雑誌記事「私には夫がある」(1940)

私には夫がある1940mar

 1940(昭和15)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)3月特別號の記事より松竹映画「私には夫がある」(清水宏監督)のスチルです。写っているのは上原謙さん、桑野通子さん、下は田中絹代さんです。
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雑誌記事「水戸光子スキーに行く」

水戸光子スキーに行く1940mar

 1940(昭和15)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)3月特別號の記事より「水戸光子スキーに行く」です。女優の水戸光子さんが雪が少なかった草津のスキー場でスキーの練習を楽しんだ記事です。

雑誌記事「スナップ・ショット」(1940)

スナップショット1940mar

 1940(昭和15)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)3月特別號の記事より「スナップ・ショット」です。上二枚が入江たか子さん、中がスキーに興じる水戸光子さん、下二枚が結婚披露宴に集まる巨匠達で、下右が左から内田吐夢さん、田坂具隆さん、清水千代太さん、下左が後向きが清水宏さん、左から飯島正さん、小津安二郎さん、田坂具隆さん、松竹社員です。

雑誌記事「日本映畫・若きホープをのぞく/吉村公三郎・大庭秀雄」(1940)

吉村公三郎・大庭秀雄1940mar

 1940(昭和15)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)3月特別號の記事より「日本映畫・若きホープをのぞく(その2)」です。写真は上から吉村公三郎(1911-2000)さん、大庭秀雄(1910-1997)さんです。

雑誌記事「日本映畫・若きホープをのぞく/澁谷實・今井正」(1940)

渋谷実・今井正1940mar

 1940(昭和15)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)3月特別號の記事より「日本映畫・若きホープをのぞく」です。写真は上から澁谷實(1907-1980)さん、今井正(1912-1991)さんです。渋谷実さんは東京浅草生まれ。慶応義塾大学在学中に肺結核となり療養後、松竹蒲田撮影所に出入りするようになります。その後1930(昭和5)年に松竹に入社し助監督を経て1937(昭和12)年に監督になり戦後まで活躍しました。今井正さんは東京渋谷生まれ。1935(昭和10)年に東京帝国大学を中退してJ.O.スタヂオ(後の東宝)に入社します。助監督を経て1937(昭和12)年に監督に昇進します。戦後東宝争議の中心人物として東宝を追われ、東映で「ひめゆりの塔」を監督します。その後は独立プロとして社会派の映画を多数製作しました。

雑誌グラビア「ポーレット・ゴダード/ヘデイ・ラマール"Paulette Goddard/Hedy Lamarr"」(1940)

ポーレットゴダード/ヘディラマー1940mar

 1940(昭和15)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)3月特別號のグラビア記事より「ポーレット・ゴダード&ヘデイ・ラマール」さんです。1940年を越えても映画雑誌ではハリウッドの話題満載です。ただそろそろ映画法改正や日米間の外交問題のとばっちりで国内での米国映画公開が制限され始めています。ポーレット・ゴダード"Paulette Goddard"(1910-1990)さんは米国ニューヨーク生まれ。モデルの後、1926(大正15)年に映画デビューし、その後ハリウッドに移ると喜劇王チャップリンと知り合い、公私ともにパートナーとなりました。チャップリンと1942(昭和17)年に分れた後もアカデミー賞にノミネートされるなど活躍を続けました。ヘデイ・ラマール"Hedy Lamarr"(1914-2000)さんはオーストリア生まれのユダヤ系で、17歳のときにヨーロッパで映画デビュー、19歳のときに映画史上初の全裸を披露して物議を醸しました(米国では上映禁止)。1933(昭和8)年に兵器商と結婚しますが、嫉妬深い夫に嫌気がさしてロンドンに逃げ、そこで出会った映画プロデューサーに誘われてハリウッドに渡り女優となりました。無線や物理に関する知識も豊富で、1942(昭和17)年に作曲家のアンタイルと共に出した妨害されない無線誘導法に関する「周波数ホッピングスペクトラム拡散」の特許は現在の携帯電話などのデジタル無線通信に広く使われています。

雑誌記事「私には夫がある特輯」(1940)

私には夫がある特輯1940mar

 1940(昭和15)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)3月特別號の記事より松竹映画「私には夫がある」(清水宏監督)特輯です。写っているのは田中絹代さん、上原謙さん、桑野通子さんです。

雑誌グラビア「リンダ・ヘイス"Linda Hayes"」(1940)

リンダ・ヘイス1940mar

 1940(昭和15)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)3月特別號のグラビア記事より「真冬のハリウッド」です。モデルはリンダ・ヘイス"Linda Hayes"(1918-1995)さんです。彼女は米国アイオワ州生まれ、1939(昭和14)年から1942(昭和17)年までの短期間映画に出演しています。

広告「春よいづこ」(1940)

春よいづこ1940mar

 1940(昭和15)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)3月特別號の表紙裏広告より「春よいづこ」です。東宝映画のミュージカル物で監督(演出)は渡邊邦男さん、主演は当時トップクラスの人気歌手である藤山一郎さんと宝塚出身の霧立ちのぼるさんです。

広告「忘却の沙漠へ"S.O.S. Sahara"」(1940)

忘却の沙漠へ1940mar

 1940(昭和15)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)3月特別號の裏表紙広告より「忘却の沙漠へ」"S.O.S. Sahara"です。フランスACE社が1938年に本国で公開した映画で、監督はジャック・ド・バロンセリ"Jacques De Baroncelli"さんです。描かれているのはジャン・ピエール・オーモン"Jean-Pierre Aumont"さんとマルタ・ラバール"Marta Labarr"さんです。

雑誌「新映画3月特別號」(1940)

新映画1940mar

 1940(昭和15)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)3月特別號です。表紙はコリンヌ・リュシェール"Corrine Luchaire"(1921-1950)さんです。フランスのパリで政治家の父と画家の母の間に生まれ、16歳の時に舞台デビュー、1938(昭和13)年に公開された映画「格子なき牢獄」で一躍注目を集めましたが、結核を患い1940年に映画界を引退します。その後占領下でドイツ軍の将校と結婚したため、戦後対独協力の罪で投獄されました。

広告「ローヤル婦人靴専門店」(1939)

ローヤル婦人靴専門店1939oct

 1939(昭和14)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)十月號の広告より「ローヤル婦人靴専門店」です。住所から考えると現在の銀座能楽堂辺りにあったお店だと思われます。戦前で「御外遊の御支度は」とあるのですから高級婦人靴店なのでしょう。

雑誌記事「私の太陽・潮風の乙女」(1939)

私の太陽・潮風の乙女1939oct

 1939(昭和14)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)十月號の記事より日活映画「私の太陽・潮風の乙女」です。「私の太陽」(島耕二監督)の写真には島監督、サックスを持った主役の杉狂児さんと日暮里子さんと姫宮接子さんが、「汐風の乙女」(春原政久監督)には伊沢一郎さん風見章子さん村田知栄子さんが写っています。

雑誌グラビア「アン・シヤーリイ"Anne Shirley"」(1939)

アン・シャーリー1939oct

 1939(昭和14)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)十月號のグラビア記事より「アン・シヤーリイ」さんです。アン・シャーリー"Anne Shirley"(1918-1993)さんはニューヨーク・マンハッタン生まれ。幼い頃父親を亡くし、貧困の中、4歳からモデルや子役などをして家計を助けていました。1922(大正11)年に映画デビューし、ドーン・オデイ"Dawn O'Day"名義で出演していましたが、1934(昭和9)年に16歳で映画「赤毛のアン」で主役を射止め、そのまま役名を芸名にしました。

雑誌記事「桑の實は紅い(清水宏監督)」(1939)

桑の実は紅い1939oct

 1939(昭和14)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)十月號の記事より「桑の實は紅い」(清水宏監督)、他です。左の二枚の写真が「桑の實は紅い」の上原謙さんと田中絹代さんです。右下の高峰三枝子さんはこの映画とは別のスナップ写真になります。

広告「ローヤルデークリーム」(1939)

ローヤルデークリーム1939oct

 1939(昭和14)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)十月號の広告より「ローヤルデークリーム」(株式會社佐々木商店)です。今でも銀座1丁目に同名のお店がありますが化粧品は扱っていません。

雑誌記事「まごころ(成瀬巳喜男監督)」(1939)

雑誌記事「まごころ」(1939)oct

 1939(昭和14)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)十月號の記事より「まごころ」(成瀬巳喜男監督)です。子役の悦ちゃんさんも加藤照子さんも戦後は女優活動をしていないようです。大人の三角関係を描いた成瀬監督の戦前の佳作だそうで、たまに上映会などにかけられます。DVD化が望まれます。

雑誌記事「水戸光子のゐる風景」(1939)

水戸光子1939oct

 1939(昭和14)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)十月號の記事より「水戸光子のゐる風景」です。既に人気女優の水戸光子さんです。この年の12月に公開される「暖流」でトップ女優となります。「あたゝかく、やさしく、美しいほゝえみ。水戸光子は何時でもほゝえみを漂へてゐる。」

広告「明菓ミルク洗粉」(1939)

明菓ミルク洗粉1939oct

 1939(昭和14)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)十月號の広告より、「明菓ミルク洗粉」(明治製菓株式會社)です。明治製菓株式會社は1916(大正5)年に東京菓子株式會社として設立され、1924(大正13)年に明治製菓株式會社となり、チョコレートやキャラメルの他にこの広告のような美容石鹸や医薬品も開発する様になりました。現在Meiji Seikaファルマとして存続しています。モデルは日劇ダンシングチームの中村よし子さんで、この頃クラブ化粧品の中山太陽堂の広告にも良く使われています。同業他社ですが提携でもしていたのでしょうか。

雑誌グラビア「ジューン・ラング"June Lang"」(1939)

ジューン・ラング1939oct

 1939(昭和14)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)十月號のグラビア記事より「ジューン・ラング」さんです。ジューン・ラング"June Lang"(1917-2005)さんは米国ミネソタ州ミネアポリス生まれ、母親に連れられてハリウッドに行き、1931(昭和6)年に映画デビューしました。その後主役をもらえる様になりましたが、1940(昭和15)年にマフィア関係者と結婚した事により解雇され、その後は役に恵まれませんでした。

広告「まごころ」(1939)

広告「まごころ」(1939)

 1939(昭和14)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)十月號の表紙裏広告より、東宝映画「まごころ」(成瀬巳喜男監督)です。主演は高田稔さんと入江たか子さん、そして子役の加藤照子さんと悦っちゃんさんです。原作は石坂洋次郎さんです。成瀬巳喜男(1905-1969)さんは東京四谷生まれ、工手学校(現工学院大学)を中退後、1920(大正9)年に松竹蒲田に入社、1930(昭和5)年に監督に昇格しますが、1934(昭和9)年にPCL(後の東宝)に移籍します。日本国内での評価は生前から高かったですが、死後国際的な評価も高まりました。

広告「マツダアークカーボン」(1939)

マツダアークカーボン1939oct

 1939(昭和14)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)十月號の裏表紙裏広告「マツダアークカーボン」(東京芝浦電氣株式會社マツダ支社)です。アークカーボンランプとは炭素電極の間をアーク放電させて発光させる方式で、非常に明るいため街灯や映写機の光源などに使われました。

広告「ブルグ劇場"Burgtheater"」(1939)

ブルグ劇場1939oct

 1939(昭和14)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)十月號の裏表紙オーストリア映画広告「ブルグ劇場"Burgtheater"」(ヴィリ・フォルスト"Willy Forst"監督)です。フォルスト監督は「未完成交響樂」「たそがれの維納」「マヅルカ」等で有名です。

雑誌「新映画10月號」(1939)

新映画1939oct

 1939(昭和14)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)10月號です。表紙はアリス・フェイ"Alice Faye"(1915-1998)さんです。フェイさんは米国ニューヨーク生まれ。ヴォードビルの舞台から1934(昭和9)年に映画デビューしました。

雑誌グラビア「ロシェル・ハドスン"Rochelle Hudson"」(1939)

ロシェル・ハドスン1939sep

 1939(昭和14)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)九月號のグラビア記事より「ロシェル・ハドスン」さんです。ロシェル・ハドスン"Rochelle Hudson"(1916-1972)さんは米国オクラホマ州生まれ、1930(昭和5)年頃から子役として映画に出演しています。戦後にジェームス・ディーンの「理由なき反抗」でナタリー・ウッドの母親役として出演しています。

雑誌記事「秋の邦画新作紹介(その2)」(1939)

邦画新作2_1939sep

 1939(昭和14)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)九月號の記事より「秋の邦画新作紹介(その2)」です。それぞれ松竹映画「純情二重奏」(佐々木康監督)の高峰三枝子さん、松竹映画「良人の價値」(大庭秀雄監督)の水戸光子さんです。

雑誌記事「秋の邦画新作紹介」(1939)

邦画新作1939sep

 1939(昭和14)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)九月號の記事より「秋の邦画新作紹介」です。それぞれ上から東宝映画「われらが教官」(今井正監督)の高峰秀子さんと丸山定夫さん、東宝映画「街」(山本薩夫監督)の原節子さんと大日方伝さん、東宝映画「女の教室」(阿部豊監督)です。

広告「電通:日本電報通信社」(1939)

電通1939sep

 1939(昭和14)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)九月號の広告より「電通:日本電報通信社」です。同社は1901(明治34)年に創立された広告代理店「日本広告」と1906(明治39)年に創立されたニュース配信「日本電報通信社」とが1907(明治40)年に合併して出来た会社で、1936(昭和11)年にニュース配信部門を同盟通信社に譲渡し、広告専業になりました。

広告「共同印刷株式會社」(1939)

共同印刷1939sep

 1939(昭和14)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)九月號の広告より「共同印刷株式會社」です。同社は1897年に博文館印刷所として創立され、1925(大正14)年に精美堂と合併し、共同印刷株式會社となりました。創立直後労働争議が勃発し、それが徳永直氏の小説「太陽のない街」のモデルとなりました。なおこの写真の建物は現在も本社として使われています。

雑誌グラビア「三谷幸子」(1939)

三谷幸子1939sep

 1939(昭和14)年に発行された雑誌「新映画」(新映畫社刊)九月號のグラビア記事より「三谷幸子」さんです。三谷幸子(1925-)さんは東京市四谷区に生まれ1931(昭和6)年に子役として映画デビュー、高等女学校中退後1938(昭和13)年に松竹に入社し、多くの映画に出演しました。その後1940(昭和15)年に東宝に移籍し、戦後まで数々の映画に助演しました。1950(昭和25)年に東宝争議で退社後、芸者に転向しましたが1953(昭和28)年に松竹に入社して映画界に復帰しました。
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