雑誌「映画ファン五月特別號」(1939)

1939(昭和14)年5月発行の雑誌「映画ファン五月特別號」(映画世界社)です。表紙は長谷川一夫(1908-1984)さんです。長谷川一夫さんは京都の芝居小屋の子として生まれ、幼い頃から芝居に親しみ、1927(昭和2)年に松竹から林長二郎として映画デビューし大人気を博しました。ミーハーの語源説の一つでもあります。1937(昭和12)年に東宝に移籍すると、松竹の雇ったヤクザに顔を刃物で切られましたが、長谷川一夫として再起しました。戦後も銭形平次などの当り役で有名です。死後国民栄誉賞を送られました。雑誌「映画ファン」は1936(昭和11)年に創刊され、戦争中休刊し戦後復刊して1959(昭和34)年まで刊行されました。
福澤一郎画「風車」(1931)
高畠達四郎画「二人少女」(1931)
雑誌「アサヒグラフ臨時増刊獨立展號」(1931)
雑誌グラビア「ドロシー・ラムーア "Dorothy Lamour"」(1939)
雑誌記事「昭和15年新春日本映画」(1939)
雑誌「サンデー毎日新春の映画號」(1939)
雑誌記事「和かな冬の陽ざし」(1939)
雑誌記事「或る日のわたし・スタアの写真日記(2)」(1939)

1939(昭和14)年12月発行の雑誌「週刊朝日・新春映画號」(朝日新聞社)の記事から「或る日のわたし・スタアの写真日記」です。上からお濠端に立つ三浦光子さん、芝生の上に座る美鳩マリさん、テニスラケットを持たされている草島競子さん、馬をなでている風見章子さんです。美鳩マリ(1919-1962)さんは東京市立京橋高等家政女学校(現都立晴海総合高校)を卒業後、1938(昭和13)年に新興キネマに入社、1944(昭和19)年に監督の鈴木英夫(1916-2002)さんと結婚して映画界を引退しました。草島競子(1919-)さんは小樽の緑ヶ丘高等女学校を中退後1939(昭和14)年に新興キネマに入社、同年監督の高木孝一(1903-1974)さんと結婚しました。その後第一協団、南旺映画を経て戦後は松竹京都に移籍し、1960(昭和35)年に引退しますが、その後もいくつか出演しています。風見章子(1921-)さんはまだ現役の女優です。群馬県立富岡高女を中退後エノケン一座に入門、1937(昭和12)年に日活に入社し「土」(内田吐夢監督)で鮮烈デビューしました。1942(昭和17)年に松竹京都に移籍後結婚を機に一度引退しますがその後フリーとして多くの映画に出演しています。
雑誌記事「或る日のわたし・スタアの写真日記」(1939)
雑誌記事「新春の日本映画」(1939)
広告「眼科藥 スマイル」(1939)
雑誌「週刊朝日・新春映画號」(1939)
広告「夢見る唇」(1933)

1933(昭和8)年五月発行の雑誌「映画評論 第五號」(映画評論社)の裏表紙映画広告「夢見る唇」(パウル・ツインナア監督)"Der Traumende Mund"です。1932(昭和7)年にドイツで公開された映画「夢見る唇」はアンリ・ベルンシュタイン"Henri Bernstein"(1876-1953)氏作の戯曲「メロ」を映画化したもので、主演はユダヤ系ハンガリー人のエリザベート・ベルクナー"Elisabeth Bergner"(1897-1986)さんです。監督のパウル・ツィンナー"Paul Czinner"(1890-1972)さんもハンガリー系ユダヤ人で、お二人はナチスが政権を取るとドイツで活動できなくなりイギリスに移住し結婚します。なお戯曲「メロ」はアラン・レネ監督によって1986(昭和61)年にも映画化されています。
雑誌「映画評論」(1933)
雑誌「スタア 四月下旬号」(1940)
雑誌記事「カメラスナップ 戸川弓子を追って」(1939)
広告「クラブ美身クリーム」(1939)
雑誌「東宝映画六月上旬號」(1939)
雑誌記事「フオート・コント 原節ちやん」(1939)
広告「ナショナル電球」(1939)
雑誌「東宝映画三月上旬號」(1939)
広告「宮田特製スポーツ用自轉車」(1938)
雑誌記事「日向ぼつこ(原節子・高峰秀子):澁谷龍吉作」(1938)
広告「武道千一夜」(1938)
雑誌「東宝映画十二月上旬號」(1938)
広告「コロムビア教育レコード児童劇おせっく」(1931)

1931(昭和6)年発売のコロムビア教育レコード「児童劇おせっく」(作曲:坊田かずま)の販促用看板です。厚手のボール紙でできており、後ろに足が折り込んであって立てられるようになっています。コロムビアレコードは1931(昭和6)年より日本のレーベルを二連音符に統一し、同年教育目的のレーベルも(レコード番号33000〜)立ち上げました。坊田かずま(壽真)(1902-1942)さんは尋常小学校教員をしていましたが1920(大正9)年に雑誌「赤い鳥」の童謡募集で入選し、また作曲家としてだけではなく各地のわらべ歌(うさぎうさぎ、かごめかごめ)などの採譜収集でも知られました。また小学校における器楽合奏教育を先駆的に手がけるなどの業績でも知られています。結核により39歳の若さで亡くなりました。