広告「丹頂チック」(1939)

丹頂チック1939年

 1939(昭和14)年5月発行の雑誌「映画ファン五月特別號」(映画世界社)の裏表紙広告「丹頂チック」(金鶴香水株式会社)です。「丹頂チック」はポマードと並んで髪型を整える油として当時多用されていました。なお、現在も販売され続けています。金鶴香水は丹頂を経て現在は株式会社マンダムと社名を変えています。モデルは日劇ダンシングチームの福本泰子さんです。
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雑誌「映画ファン五月特別號」(1939)

映画ファン昭和14年5月號

 1939(昭和14)年5月発行の雑誌「映画ファン五月特別號」(映画世界社)です。表紙は長谷川一夫(1908-1984)さんです。長谷川一夫さんは京都の芝居小屋の子として生まれ、幼い頃から芝居に親しみ、1927(昭和2)年に松竹から林長二郎として映画デビューし大人気を博しました。ミーハーの語源説の一つでもあります。1937(昭和12)年に東宝に移籍すると、松竹の雇ったヤクザに顔を刃物で切られましたが、長谷川一夫として再起しました。戦後も銭形平次などの当り役で有名です。死後国民栄誉賞を送られました。雑誌「映画ファン」は1936(昭和11)年に創刊され、戦争中休刊し戦後復刊して1959(昭和34)年まで刊行されました。

福澤一郎画「風車」(1931)

風車(1931)福澤一郎

 1931(昭和6)年1月に発行された雑誌「アサヒグラフ臨時増刊獨立展號」(朝日新聞社)の中から、福澤一郎画「風車」です。シュールレアリズムの日本への紹介者として知られる福澤一郎(1898-1992)さんは群馬県立富岡中学から二高を経て1918(大正7)年に東京帝国大学文学部に入学しますが、彫刻の勉強に専念、1924(大正13)年にフランスに留学し絵画に転向、1931(昭和6)年に帰国します。帰国直前に開かれたこの独立展にフランスで製作した作品を複数出品し、日本の絵画界に衝撃を与えました。1978年に文化功労者、1991年に文化勲章を受章しています。

高畠達四郎画「二人少女」(1931)

二人少女(1931)高畠達四郎

 1931(昭和6)年1月に発行された雑誌「アサヒグラフ臨時増刊獨立展號」(朝日新聞社)の中から、高畠達四郎画「二人少女」です。高畠達四郎(1895-1976)さんは1913(大正2)年に東京高等師範附属中学を卒業後慶應義塾大学に入学しますが、中退して本郷洋画研究所に入所、1921(大正10)年に渡仏してアカデミーランソンに学びました。1928(昭和3)年に帰国し、二科展、國画會などに出展、そして1931(昭和6)年の独立美術協会の設立に参加しました。

雑誌「アサヒグラフ臨時増刊獨立展號」(1931)

アサヒグラフ臨時増刊昭和六年獨立展號

 1931(昭和6)年1月に発行された雑誌「アサヒグラフ臨時増刊獨立展號」(朝日新聞社)です。表紙は清水登之(1887-1945)さんの「地に生きる」です。清水登之さんは栃木県生まれで成城学校卒業後、1907(明治40)年に渡米して画業を学びました。1924(大正13)年に渡仏しサロンドートンヌに入選しました。1927(昭和2)年に帰国し二科展に出品し樗牛賞,二科賞を受賞。その後独立美術協会に参加、第一回独立展特集号の表紙になりました。

雑誌グラビア「ドロシー・ラムーア "Dorothy Lamour"」(1939)

DorothyLamour1939

 1939(昭和14)年12月発行の雑誌「サンデー毎日新春の映画號」(毎日新聞社)のグラビア写真「ドロシー・ラムーア "Dorothy Lamour"」です。ドロシー・ラムーア(1914-1996)さんは1931(昭和6)年にミスニューオリンズに選ばれた後、歌手を目指してシカゴに行き、その後歌手としてニューヨークで活躍しました。その後1935(昭和10)年にパラマウント社に所属してハリウッドで映画デビューしました。主な出演作にビング・クロスビー&ボブ・ホープ主演の珍道中シリーズがあります。戦後はファッション評論家としても活躍しました。

雑誌記事「昭和15年新春日本映画」(1939)

昭和15年新春日本映画

 1939(昭和14)年12月発行の雑誌「サンデー毎日新春の映画號」(毎日新聞社)の記事より「昭和15年新春日本映画」です。写真は上段右から新興キネマ「愛人の誓い」(田中重雄監督)の河津清三郎さんと逢初夢子さん、新興キネマ「若妻の夢」(沼波功雄監督)の宇佐美淳さんと山路ふみ子さん、中段右から東宝映画「光と影」(島津保次郎監督)の竹久千恵子さんと大日方伝さん、新興キネマ「花園の結婚」(高木孝一監督)の新田實さんと真山くみ子さん、下段は東宝映画「多甚古村」(今井正監督)の清川荘司さんと藤間房子さんです。

広告「レート粉白粉」(1939)

レート白粉1939

 1939(昭和14)年12月発行の雑誌「サンデー毎日新春の映画號」(毎日新聞社)の裏表紙広告「レート粉白粉」です。モデルは高峰秀子さんです。

雑誌「サンデー毎日新春の映画號」(1939)

サンデー毎日新春の映画號1939

 1939(昭和14)年12月発行の雑誌「サンデー毎日新春の映画號」(毎日新聞社)です。表紙は山田五十鈴さんです。正月公開の映画大特集ということで様々な映画が紹介されていますが、アメリカ映画にもかなりの紙数が割かれています。二年後に戦争が起こる雰囲気は全くありません。フレッドアステアのコンビ解消移籍問題とか我が事のように記事にしています。

雑誌記事「和かな冬の陽ざし」(1939)

和やかな冬の陽射し1939

 1939(昭和14)年12月発行の雑誌「週刊朝日・新春映画號」(朝日新聞社)の記事から「和かな冬の陽ざし」です。スター達のスナップ写真で、左ページは着物姿の大河三鈴(1919-)さん、宇佐美淳(1910-1980)さんと古川登美(1919-)さん、久慈行子(1918-1977)さん、右ページはスケートに興じる江波和子さん、市川春代さん、徳大寺伸さんです。

雑誌記事「或る日のわたし・スタアの写真日記(2)」(1939)

スタア写真日記1939-2

 1939(昭和14)年12月発行の雑誌「週刊朝日・新春映画號」(朝日新聞社)の記事から「或る日のわたし・スタアの写真日記」です。上からお濠端に立つ三浦光子さん、芝生の上に座る美鳩マリさん、テニスラケットを持たされている草島競子さん、馬をなでている風見章子さんです。美鳩マリ(1919-1962)さんは東京市立京橋高等家政女学校(現都立晴海総合高校)を卒業後、1938(昭和13)年に新興キネマに入社、1944(昭和19)年に監督の鈴木英夫(1916-2002)さんと結婚して映画界を引退しました。草島競子(1919-)さんは小樽の緑ヶ丘高等女学校を中退後1939(昭和14)年に新興キネマに入社、同年監督の高木孝一(1903-1974)さんと結婚しました。その後第一協団、南旺映画を経て戦後は松竹京都に移籍し、1960(昭和35)年に引退しますが、その後もいくつか出演しています。風見章子(1921-)さんはまだ現役の女優です。群馬県立富岡高女を中退後エノケン一座に入門、1937(昭和12)年に日活に入社し「土」(内田吐夢監督)で鮮烈デビューしました。1942(昭和17)年に松竹京都に移籍後結婚を機に一度引退しますがその後フリーとして多くの映画に出演しています。

雑誌記事「或る日のわたし・スタアの写真日記」(1939)

スタア写真日記1939-1

 1939(昭和14)年12月発行の雑誌「週刊朝日・新春映画號」(朝日新聞社)の記事から「或る日のわたし・スタアの写真日記」です。上から子犬と戯れる木暮実千代さん、カメラの横でポーズをとる姫宮接子さん、空気銃を構える山根壽子さんです。姫宮接子さんは新興キネマから映画デビューしこの頃は日活に所属していますが、映画女優よりもタップダンサーとして一世を風靡した方です。

雑誌記事「新春の日本映画」(1939)

新春映画1939

 1939(昭和14)年12月発行の雑誌「週刊朝日・新春映画號」(朝日新聞社)の記事から「新春の日本映画」です。紹介されているのは東宝映画「光と影」(島津保次郎監督)の原節子さん、松竹映画「新女性聯盟」(原研吉監督)の高峰三枝子さんと木暮実千代さん、東宝映画「新篇丹下左膳隻眼の巻」(中川信夫監督)の大河内伝次郎さんと山田五十鈴さん、新興キネマ「近藤勇」(森一生監督)の中村右太衛門さん、日活映画「街の唱歌隊」(島耕二監督)の杉狂児さんと日暮里子さんです。

広告「眼科藥 スマイル」(1939)

スマイル1939dec

 1939(昭和14)年12月発行の雑誌「週刊朝日・新春映画號」(朝日新聞社)の裏表紙広告「眼科藥 スマイル」(玉置合名社)です。イラストは澤令花(1896-1970)さんです。沢さんは資生堂の意匠部でデザイナーをしていましたが、1929(昭和4)年に退社するおりに、福原信三氏に山名文夫氏を紹介したそうです。

雑誌「週刊朝日・新春映画號」(1939)

週刊朝日新春映画號1939

 1939(昭和14)年12月発行の雑誌「週刊朝日・新春映画號」(朝日新聞社)です。表紙は高峰秀子さんです。ヨーロッパでは第二次世界大戦が始まっていますが、映画の記事を見る限り日本はまだまだ平和です。日本映画と同じくらい欧米の映画紹介記事もあります。

広告「夢見る唇」(1933)

夢見る唇1933

 1933(昭和8)年五月発行の雑誌「映画評論 第五號」(映画評論社)の裏表紙映画広告「夢見る唇」(パウル・ツインナア監督)"Der Traumende Mund"です。1932(昭和7)年にドイツで公開された映画「夢見る唇」はアンリ・ベルンシュタイン"Henri Bernstein"(1876-1953)氏作の戯曲「メロ」を映画化したもので、主演はユダヤ系ハンガリー人のエリザベート・ベルクナー"Elisabeth Bergner"(1897-1986)さんです。監督のパウル・ツィンナー"Paul Czinner"(1890-1972)さんもハンガリー系ユダヤ人で、お二人はナチスが政権を取るとドイツで活動できなくなりイギリスに移住し結婚します。なお戯曲「メロ」はアラン・レネ監督によって1986(昭和61)年にも映画化されています。

雑誌「映画評論」(1933)

映画評論昭和八年第五號

 1933(昭和8)年五月発行の雑誌「映画評論 第五號」(映画評論社)です。「映画評論」"The Filmcrit"は1925(大正14)年に同人誌として仙台で創刊され、翌年東京に本拠を移して本格的な雑誌として刊行を開始、1975(昭和50)年まで刊行されました。

広告「ゴコー黒椿」(1940)

ゴコー黒椿1940

 1940(昭和15)年発行の雑誌「スタア 四月下旬號」(スタア社)の裏表紙広告「ゴコー黒椿」(昇英堂)です。椿オイルを使った整髪料の広告で、昭和初期には良く見られました。

雑誌「スタア 四月下旬号」(1940)

スタア昭和15年四月下旬號

 1940(昭和15)年発行の雑誌「スタア 四月下旬號」(スタア社)です。表紙はジーン・アーサー"Jean Arthur"(1900-1991)さんです。ニューヨークでモデルをしているところをスカウトされ、1923(大正12)年に映画デビューしました。フランク・キャプラ監督の作品に多く主演しています。

雑誌記事「カメラスナップ 戸川弓子を追って」(1939)

戸川弓子1939

 1939(昭和14)年発行の雑誌「東宝映画六月上旬號」(東寳映畫社)内の記事「カメラスナップ 戸川弓子を追って」です。戸川弓子(1919- )さんは東京府立第二高女を卒業後、1939(昭和14)年の東宝スター募集に当選、映画界に入りました。一緒に写っている江波和子(1920-1947)さんは成女高等女学校を卒業後、1938(昭和13)年の東宝のスター募集に当選し映画界に入りましたが1940(昭和15)年には引退してしまします。ちなみに女優の江波杏子(1942- )さんのお母様です。

広告「クラブ美身クリーム」(1939)

クラブ美身クリーム1939

 1939(昭和14)年発行の雑誌「東宝映画六月上旬號」(東寳映畫社)の裏表紙広告「クラブ美身クリーム」(株式會社中山太陽堂)です。モデルは日劇ダンシングチームの中村よし子さんです。中山太陽堂は1903(明治36)年に個人商店として設立され、1906(明治39)年から洗顔石鹸「クラブ洗粉」の製造を始め、クラブブランドの化粧品販売を始めました。1939(昭和14)年に株式会社化し、現在も株式会社クラブコスメチックとして存続しています。

雑誌「東宝映画六月上旬號」(1939)

東宝映画昭和14年六月上旬號

 1939(昭和14)年発行の雑誌「東宝映画六月上旬號」(東寳映畫社)です。表紙は山根壽子(1921-1990)さんです。山根壽子さんはオペラ女優の娘として生まれ、文化学院在学中の1936(昭和11)年にPCL(後の東宝)に入社し、翌年映画デビューし人気女優となりました。戦後は新東宝を経てフリーとなり、1950年代まで活躍しました。

雑誌記事「フオート・コント 原節ちやん」(1939)

原節子1939

1939(昭和14)年発行の雑誌「東宝映画三月上旬號」(東寳映畫社)内の記事「フオート・コント 原節ちやん」(嵯峨善兵撮影・文)です。モデルは勿論原節子さんです。撮影と文は嵯峨善兵(1909-1989)さんです。嵯峨さんは日本美術学校(現:日本美術専門学校)洋画科を卒業後、演劇の世界に入り1933(昭和8)年に新興キネマに入社して映画俳優となり、その後東宝の専属となりました。戦後はテレビドラマの悪役として活躍した方です。

広告「ナショナル電球」(1939)

ナショナル電球1939

 1939(昭和14)年発行の雑誌「東宝映画三月上旬號」(東寳映畫社)の裏表紙広告「ナショナル電球」(ナショナル電球株式會社)です。モデルは千早雪子さん、撮影は澁谷龍吉さんです。千早雪子さんは東宝に所属していた女優・歌手ですが、映画は1939(昭和14)年公開の「忠臣蔵」(滝沢英輔監督)一本のみの出演です。ナショナル電球(株)は1936(昭和11)年に創立された会社で、もちろん松下電器産業から分社化された子会社です。

雑誌「東宝映画三月上旬號」(1939)

東宝映画昭和14年三月上旬號

 1939(昭和14)年発行の雑誌「東宝映画三月上旬號」(東寳映畫社)です。表紙は若原春江(1919-1996)さんです。若原春江さんは宝塚音楽歌劇学校予科を修了後、松竹楽劇部を経て1935(昭和10)年に日活多摩川から和歌山小浪名義で映画デビューし、1938(昭和13)年に東宝に移籍して改名し若原春江名義になりました。

広告「宮田特製スポーツ用自轉車」(1938)

宮田製作所1938

 1938(昭和13)年発行の雑誌「東宝映画十二月上旬號」(東寳映畫社)に掲載された広告「宮田特製スポーツ用自轉車」(株式會社宮田製作所)です。同社は1881(明治14)年に宮田製銃所として銃の製造販売の会社として設立されましたが、その後自転車やオートバイを製造するようになり1902(明治35)年に宮田製作所と社名を改めました。現在は自転車部門は分社化され株式会社ミヤタサイクルとなっており、残りは消防関連などの事業中心の宮田工業株式会社となっています。広告の自転車は戦前なのにブレーキがロッドでなくワイヤーで、ギヤこそありませんが非常に洗練されていて現在走っていても違和感はありません。

雑誌記事「日向ぼつこ(原節子・高峰秀子):澁谷龍吉作」(1938)

日向ぼっこ原節子高峰秀子

 1938(昭和13)年発行の雑誌「東宝映画十二月上旬號」(東寳映畫社)の記事写真「日向ぼつこ」です。写っているのは10代ながら既に看板女優となっている原節子さんと高峰秀子さんです。撮影したのは澁谷龍吉(1907-1995)さんです。渋谷龍吉さんは商業写真の分野で活躍された方で、1936(昭和11)年に第一回朝日広告賞で特選一等をとっています。

広告「武道千一夜」(1938)

武道千一夜1938

 1938(昭和13)年発行の雑誌「東宝映画十二月上旬號」(東寳映畫社)の裏表紙映画広告「武道千一夜」(滝沢英輔監督)です。写っているのは主役の大河内伝次郎さん、天一坊役の黒川弥太郎さん、山田五十鈴さんです。滝沢英輔(1902-1965)さんは東京府立工藝学校卒業後、東亜キネマを経てマキノプロで監督になり、マキノプロ解散後はPCL(後の東宝)で活躍しました。戦前は脚本家集団「鳴滝組」に参加し、戦後は女性映画や青春映画で有名です。

雑誌「東宝映画十二月上旬號」(1938)

東宝映画昭和13年12月上旬號

1938(昭和13)年発行の雑誌「東宝映画十二月上旬號」(東寳映畫社)です。表紙は梅園龍子(1915-1993)さんです。梅園龍子さんは浅草のカジノフォーリーの踊り子でしたが、1935(昭和10)年にPCL、後の東宝から映画デビューし1940(昭和15)年に引退しました。

広告「コロムビア教育レコード児童劇おせっく」(1931)

児童劇おせっく販促グッズ

 1931(昭和6)年発売のコロムビア教育レコード「児童劇おせっく」(作曲:坊田かずま)の販促用看板です。厚手のボール紙でできており、後ろに足が折り込んであって立てられるようになっています。コロムビアレコードは1931(昭和6)年より日本のレーベルを二連音符に統一し、同年教育目的のレーベルも(レコード番号33000〜)立ち上げました。坊田かずま(壽真)(1902-1942)さんは尋常小学校教員をしていましたが1920(大正9)年に雑誌「赤い鳥」の童謡募集で入選し、また作曲家としてだけではなく各地のわらべ歌(うさぎうさぎ、かごめかごめ)などの採譜収集でも知られました。また小学校における器楽合奏教育を先駆的に手がけるなどの業績でも知られています。結核により39歳の若さで亡くなりました。
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