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雑誌記事「松竹蒲田映畫新作」(1926)

松竹蒲田1926apr

 1926(大正15)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)四月號の記事より「松竹蒲田映畫新作紹介」です。上から「お坊ちゃん」(島津保次郎監督)で主演の諸口十九さんです。下右は「美人と浪人」(清水宏監督)で筑波雪子さん、藤野秀夫さん、小林十九二さんです。下左は「街の人々」(五所平之助監督)の松井千枝子さんと池田辰夫さんです。
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雑誌グラビア「日活映畫『孔雀の光』(梅村蓉子)」(1926)

孔雀の光1926apr

 1926(大正15)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)四月號のグラビア記事より、「日活映畫『孔雀の光』」(村田実監督)です。写真左が侍女節子役の梅村蓉子さんです。「孔雀の光」は前田曙山(1872-1941)さんが大阪毎日新聞に連載した人気小説で、何と4社競作で映画化されました。この日活大将軍(村田実監督)と、マキノプロ(沼田紅緑監督)と、松竹蒲田(吉野二郎・清水宏監督)と、帝國キネマ(後藤秋声監督)の四作品です。同じ原作を四監督で競作してほぼ同時に公開するなんて今では考えられません。

広告「あんまの瓶詰め」(1926)

アンメルツ1926apr

 1926(大正15)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)四月號の広告より、「あんまの瓶詰」(アンメルツ)です。現在の小林製薬の製品ではなく神戸精研堂医局製剤となっていますが両者の関係は分かりませんでした。

広告「オリエントレコード」(1926)

オリエントレコード1926apr

 1926(大正15)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)四月號の裏表紙広告より、「オリエントレコード/會津の小鐵」です。東洋蓄音器は1912(大正元)年に設立されましたが、1919(大正8)年には日本蓄音器の傘下となっています。ラクダ印のオリエントレコードレーベルは1932(昭和7)年まで使われました。

雑誌「芝居とキネマ四月號」(1926)

芝居とキネマ大正15年4月號

 1926(大正15年)発行の雑誌、「芝居とキネマ四月號」(大阪毎日新聞社)です。表紙は歌川豊国(1769-1825)画「市川白猿 悪七兵衛景清」です。市川白猿とは市川團十郎(七代目)(1791-1859)さんの別名です。

広告「アサヒビール(大日本麦酒株式會社)」(1925)

広告「アサヒビール(大日本麦酒株式會社)」1925oct

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)十月號の広告より、「アサヒビール、アサヒ黒ビール、清涼飲料リボンシトロン」(大日本麦酒株式會社)です。アサヒビールは1892(明治25)年に大阪麦酒から発売されました。リボンシトロンも歴史は古く、1909(明治42)年に大日本麦酒から発売されました。

雑誌記事「コレラ征伐・死の怪馬車、他」(1925)

コレラ征伐・死の怪馬車他1925oct

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)十月號の映画紹介の記事より、右上が松竹蒲田「コレラ征伐」(大久保忠素監督)、左上が松竹蒲田「支那街の夜」(大久保忠素監督)の押本映治(1900-?)さんと東榮子さん、右下と真中が帝キネ芦屋「死の怪馬車」(志波西果監督)の柳まさ子(1907-1980)さんら、左下が松竹蒲田「一心寺の百人斬」(清水宏監督)の秋田伸一(1899-?)さんと田中絹代さんです。

雑誌記事「松竹蒲田映畫『妖星地に堕つれば』」(1925)

妖星地に堕つれば1925oct

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)十月號より、松竹蒲田映畫「妖星地に堕つれば」(島津保次郎監督)です。写真は上が左から英百合子さん、鈴木伝明(1900-1985)さん、岡田宗太郎(1899-?)さん、高尾光子さんです。下左は英百合子さんと筑波雪子(1906-1977)さん、下右は筑波雪子さんです。

雑誌記事「女性の命・榮光の丘へ(日活映畫)」(1925)

女性の命&栄光の丘へ1925oct

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)十月號より、日活映畫「女性の命」「榮光の丘へ」紹介記事です。上中段は「女性の命」砂田駒子さん、清水隆三さん、渡邊邦男(1899-1981)さん、下段右は「榮光の丘へ」(若山治監督)の酒井米子(1898-1958)さんと、東坊城恭長(入江たか子さんの実兄)さん、下の丸写真は東坊城さんと梅村蓉子さんです。

雑誌グラビア「日活映畫『女性の命』」(1925)

女性の命1925oct

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)十月號のグラビア記事より日活映畫「女性の命」(徳永フランク監督)です。写真は主演の砂田駒子さんです。この映画は日本映画データベース(JMDB)では「東洋のカルメン」として登録されています。この映画は原作も砂田駒子さんになっています。徳永フランク(1887-1975)さんは佐賀県生まれ、単身渡米しハリウッドで修行した後に帰国し1924(大正13)年に東亜甲陽から監督デビューしました。日活の監督として戦前多くの映画を撮り、俳優としても活躍しました。

雑誌記事「日輪(聯合映畫藝術家協會)」(1925)

日輪1925oct

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)十月號の記事よりマキノプロ「日輪」(衣笠貞之助監督)です。横光利一さんの原作を聯合映畫藝術家協會=マキノプロダクションが映画化しました。写真は市川猿之助さんとマキノ輝子さんです。

雑誌グラビア「メリイ・アスター"Mary Astor"」(1925)

メアリーアスター1925oct

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)十月號の記事より「メリイ・アスター"Mary Astor"」です。メアリー・アスター"Mary Astor"(1906-1987)さんは米国イリノイ州生まれ、美人コンテストがきっかけで14歳で映画デビューし、数々のスキャンダルをおこしながらも1941(昭和16)年にアカデミー助演女優賞を受賞するなど1960年代まで活躍しました。写真は「ドン・キュウ"Don Q Son of Zorro"」のドロレス役の姿です。

雑誌記事「スナップショット」(1925)

スナップショット1925oct

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)十月號の記事より、演劇界の様々な話題のスナップショットです。上は歌舞伎座を訪れたデニショーン舞踊団ですが、演目がシェイクスピアです。歌舞伎役者が演じていますが。真ん中は関西への出張公演を行っている築地小劇場の一座です。大正時代で女性が全員洋装というのは大変珍しい事です。

雑誌記事「デニショウン舞踊團(帝劇)」(1925)

デニショーン舞踊団1925oct

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)十月號の記事より「デニショウン舞踊團(帝劇)」です。デニショーン舞踊団とは、テッド・ショーン"Ted Shawn"(1891-1972)さんとルース・セント・デニス"Ruth St.Denis"(1879-1968)さんの二人の姓を組み合わせた名で、1915(大正4)年にロサンゼルスで二人の結婚後設立され、1931(昭和6)年に離婚により解散しました。アメリカでのモダンダンスの先駆けとなったグループです。1925(大正14)年に来日し、東京帝国劇場や宝塚劇場で講演を行いました。

雑誌グラビア「歌舞伎座『オセロオ』」(1925)

歌舞伎座「オセロー」1925oct

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)十月號のグラビア記事より「歌舞伎座『オセロオ』」です。写真はイヤーゴー役の市川左團次(二代目)(1880-1940)さんです。左団次さんは歌舞伎の名優である傍ら小山内薫さん等とともに自由劇場(1909-1919)を立ち上げて演劇革新運動を行うなど、新劇の立ち上げにも深く関わりました。

雑誌グラビア「帝國劇場『吉田御殿』」(1925)

帝国劇場吉田御殿1925oct

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)十月號のグラビア記事より「帝國劇場『吉田御殿』」です。講談や落語で有名なテーマを弘津千代子さんが新作時代劇としました。写真は花井繁之凾役の守田勘彌(十三代目)(1885-1932)さんと竹尾役の河村菊江(1890-1972)さんです。守田さんは歌舞伎役者ですが、このような女優を使った新劇や翻訳劇などにも積極的に出演しました。

広告「ミササ枕」(1925)

ミササマクラ1925oct

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)十月號の表紙裏広告より、「ミササ枕」(田村工業株式會社)です。田村工業株式會社は1918(大正7)年に広島にスボンジゴム部を設立し、発泡ゴムの製造販売を始めます。1934(昭和9)年にスポンジゴム部門が西川護謨工業所として独立し、現在の西川ゴム工業株式会社となります。

広告「ワシ印レコード」(1925)

ワシ印レコード1925oct

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)十月號の裏表紙広告より、「ニッポノホン・ワシ印レコード」(株式會社日本蓄音器商會)です。「有名な藝術家揃ひの十月新譜」ということで、歌舞伎、浪花節、落語からクラシック音楽まで揃っています。

雑誌「芝居とキネマ十月號」(1925)

芝居とキネマ大正十四年十月號1925oct

 1925(大正14年)発行の雑誌、「芝居とキネマ十月號」(大阪毎日新聞社)です。表紙は初代歌川豊国画「うはなり打」です。初代歌川豊国(1769-1825)さんは江戸の芝神明前で人形師の息子として生まれ、歌川派の元で学び役者絵や美人絵の第一人者として人気を博しました。「うわなり」とは後妻の事で「後妻打ち」とは夫が先妻と別れて一ヶ月以内に再婚した場合に、先妻が事前予告の上に後妻の家を徒党を組んで襲うという風習です。

雑誌記事「怪物、河合ダンス練習生」(1925)

河合ダンス1925feb

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)二月號の記事より、「怪物、河合ダンス練習生」です。写真上の「怪物」は東亜キネマ「左平次捕物帖 怪物」(金森万象監督)の場面で怪物役で特殊メークをした高木新平(1902-1967)さんです。高木さんは長野県の諏訪の生まれ、1920(大正9)年に牧野俳優養成所に入り、1923(大正12)年に映画デビュー、マキノ、東亜、独立プロ、マキノ、帝キネ、宝塚、エトナと戦前は転々と所属会社を変えています。戦後は黒澤明監督の常連役者として、またテレビ出演などで活躍しました。写真下の河合ダンスは所謂少女歌劇団の一つで大阪の道頓堀に1922(大正11)年から1937(昭和12)年まで存在していました。

雑誌記事「日活女優陣、他」(1925)

スナップショット1925feb

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)二月號の記事より、「日活女優陣、他」です。上は当時日活に所属していた女優の記念写真です。中は帝キネの時代喜劇「夜明けまで」下は宝塚新民衆劇、下左は新人紹介で宝塚新民衆劇団所属の金剛麗子(1904-1964)さんです。

雑誌記事「築地小劇場:沙翁作ジュリヤス・シイザア」(1925)

ジュリアス・シーザー築地小劇場1925feb

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)二月號の記事より、「築地小劇場:沙翁作ジュリヤス・シイザア」です。築地小劇場は土方与志(1898-1959)さんと小山内薫(1881-1928)さんが1924(大正13)年に設立した日本最初の「新劇」専門劇場です。写真は沙翁=シェイクスピア作(坪内逍遥氏脚本)のジュリアス・シーザーの上演風景です。多くの実験的な作品が上演され、また附属の劇団から多くの人材が輩出されました。1945(昭和20)年の東京大空襲で焼失しました。

雑誌グラビア「花柳章太郎と梅島昇」(1925)

花柳章太郎・梅島昇1925feb

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)二月號のグラビア記事より、「住吉公園をそゞろ歩きの花柳章太郎と梅島昇」です。梅島昇(1887-1943)さんは新派演劇の二枚目スターで、女形の花柳さんの相手役を多く務めました。この頃は関東大震災の影響で二人は大阪に本拠を移していました。

雑誌グラビア「森静子(女優の家4)」(1925)

森静子1925feb

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)二月號のグラビア記事より、「女優の家(4)帝キネ 森静子」です。森静子(1909-2004)さんは東京の浅草で新派女形俳優を父として生まれ6歳の頃から舞台に立っていました。子役時代に日活向島撮影所の映画にも出演しています。1922(大正11)年に大阪近郊の小阪に転居し、マキノプロダクションから映画女優としてデビューしましたが、1924(大正13)年に帝キネがヤクザを使って強引に引き抜きました。1925(大正14)年に帝キネ分裂後、阪妻プロに入社しました。その後、松竹、帝キネ、新興を経て俳優の夫とともに劇団を立ち上げますが、1944(昭和19)年に夫と死別後引退しました。戦後は再婚し社長夫人となりました。

雑誌グラビア「パラマウント映畫の三名花」(1925)

パラマウント映画の三名花

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)二月號のグラビア記事より、「パラマウント映畫の三名花」ポーラ・ネグリ嬢"Pola Negri"、ベテイ・カンプスン嬢"Betty Compson"(1897-1974)、ニタ・ナルデイ嬢"Nita Naldi"(1897-1961)です。

雑誌記事「勇敢なる弱者・曲馬團の女王」(1925)

勇敢なる弱者/曲馬団の女王1925feb

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)二月號の記事より「勇敢なる弱者・曲馬團の女王」です。右上は帝キネ映画「勇敢なる弱者」(小坂得二監督)で写真は五月信子さんと正邦宏さん、左下は日活映画「曲馬團の女王」(溝口健二監督)で写真下は主演の浦辺粂子さんと鈴木伝明さん、上は宮部静子さんと御子柴杜雄さんです。

雑誌記事「新しき歌舞伎の殿堂」(1925)

歌舞伎座1925feb

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)二月號の記事より「新しき歌舞伎の殿堂」です。1889(明治22)年に開設された歌舞伎座は1911(明治44)年の大改修を経て1921(大正10)年に漏電による失火で全焼しました。再建工事の途中1923(大正12)年の関東大震災で工事が中断、ようやく1925(大正14)年に完成しこけら落としが行われました。その後1945(昭和20)年の空襲で再び焼失し、1951(昭和26)年に再建されました。2010(平成22)年に老朽化のため取り壊され、2013(平成25)年に高層ビル化して再建されました。

雑誌グラビア「花柳章太郎(伊東深水画)」(1925)

花柳章太郎1925feb

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)二月號のグラビア記事より、「花柳章太郎『夕顔の巻』の絹子」(伊東深水画)です。花柳章太郎(1894-1965)さんは戦前戦後を通して新派を代表する女形の俳優です。

広告「ニッポノホン」(1925)

ニッポノホン1925feb

 1925(大正14)年に発行された雑誌「芝居とキネマ」(大阪毎日新聞社刊)二月號の裏表紙広告より、「ニッポノホン〜ワシ印レコード」(株式會社日本蓄音器商會)です。歌舞伎の演目を入れたレコードの一覧表です。日本蓄音器商會は1910(明治43)年に設立され、歌舞伎シリーズなど邦楽を中心に多くのレコードを出版しました。1927(昭和2)年に英国Columbia社と提携し、コロムビアレーベルでレコードを出す様になり、戦後社名を「日本コロムビア」と変えて現在に至ります。

雑誌「芝居とキネマ二月號」(1925)

芝居とキネマ大正14年二月號1925feb

 1925(大正14年)発行の雑誌、「芝居とキネマ二月號」(大阪毎日新聞社)です。表紙は東洲斎写楽画「堺屋秀鶴(二代目中村仲蔵の小野の百姓田のくろのつち蔵)」です。芝居は歌舞伎、新派から築地小劇場まで、映画は日本映画、ハリウッド映画、ヨーロッパ映画と場面写真とあらすじを紹介する構成で大変豪華です。定価80銭ですから今の感覚で1500円から2000円という感覚でしょうか。
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