雑誌「サンデー毎日・昭和11年9月13日號」(1936)
広告「ヘルメス・ラヂオ」(1936)
雑誌「サンデー毎日・昭和11年3月22日號」(1936)
広告「レートクレーム"Lait Cream"(原節子)」(1938)
雑誌「サンデー毎日新春の映画號」(1938)
広告「レートクレーム」(1938)
雑誌「サンデー毎日秋の映画號」(1938)
絵葉書「岡山縣邑久高等女學校生徒体育ノ實況」(1928)
映画スチル「The Marriage Clause」(1926)
映画スチル「戀愛二重奏」(1928)
映画女優「高島愛子」(1925)

1924(大正13)年から1927(昭和2)年にかけて活躍した映画女優の高島愛子(1904-1945?)さんです。高島愛子さんは著名な日本画家の高島北海(1850-1931)氏の娘として生まれ、東京府立第三高等女学校を卒業後、1924(大正13)年に小笠原プロダクションに入社し映画デビュー、同年日活京都第二に移籍して冒険活劇のアクション女優として活躍します(写真はその頃の物)。しかし数々の奇行がたたり1925(大正14)年には退社、その後タカマツアズマプロなどで現代劇のモダンガールとして1926(大正15)年に復活しますが、1927(昭和2)年に外交官と結婚して引退、しかしすぐに離婚され、統合失調症で入院、空襲下の都内で亡くなったと言われています。
映画スチル「The Lady of the Harem」(1926)
雑誌「劇と映画 "The Play & Movie" 二月號」(1927)
広告「麗人遁走曲 "Hideaway Girl"」(1937)

1937(昭和12)年日本公開(1936年米製作)のパラマウント映画「麗人遁走曲 "Hideaway Girl"」(G. Archainbaud監督)の雑誌「キネマ旬報1937/4/11号」裏表紙広告です。写っているのはシャーリー・ロス"Shirley Ross"(1913-1975)、ロバート・カミングス"Robert Cummings"(1910-1990)、マーサ・レイ"Martha Raye"(1916-1994)です。惹句より「女賊の嫌疑を受けた麗人は實は結婚式場から遁走して來た花嫁さんでした。運よくヨトツ(ヨット?)に拾はれてそこで始めて知つた恥かしいうれしい戀のたのしさ!これは探偵映画でもなければ音樂映画でもないうれしい麗人遁走曲です」
雑誌「キネマ旬報」(1937)
広告「妙布」(1937)
雑誌「朗 −趣味と建築の大衆雑誌」(1937)

1937(昭和12)年発行の趣味と建築の大衆雑誌「朗」新年號(日本電話建物株式會社)です。内容は建築の話題を中心に映画情報から小説や俳句短歌まで何でもありです。表紙は田舎で牛が草を食べている絵柄で内容と一致せず、中身から建築雑誌っぽいところを抜き出してみました。実際は日本電建のPR雑誌のようなものでしょうか。日本電建は太平グループの創始者である中山幸市(1900-1968)氏によって1930(昭和5)年に神戸で設立された建築会社で、間もなく東京に進出し、当時としては珍しくローンで住宅を建設することが受けて全国展開しました。ちなみに中山氏は間もなく退社し新たに太平住宅を設立します。日本電建はその後1961(昭和36)年に田中角栄(1918-1993)氏が経営権を握り、1965(昭和40)年に田中氏から小佐野賢治(1917-1986)氏に株が譲渡され国際興行グループ傘下になりました。その後2002年に大東建託に譲渡され現在は大東住託として存続しています。
雑誌「映画 "Screen Pioneer" 七月號」(1928)
雑誌「映画 "Screen Pioneer" 九月號」(1926)

1926(大正15)年発行の雑誌「映画 "Screen Pioneer"」九月號(大正通信社)の表紙です。写真は中野英治さんです。中野英治(1904-1990)さんは海軍軍人の息子として広島県呉市に生まれ、その後東京に移り荏原中学、法政大学で野球選手として活躍、1923(大正12)年に法大を中退して色々な実業団の野球部に所属、1925(大正14)年日活の野球部に所属していたときに籍を俳優部においたため映画デビューし、翌年のキネマ旬報の人気投票で男優の二位(一位は阪妻)となるほどのスターとなりました。1939(昭和14)年に映画界からの引退を表明後は劇団を立ち上げ、演劇のプロデューサーやマネージャーを戦後も勤めました。
雑誌「映画 "Screen Pioneer" 五月號」(1926)
雑誌「映画 "Screen Pioneer" 四月號」(1926)
雑誌「映画 "Screen Pioneer" 二月號」(1926)
広告「クロバー ホゝ紅 口紅」(1938)
雑誌「オール松竹」(1938)
古賀春江画「窓外の化粧」(1930)

1930(昭和5)年に製作された古賀春江氏画「窓外の化粧」です。この作品は親交のあった川端康成氏が所蔵していた作品ですが、神奈川県立近代美術館に寄贈されました。この作品については作者自身が以下のような解題をしています。「晴天の爽快なる情感、蔭のない光。/過去の雲霧を切り破つて、/埃を払つた精神は活動する。/最高なるものへの最短距離。/計算機が手を挙げて合図する。/気体の中に溶ける魚。/世界精神の絲目を縫ふ新しい神話がはじまる」。古賀春江(1895-1933)氏は福岡県の寺の長男として生まれ、1912(大正元)年上京後石井柏亭氏に師事し、1922(大正11)年に二科展に入選、キュビズム、シュルレアリズムと短期間に画風を変えながら1929(昭和4)年の「海」とこの作品で日本のシュルレアリズムの始まりとなりました。