1905-1961)さんは中国系アメリカ人としてロサンゼルスに生まれ、1919(大正8)年から映画のエキストラに参加し、1922(大正11)年には主演もこなし、中国系初のハリウッド女優と言われています。ただハリウッドでは人種的にステレオタイプな役柄しか与えられず、ヨーロッパに渡り成功します。しかし戦争でアメリカに戻っても役はなく1942(昭和17)年に映画界を引退します。
1927(昭和2)年に発行された雑誌「劇と映画"The Play & Movie"」(國際情報社刊)七月號の裏表紙より、「マリオン・デヴィス嬢」です。マリオン・デイヴィス"Marion Davies"(1897-1961)さんは米国ニューヨーク市ブルックリン生まれ。小さい頃から女優に憧れ1916(大正5)年に舞台デビュー、ブロードウェイに出演中に新聞王ハースト氏の目に留まり愛人となり、映画界に入ります。愛人の資金によって多くの映画に主演しましたが、その多くが不評だったようです。1937(昭和12)年にハースト氏の事業破綻に伴い映画界を引退します。