広告「ロイドのエヂプト博士」(1939)

1939(昭和14)年発行の雑誌「映画之友」一月號の映画広告より「ロイドのエヂプト博士"Professor Beware"」(E. Nugent監督)です。主演はもちろんハロルド・ロイド"Harold Lloyd"さんです。「エヂプト考古學に熱中したロイドの超脱線ぶり!!これは世界最新最高の、新春唯一の初笑ひ映画!!」
雑誌記事「邦画新作」(1939)

1939(昭和14)年発行の雑誌「映画之友」一月號の記事より「邦画新作」です。右上から日活京都映画「弥次喜多道中記」(マキノ正博監督)より杉狂児さんと片岡千恵蔵さん、東宝映画「胡椒息子」(藤田潤一監督)より徳川夢声さん、松竹映画「長期頑張り娘」(野村浩将監督)より佐分利信さんと高杉早苗さん、松竹映画「日本人」(島津保次郎監督)より高杉早苗さんです。
広告「さくらシネフヰルム」(1939)
雑誌記事「花柳小菊・高杉早苗」(1939)
雑誌記事「『爆音』信州ロケを見る(その2)」(1939)

1939(昭和14)年発行の雑誌「映画之友」一月號の雑誌記事より「『爆音』信州ロケを見る」です。手前が小杉勇(1904-1983)さん、その後ろが田坂具隆(1902-1974)さんです。小杉勇さんは石巻商業学校卒業後、日本橋白木屋デパートに就職しますが、1923(大正12)年に日本俳優学校設立とともに入学し、1925(大正14)年に日活京都に入社しスターとなります。戦後は映画監督に転身しました。田坂具隆さんは広島県の生まれ、京都の旧制第三高校を経済的事情のため中退した後、新聞記者を経て1924(大正13)年、日活大将軍撮影所に助監督として入社しました。昭和13(1938)年には「五人の斥候兵」で、昭和14(1939)年には「土と兵隊」でヴェネツィア国際映画祭で連続受賞しました。終戦直前召集された広島で原爆に遭い、その経験が戦後の作品に影響を与えたと言われています。
広告「日東紅茶」(1939)
雑誌記事「横光利一氏を訪ねて」(1939)

1939(昭和14)年発行の雑誌「映画之友」一月號の雑誌記事より「文藝映画に感あり・横光利一氏を訪ねて」です。横光利一(1898-1947)さんは昭和初期に川端康成さん等とともに「新感覚派」で活躍した小説家です。三重県第三中学から早稲田大学に進学するも経済的理由で中退しますが、師事した菊池寛さんの後押しもあって文壇デビューし人気作家となりました。
広告「新しいせき止め藥・ボンクーパー」(1939)

1939(昭和14)年発行の雑誌「映画之友」一月號の裏表紙裏広告より「ボンクーパー」(久能木本店)です。モデルは映画「オーケストラの少女」で一躍人気スターとなったディアナ・ダービン"Deanna Durbin"(1921- )さんです。
広告「ヘチマコロン」(1939)
広告「綴方教室(高峰秀子)」(1938)
雑誌記事「三味線やくざ・愛情一路・あゝ故郷・彼女は何を覺へたか」(1938)

1938(昭和13)年発行の雑誌「映画之友」八月號の記事より「三味線やくざ・愛情一路・あゝ故郷・彼女は何を覺へたか」です。日活京都映画の「三味線やくざ」(衣笠十四三監督)は尾上菊太郎さんと近松里子さん、東宝映画の「愛情一路」(渡邊邦男監督)は岡譲二さんと霧立のぼるさん、新興映画の「あゝ故郷」(溝口健二監督)は河津清三郎さんと山路ふみ子さん、松竹映画の「彼女は何を覺へたか」(野村浩将監督)は佐野周二さんと高杉早苗さんがそれぞれ写っています。
広告「純國産・日東紅茶」(1938)

1938(昭和13)年発行の雑誌「映画之友」八月號の広告より「純國産・日東紅茶」(三井物産株式會社/日本拓殖農林株式會社)です。「海 行かば/怒濤の人気/山 行かば/絶賛の嵐/日東紅茶!」だそうです。