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雑誌附録「俺らはカウ・ボーイ(ビング・クロスビー)」(1936)

俺らはカウ・ボーイ1936

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」十二月號の折り込み附録の楽譜より、「俺らはカウ・ボーイ」"Rhythm on the Range"です。ミシン目付き袋とじ附録です。パラマウント映画「愉快なリズム」(Norman Taurog監督)の主題歌で、歌は主演のビング・クロスビー"Bing Crosby"(1903-1977)さんです。米国ワシントン州タコマ出身、プロミュージシャンになるべくゴンザガ大学を中退、1926(大正15)年に歌手デビューし、ラジオを媒体としてヒット歌手となりました。歌手としてスターになった後は映画界にも進出し「珍道中」シリーズなど多くのヒット作に出演しました。
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雑誌記事「堤眞佐子・入江たか子」(1936)

堤真佐子・入江たか子1936

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」十二月號の記事より「堤眞佐子・入江たか子」さんです。堤眞佐子(1917-1976)さんは東京出身で1930(昭和5)年に日本劇場附属音楽舞踊学校に入学し、1932(昭和7)年に映画デビュー、1933(昭和8)年にPCLに入社し「ほろよひ人生」(木村荘十二監督)に出演して人気を博し、本格的な映画女優活動を始めました。1942(昭和17)年にフリーになり、戦後も映画やドラマで活躍しました。

雑誌記事「梅園龍子・山田五十鈴」(1936)

梅園龍子・山田五十鈴1936

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」十二月號の記事より「梅園龍子山田五十鈴」さんです。記事を読むと梅園龍子さんはまだその良さが発揮できておらず、山田五十鈴さんはこのまま行けば将来は大女優だと書いてあります。

雑誌記事「古川登美・御影公子・千葉早智子」(1936)

古川登美・御影公子・千葉早智子1936

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」十二月號の記事より「古川登美・御影公子・千葉早智子」さんです。御影公子(1914-?)さんは鹿児島県に生まれ、堀越高等女学校卒業後1934(昭和9)年に松竹にスカウトされ映画デビューしました。1935(昭和10)年に新興キネマに移籍、1940(昭和15)年に映画界を引退しました。

雑誌記事「高杉早苗・久松三津枝」(1936)

高杉早苗・久松三津枝1936

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」十二月號の記事より「高杉早苗・久松三津枝」さんです。久松三津枝(1914-?)さんは東京浅草の生まれ、千代田高等女学校を卒業後、日活のオーディションに合格し、日活太秦に入社して映画デビューしました。1934(昭和9)年に新興キネマに移籍し、1936(昭和11)年にはマキノトーキーに移籍、1937(昭和12)年に同社解散後は松竹下加茂に移籍、1940年には同社を退社し、映画界を引退しました。

雑誌附録「ジンジャー・ロジャース」(1936)

ジンジャーロジャース1936

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」十二月號の折り込み附録カレンダーです。写真はジンジャー・ロジャース"Ginger Rogers"(1911-1995)さんです。彼女は米国ミズーリ州インディペンデンス出身、14才のときにダンサーとして旅回りの一座に参加、ブロードウェイでダンサーをしていたところをスカウトされ映画女優となりました。その後フレッド・アステアさんの相手役として活躍し、1940(昭和15) 年にはアカデミー主演女優賞を受賞しました。

広告「ヘチマクリーム」(1936)

ヘチマクリーム1936

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」十二月號の裏表紙広告より「ヘチマクリーム」(天野源七商店)です。天野源七商店は1882(明治15)年に創業、1915(大正4)年には現在の社名の基となったヘチマコロンを発売、1953(昭和28)年にヘチマコロン株式会社となり、現在まで続いています。

雑誌「映画之友(昭和十一年十二月號)」(1936)

映画之友昭和十一年十二月號

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」十二月號です。表紙は「ベティ・デイヴィス」さんです。ベティ・デイヴィス"Bette Davis"(1908-1989)さんは米国マサチューセッツ州ローウェル生まれ、オフブロードウェイから1929(昭和4)年にブロードウェイ舞台デビュー、1930(昭和5)年にユニヴァーサル映画にスカウトされ、ハリウッドデビュー。ヒット作に恵まれず1932(昭和7)年にワーナー映画に移籍、その後1938(昭和13)年にアカデミー主演女優賞を受賞するなど大女優となります。

広告「咽喉の痛みに・聲の嗄れに ボンクーパー」(1936)

ボンクーパー1936march

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」三月號の記事より「咽喉の痛みに・聲の嗄れに ボンクーパー」です。

雑誌記事「原節子、霧立のぼる」(1936)

原節子、霧立のぼる1936

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」三月號の記事より「原節子霧立のぼる」さんです。原節子さんはデビュー直後、霧立のぼるさんは新興キネマ時代のお姿になります。

雑誌記事「田中絹代、忍節子」(1936)

田中絹代、忍節子1936

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」三月號の記事より「田中絹代、忍節子」さんです。忍節子(1914-?)さんは東京の下谷に生まれ忍ケ岡高等女学校中退後、銀座松屋の電話交換手をしていましたが、1934(昭和9)年に松竹に入社、映画女優となりました。

雑誌グラビア「桑野通子」(1936)

桑野通子1936

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」三月號のグラビア記事より「桑野通子」さんです。背景はこの年完成したばかりの国会議事堂です。

広告「新人の眼科藥 スマイル」(1936)

スマイル1936march

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」三月號の裏表紙広告より「スマイル」(玉置合名會社)です。三月という事で「新人の眼科藥」だそうです。

雑誌「映画之友(昭和十一年三月號)」(1936)

映画之友昭和十一年三月號

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」三月號です。表紙は「シモーヌ・シモン」さんです。シモーヌ・シモン"Simone Simon"(1910-2005)さんはフランスで生まれ、1931(昭和6)年にパリで映画デビューし、1935(昭和10)年にハリウッドの大プロデューサー、ダリル・ザナックに見いだされて渡米し、ハリウッドデビューしました。1937(昭和12)年にはフランスに戻りますが、戦争中はハリウッドで活動しました。

林芙美子著「放浪記(改造社版)」(1930)

林芙美子著「放浪記」1930

 1930(昭和5)年に改造社から出版された林芙美子著「放浪記」の表紙です。(戦後出版された復刻版ですが)。この作品は林芙美子(1903-1951)さんの自伝的小説で、発表とともにベストセラーになり、映画化や舞台化もされました。

雑誌記事「純情一座/暁の麗人」(1936)

純情一座/暁の麗人1936

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」一月號の記事より「純情一座/暁の麗人」です。上が1936(昭和11)年1月5日公開の日活映画「純情一座」(渡辺邦男監督)より江川宇礼雄さんと中野かほるさんです。下が1935(昭和10)年11月21日に公開された新興キネマ「暁の麗人」(曽根千晴監督)より伏見信子さんと高田稔さんです。

雑誌記事「春のポエジー」(1936)

春のポエジー1936

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」一月號の記事より「春のポエジー」です。高杉早苗さん、花井蘭子さん、左上の小さな写真は中野かほるさんです。

雑誌附録「ジーン・パーカー」(1936)

Jean Parker 1936

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」一月號の折り込み附録より「映画の友カレンダー:Jean Parker」です。1935(昭和10)年12月と1936(昭和11)年1月です。休日マークが今と違いますが12/25が大正天皇祭、1/1が四方節、1/3が元始祭、1/5が新年宴会となっていました。ジーン・パーカー"Jean Parker"(1915-2005)さんはモンタナ州の生まれ、ハイスクール在学中にスクリーンテストに合格して映画デビューし、1960年代まで活躍しました。結婚4回とかなりスキャンダラスな方だったようです。

広告「噂の娘」(1936)

噂の娘1936

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」一月號の映画広告「噂の娘」(成瀬巳喜男監督)です。配給は後に東宝となるPCLです。写っている人は右から千葉早智子さん、梅園龍子さん、大川平八郎さんです。大川平八郎(1905-1971)さんは草加の素封家の家に生まれ、郁文館中学を中退して渡米、ハリウッドで映画修行などをした後、1933(昭和8)年に帰国しPCLに入社しました。戦後もヘンリー大川として活躍しました。

広告「ボンクーパー」(1936)

ボンクーパー1936

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」一月號の広告「ボンクーパー」(久能木本店)です。モデルは霧立のぼるさんです。久能木本店は日本橋室町の三井本館の隣にありました。三井財閥からの土地購入の要請をはねつけ、設計変更を余儀なくさせたそうです。

広告「ハクキン懷爐」(1936)

ハクキン懐炉1936

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」一月號の表紙裏広告より「ハクキン懷爐」(矢満登商會)です。モデルは高杉早苗さんですが、なぜか双子の様に二人配されています。矢満登商會は1923(大正12)年にハクキンカイロの製造販売を目的として大阪に創業され、1963(昭和38)年にハクキンカイロ株式会社と名称を変えて現在に至っています。

広告「美しく健やかな眼を創るスマイル」(1936)

smile1936janet_mcdonald

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」一月號の裏表紙広告より「スマイル」(玉置合名會社)です。モデルはジャネット・マクドナルド"Jeanette MacDonald"(1903-1965)さんです。彼女はフィラデルフィアで生まれ、1919(大正8)年にブロードウェイで初舞台を踏みミュージカル女優として活躍、1929(昭和4)年にパラマウントから映画デビューしスターとなりました。1933(昭和8)年にはMGMに移籍、その後フリーになり戦後も映画、テレビ、舞台に出演、歌手としても活躍しました。

雑誌「映画之友(昭和十一年一月號)」(1936)

映画之友昭和十一年一月號

 1936(昭和11)年発行の雑誌「映画之友」一月號です。表紙は「フランシス・ドレイク」"Frances Drake"(1912-2000)さんです。彼女はニューヨークに生まれカナダで教育を受けた後、1928(昭和3)年にロンドンに渡りナイトクラブでダンサーをしていたところ、1933(昭和8)年に映画デビューし、翌年ハリウッドに渡り1942(昭和17)年まで映画スターとして活躍しました。

雑誌グラビア「大倉千代子」(1935)

大倉千代子1935

 1935(昭和10)年発行の雑誌「映画之友」五月特別號のグラビア記事より「大倉千代子」さんです。大倉千代子(1915-?)さんは東京市芝區生まれでまだ小学生の1925(大正14)年に近代座で子役として舞台デビューしました。近代座は帝キネの映画にも出演しており1930(昭和5)年に月浦かすみ名義で出演しており、またその翌年には秋月弘子名義で出演しています。1933(昭和8)年に日活太秦に移籍して大倉千代子と改名し、本格的に映画出演を始めました。その後、1936(昭和11)年にマキノトーキー、その翌年日活と転籍しましたが、戦中戦後はあまり映画界で活躍しなかったようです。

雑誌グラビア「三宅邦子」(1935)

三宅邦子1935

 1935(昭和10)年発行の雑誌「映画之友」五月特別號のグラビア記事より「三宅邦子」さんです。まだデビューしたての10代のお姿です。

雑誌グラビア「水久保澄子」(1935)

水久保澄子1935

 1935(昭和10)年発行の雑誌「映画之友」五月特別號のグラビア記事より「水久保澄子」さんです。この年に映画の撮影中突然フィリピン人と駆け落ちしてしまい映画界から追放されてしまいます。

雑誌グラビア「花井蘭子」(1935)

花井蘭子1935

 1935(昭和10)年発行の雑誌「映画之友」五月特別號のグラビア記事より「花井蘭子」さんです。花井蘭子(1918-1961)さんは大阪に生まれ1923(大正12)年に子役として初舞台、1928(昭和3)年に松竹下加茂に入社し清水玲子名義で映画デビューし、1931(昭和6)年に日活太秦に移籍して花井蘭子と改名しました。1937(昭和12)年に大河内伝次郎さんらと東宝の前身の一つであるJOスタヂオに移籍、戦後は新東宝に参加しましたが、脳腫瘍のため42才の若さで亡くなりました。

雑誌グラビア「千葉早智子」(1935)

千葉早智子1935

 1935(昭和10)年発行の雑誌「映画之友」五月特別號のグラビア記事より、「千葉早智子」さんです。千葉早智子(1911-1993)さんは広島市立高女を卒業後、1933(昭和8)年にPCL(後の東宝)女優第一号として映画デビューしました。邦楽洋楽共にこなし、箏や尺八はプロ級だそうです。1937(昭和12)年に映画監督の成瀬巳喜男さんと結婚するも1940(昭和15)年に離婚、1943(昭和18)年に映画界を引退しました。戦後は実業家として活躍しました。

雑誌グラビア「山縣直代」(1935)

山縣直代1935

 1935(昭和10)年発行の雑誌「映画之友」五月特別號のグラビア記事より、「山縣直代」さんです。壁に映った大きな影とタバコが印象的です。
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