雑誌「映画之友(昭和十三年八月號)」(1938)
広告「日東紅茶」(1938)

1938(昭和13)年発行の雑誌「映画之友」七月號の広告より「日東紅茶」(三井物産株式會社/日本拓殖農林株式會社)です。日東紅茶は1927(昭和2)年に発売が開始された初の国産紅茶ブランド「三井紅茶」が1930(昭和5)年に改名されてできたもので、1931(昭和6)年には三井合名会社の農林課を独立させて日本拓殖農林株式會社が設立されました。この会社は1942(昭和17)年に三井農林株式會社と改名されて現在に至ります。
雑誌記事「川畑文子さんを訪ねて」(1938)

1938(昭和13)年発行の雑誌「映画之友」七月號の記事より、「二度目のアメリカ土産/川畑文子さんを訪ねて」です。川畑文子(1916-2007)さんはハワイ生まれの日系三世で、5才の時ロサンゼルスに移住しダンスを習い始めると、すぐに認められて劇場等に出演、13才のときにニュヨークに移りRKO社と契約して一流ダンサーとして全米各地の舞台に出演しました。1932(昭和7)年に休養のためお忍びで日本に帰国しましたが翌年には日本で芸能活動を開始、レコーディングに舞台に大活躍しました。1935(昭和10)年にアメリカに戻るも1938(昭和13)年に再来日し人気を博しましたが、1939(昭和14)年に結婚して引退しました。
雑誌記事「ロケ便り(『土』と『牧場物語』)」(1938)

1938(昭和13)年発行の雑誌「映画之友」七月號の記事より、「ロケ便り/『土』と『牧場物語』」です。「土」は1939(昭和14)年4月に公開される日活映画で監督は内田吐夢さん、「牧場物語」は1938(昭和13)年9月に公開される東宝映画で監督は木村荘十二さんです。
雑誌記事「川端康成」(1938)

1938(昭和13)年発行の雑誌「映画之友」七月號の記事より、「ストオリイの構成力を・川端康成氏を訪ねて」です。川端康成(1899-1972)さんは大阪府生まれ、府立茨木中学から一高を経て1924(大正13)年に東京帝国大学を卒業。在学中から作家活動を開始し、写真の1938(昭和13年)頃は「雪国」発表後で既に人気作家です。1968(昭和43)年にはノーベル文学賞を受賞します。
広告「眼疾を防ぎ眼を護る・スマイル」(1938)

1938(昭和13)年発行の雑誌「映画之友」七月號の裏表紙広告より「スマイル」(株式會社玉置商店)です。「明眸を護れ!ふり濯ぐ紫外線!汚れた海水の刺戟/眼に挑む脅威を解消して/夏よ!あなたに爽かなれ」
広告「ナルビー・ウィッチヘーゼル水・クレンジングクリーム」(1938)

1938(昭和13)年発行の雑誌「映画之友」三月號の広告より「ナルビー・ウィッチヘーゼル水・クレンジングクリーム」(鈴木福次郎商店)です。化粧水とクレンジングクリームの広告ですが、発売元の鈴木福次郎商店の詳細は不明です。
広告「アイデアルクレンジングクリーム」(1938)

1938(昭和13)年発行の雑誌「映画之友」三月號の広告より「アイデアルクレンジングクリーム」(高橋東洋堂)です。「石鹸・糠より一歩進んだ清浄剤」だそうです。此の頃でも石鹸はともかく糠でクレンジングしていたのでしょうか。
雑誌記事「衣笠貞之助」(1938)

1938(昭和13)年発行の雑誌「映画之友」三月號の記事より「我等のホープ」です。紹介しているのは映画監督の衣笠貞之助(1896-1982)さんです。衣笠貞之助さんは三重県に生まれ、中学卒業後劇団に入り女形となります。1918(大正7)年に日活向島撮影所にスカウトされ映画デビューしますが、女優の台頭にともない女形が廃れ、監督に転向します。1926(大正15)年の「狂った一頁」、1928(昭和3)年の「十字路」などは今でも高く評価されています。戦後も1953(昭和28)年に「地獄門」でカンヌ映画祭グランプリを獲得し、世界的名監督としての評価を確立しました。
雑誌記事「ベルトラメリー能子女史を訪ねて」(1938)

1938(昭和13)年発行の雑誌「映画之友」三月號のグラビア記事より「ガラプラヂデアの映画化/ベルトラメリー能子女史を訪ねて」です。ベルトラメリー能子(1903-1973)さんは茨城県生まれ、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)で声楽を学び、卒業後1922(大正11)年にイタリアに留学。そこで作家のA.Beltramelli(1879-1930)氏と出会い結婚しますが、間もなく死別します。日本に帰国後は声楽の普及に努め、「イタリア古典歌曲集」の編纂者としても有名です。