雑誌「映画之友(昭和十年五月特別號)」(1935)
映画記事「百万人の合唱」(1934)

1934(昭和9)年発行の雑誌「映画之友」十一月秋季特別號の記事より「百万人の合唱」(富岡敦雄監督)です。製作はJ.O.スタヂオ=日本ビクターという変わり種で、撮影が円谷英二さん、美術が吉田健吉さんと豪華です。写っているのは伏見信子さんと伊達信(1906-1960)さんです。伊達信さんは長野県出身で海城中学卒業後、1925(大正14)年に築地小劇場に参加、1929(昭和4)年の分裂時には新築地劇団に参加、また日活の専属として多くの映画に出演しました。戦後は新協劇団、文学座を経て民芸に所属しました。
雑誌記事「水久保澄子、光川京子」(1934)

1934(昭和9)年発行の雑誌「映画之友」十一月秋季特別號の記事より「水久保澄子さん、光川京子さん」です。光川京子(1918-?)は東京生まれ、氷川尋常小学校を卒業後、1931(昭和6)年に松竹蒲田に入社し映画デビューしました。1934(昭和9)年に松竹下加茂に移籍し1938(昭和13)年に俳優の本郷秀雄さんと結婚し、1940(昭和15)年に夫婦とも大都映画に移籍し大映を経て1942(昭和17)年に映画界から引退しました。
雑誌記事「空高く、水清らかに 秋は今こそ!」(1934)

1934(昭和9)年発行の雑誌「映画之友」十一月秋季特別號の記事より「空高く、水清らかに 秋は今こそ!」です。写真は山路ふみ子さん、近松里子(1913-1950)さん、白石明子(1913-?)さんです。近松里子さんは大阪生まれ、京都の精華女学校を中退。1929(昭和4)年に夕刊大阪のミス大阪に選ばれ帝キネに入社し映画デビューしました。白石明子さんは秋田市生まれ、湯沢高等女学校を卒業後、1932(昭和7)年に松竹蒲田に入社し映画デビューしました。
雑誌グラビア「山縣直代」(1934)

1934(昭和9)年発行の雑誌「映画之友」十一月秋季特別號のグラビア記事より「山縣直代」さんです。山縣直代(1915-?)さんは水戸市に生まれ、台湾の台中高等女学校を中退後、1930(昭和5)年に京都の日本キネマに入社し、映画デビューしました。同年松竹蒲田に移籍し、1931(昭和6)年日活太秦撮影所現代劇部に移籍、新興キネマ、PCL、東宝を経て1938(昭和13)年に映画界を引退しました。
広告「スマイル」(1934)

1934(昭和9)年発行の雑誌「映画之友」十一月秋季特別號の裏表紙広告「清新な萬人向きの目薬スマイル」です。「秋こそは眼のご用心!/お仕事の明け暮れに/讀書の後の輕い憩ひに/疲れた眼にはスマイル點して/いつもいつも健康な/美しい瞳を誇りませう!」
雑誌「映画之友(昭和九年十一月秋季特別號)」(1934)
映画広告「東京の合唱・人生の風車」(1931)

1931(昭和6)年に発行された雑誌「映画之友」九月號の映画広告「人生の風車」(清水宏監督)、「一太郎やあい」(野村芳亭監督)、「東京の合唱」(小津安二郎監督)です。写真は岡田時彦さんと川崎弘子さんです。
雑誌記事「新らしきエロとサムライ」(1931)
雑誌記事「浜口富士子・歌川絹枝・伊達里子」(1931)
雑誌記事「梅村蓉子・井上雪子・田中絹代」(1931)
雑誌記事「井上雪子スケツチ」(1931)

1931(昭和6)年に発行された雑誌「映画之友」九月號の記事より「井上雪子スケツチ」です。井上雪子(1915-2012)さんはオランダ人を父、日本人を母として神戸に生まれました。大阪松竹楽劇部を経て1930(昭和5)年に松竹蒲田に入社して映画デビューしました。1936(昭和11)年には映画界を引退しました。
雑誌記事「入江たか子・徳川良子・田中絹代」(1931)
雑誌記事「花岡菊子・水原玲子・岡田静江」(1931)
雑誌記事「栗島すみ子・水原玲子」(1931)
雑誌グラビア「入江たか子(本誌特寫)」(1931)
雑誌グラビア「吉野朝子」(1931)

1931(昭和6)年に発行された雑誌「映画之友」九月號のグラビア記事より「吉野朝子」です。吉野朝子(1907-1939)さんは京都女学校卒業後、1926(大正15)年に政岡呑平プロに本名の「関戸かなめ」で参加、1927(昭和2年)マキノプロ御室に入社し、芸名を「室町三千代」とした。1929(昭和4)年日活太秦に入社し、「吉野朝子」と改名し多くの映画に主演しました。1935(昭和10)年に病気のため映画界を引退し、1939(昭和14)年に32歳の若さで亡くなりました。
雑誌グラビア「岡田静江」(1931)

1931(昭和6)年に発行された雑誌「映画之友」九月號のグラビア記事より「岡田静江」です。岡田静江(1910-?)さんは女学校中退後、1928(昭和3)年に「鈴川和子」名義で日活太秦現代劇部に入社、その後1930(昭和5)年に東亜キネマに転籍、「岡田静江」に改名します。その後不二映画、日満映画、大象映画を経て新興キネマに移り1934(昭和9)年に引退しました。
広告「野に叫ぶもの・姉妹」(1931)
雑誌記事「宮城直枝・望月禮子・山田五十鈴」(1931)

1931(昭和6)年に発行された雑誌「映画之友」八月號の記事より「宮城直枝・望月禮子・山田五十鈴」です。写真上の宮城直枝さんは1925(大正14)年に帝キネ芦屋から森かね子という名前で映画デビューし1928(昭和3)年に東亜京都に移籍して宮城直枝と名乗り1932(昭和7)年まで出演しています。写真下右の望月禮子(1911-?)さんは大阪市出身で1923(大正12)年に寳塚少歌劇学校に入学し、翌年寳塚少女歌劇団に入団。1927(昭和2)年に松竹下加茂に入社、1928(昭和3)年に千恵蔵プロ、1929(昭和4)年に帝キネに移籍し、映画デビューします。多くの時代劇に主演した後、1933(昭和8)年に大都映画に移籍しますが1934(昭和9)年に退社し映画界を引退しました。下左は山田五十鈴さんです。
雑誌記事「桂珠子・山路ふみ子・伊達里子・大江美智子」(1931)

1931(昭和6)年に発行された雑誌「映画之友」八月號のグラビア記事より「桂珠子・山路ふみ子・伊達里子・大江美智子」です。写真は左上が伊達里子さん、下右の二人が山路ふみ子さんと桂珠子(1912-?)さんです。桂珠子さんは岡山の松蔭高等女学校を卒業後、高島屋大阪店で働いていたところを1931(昭和6)年にスカウトされて帝キネに入社、新興に改組された後、1933(昭和8)年に映画監督と結婚し、1934(昭和9)年に夫婦揃って日活多摩川に移籍、1938(昭和13)年に夫と死別した後は映画界からも引退しました。左下は大江美智子(1910-1938)さんです。大江美智子さんは寳塚歌劇音楽学校から寳塚少女歌劇団に入団し、1930(昭和5)年に退団後は市川右太衛門プロダクションに入社し映画界に転身、1932(昭和7)年に日活太秦に転籍しますが翌年退団して女剣劇の一座を結成してブームを起こしますが、1938(昭和13)年に盲腸炎で急逝しました。