広告「アンドロスチン」(1936)

アンドロスチン1936

 1936(昭和11)年発行の雑誌「サンデー毎日」九月十三日號の裏表紙広告「強力男性ホルモン・アンドロスチン」の広告です。スイスのCIBA社(現ノバルティス社)の製品を武田長兵衛商店(現武田薬品工業)が輸入販売していた物です。内容はテストステロンなどの男性ホルモンですが、一般紙に広告しているということは市販されていたのでしょうか。制限がないとすると当時はドーピングし放題だったのでしょう。
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雑誌「サンデー毎日・昭和11年9月13日號」(1936)

サンデー毎日1936-9-13高杉早苗

 1936(昭和11)年発行の雑誌「サンデー毎日」九月十三日號です。表紙は高杉早苗さんです。主な記事の内容は日本人記者が殺された成都事件の紹介や、京都のあの寺田屋の娘さんがおこした心中未遂事件などです。

広告「ヘルメス・ラヂオ」(1936)

ヘルメスラジオ1936

 1936(昭和11)年発行の雑誌「サンデー毎日」三月二十二日號の裏表紙広告「ヘルメス・ラヂオ」です。ヘルメスラヂオは大阪變圧器株式會社の製品です。同社は1919(大正8)年に設立された変圧器メーカですが、この時期高級ラジオの製造も手がけています。現在も株式会社ダイヘンとして存続しています。

雑誌「サンデー毎日・昭和11年3月22日號」(1936)

サンデー毎日1936-3-22祇園初枝

 1936(昭和11)年発行の雑誌「サンデー毎日」三月二十二日號です。表紙は祇園初枝さんです。祇園初枝さんは松竹大船所属の映画女優で、1936〜1937年の間にいくつかの映画に出演しています。他の詳細は判りません。記事の内容は2.26事件の後を受けた廣田新内閣の紹介や、ドイツ軍のラインラント進駐など、情勢はきな臭くなり始めています。

広告「レートクレーム"Lait Cream"(原節子)」(1938)

レートクレーム原節子

 1938(昭和113)年12月発行の雑誌「サンデー毎日新春の映画號」の裏表紙の広告「レートクレーム」です。モデルは原節子さんです。偶然か表表紙と一致しています。戦捷(戦争に勝つこと)とお化粧は何の関係もないと思うのですが、ここでは流行語程度で取り扱われているのでしょう。

雑誌「サンデー毎日新春の映画號」(1938)

サンデー毎日1938新春映画號

 1938(昭和13)年発行の雑誌「サンデー毎日新春の映画號」(大阪毎日新聞社)です。表紙は原節子さんです。この雑誌は12月発行なので新春とは1939(昭和14)年1月のことです。原節子さんはまだデビュー3年目の18才です。

広告「レートクレーム」(1938)

ムークレトール1938

 1938(昭和13)年発行の雑誌「サンデー毎日秋の映画特集號」の裏表紙に掲載された広告「レートクレーム」(平尾賛平商店)です。モデルは高峰秀子さんです。平尾賛平商店は1878年に平尾賛平氏が東京に設立した化粧品会社で、レート"Lait"ブランドの化粧品を販売していました。1954(昭和29)年に廃業しています。

雑誌「サンデー毎日秋の映画號」(1938)

サンデー毎日1938秋の映画號

 1938(昭和13)年発行の雑誌「サンデー毎日秋の映画號」(大阪毎日新聞社)です。表紙は轟夕起子さんです。当時のサンデー毎日はタブロイド判のグラフ雑誌で、1922(大正11)年に創刊されています。これは増刊の映画特集号です。

絵葉書「岡山縣邑久高等女學校生徒体育ノ實況」(1928)

岡山県邑久高等女学校

 1928(昭和3)年の岡山縣邑久高等女學校生徒体育ノ實況と題された絵葉書です。昭和初期でもかなり本格的な体育授業が行われていたようです。邑久(おく)高等女学校は現在の岡山県瀬戸内市にある岡山県立邑久高等学校の前身で1921(大正10)年に創立されました。

映画スチル「The Marriage Clause」(1926)

Billie Dove

 1926(大正15)年製作のユニバーサル映画「The Marriage Clause」(L.Weber監督)のスチル写真です。写っているのは主演女優のビリー・ダーヴ"Billie Dove"(1903-1997)さんです。

映画スチル「戀愛二重奏」(1928)

恋愛二重奏

 1928(昭和3)年公開の東亜キネマ京都製作「戀愛二重奏」(根津新監督)のスチル写真です。写っているのは宮島健一(1895-?)さんと千種百合子(1906-?)さんです。千種百合子さんはフェリス女学院卒業後、国活、松竹蒲田を経て、1924(大正13)年東亜キネマ甲陽撮影所に入社。映画デビューします。数々の映画で主演し、1933(昭和8)年に日本映画に移籍後フリーになりますが、銀幕復帰はなりませんでした。

映画女優「高島愛子」(1925)

高島愛子

 1924(大正13)年から1927(昭和2)年にかけて活躍した映画女優の高島愛子(1904-1945?)さんです。高島愛子さんは著名な日本画家の高島北海(1850-1931)氏の娘として生まれ、東京府立第三高等女学校を卒業後、1924(大正13)年に小笠原プロダクションに入社し映画デビュー、同年日活京都第二に移籍して冒険活劇のアクション女優として活躍します(写真はその頃の物)。しかし数々の奇行がたたり1925(大正14)年には退社、その後タカマツアズマプロなどで現代劇のモダンガールとして1926(大正15)年に復活しますが、1927(昭和2)年に外交官と結婚して引退、しかしすぐに離婚され、統合失調症で入院、空襲下の都内で亡くなったと言われています。

映画スチル「The Lady of the Harem」(1926)

上山草人、ハレムの美姫

 1926(大正15)年製作のFamous Players-Lasky(現パラマウント)映画"The Lady of the Harem"「ハレムの美姫」(R.Walsh監督)のスチル写真です。写っているのはハリウッド時代の上山草人さんとヘレン・デルジャーさんです。女性の方はクレジットになく詳細は不明です。上山草人(1884-1954)さんは早稲田大学中退後、坪内逍遥(1859-1935)氏の文芸協会で新劇俳優をしていましたが、1919(大正8)年にハリウッドに渡り、映画俳優として活躍しました。1929(昭和4)年に帰国後は個性派俳優として様々な日本映画に出演しました。

映画スチル「九官鳥」(1927)

九官鳥、水谷八重子

 1927(昭和2)年に公開された松竹映画「九官鳥」(野村芳亭監督)のスチル写真です。写真は主演の踊り子お花に扮した水谷八重子さんです。おそらくモノクロのスチル写真を着色した物です。

雑誌「劇と映画 "The Play & Movie" 二月號」(1927)

劇と映画1927年二月號

 1927(昭和2)年発行の雑誌「劇と映画」"The Play & Movie" 二月號(国際情報社)です。表紙はハリウッドスターのドロシー・デヴォワー "Dorothy Devore" (1899-1976)さんです。1918年にデビューし1930年に引退しているのでほぼサイレント映画時代のみで活躍したコメディエンヌです。

広告「麗人遁走曲 "Hideaway Girl"」(1937)

麗人遁走曲1937

 1937(昭和12)年日本公開(1936年米製作)のパラマウント映画「麗人遁走曲 "Hideaway Girl"」(G. Archainbaud監督)の雑誌「キネマ旬報1937/4/11号」裏表紙広告です。写っているのはシャーリー・ロス"Shirley Ross"(1913-1975)、ロバート・カミングス"Robert Cummings"(1910-1990)、マーサ・レイ"Martha Raye"(1916-1994)です。惹句より「女賊の嫌疑を受けた麗人は實は結婚式場から遁走して來た花嫁さんでした。運よくヨトツ(ヨット?)に拾はれてそこで始めて知つた恥かしいうれしい戀のたのしさ!これは探偵映画でもなければ音樂映画でもないうれしい麗人遁走曲です」

雑誌「キネマ旬報」(1937)

キネマ旬報19370421

 1937(昭和12)年発行の雑誌「キネマ旬報」四月十一日号です。表紙は同年公開して大ヒットした映画「オーケストラの少女」の主演女優、ディアナ・ダービン"Deanna Durbin"(1921- )です。「キネマ旬報」は1919年に創刊された映画雑誌で、1940年に終刊して「映画旬報」が新創刊されましたが、1943(昭和18)年にふたたび終刊、戦後1946(昭和21)年に「キネマ旬報」として再創刊され、現在に至ります。

広告「妙布」(1937)

広告「妙布」1937

 1937(昭和12)年の雑誌「朗」新年號裏表紙広告「妙布」(渡邊輝綱藥房)です。戦前は新聞広告なども多数出しており、ポピュラーな湿布薬だったようです。「本年の年頭の計は先づ以つて常に溌剌と壮健なることに」。

雑誌「朗 −趣味と建築の大衆雑誌」(1937)

趣味と建築の大衆雑誌「朗」1937-1

 1937(昭和12)年発行の趣味と建築の大衆雑誌「朗」新年號(日本電話建物株式會社)です。内容は建築の話題を中心に映画情報から小説や俳句短歌まで何でもありです。表紙は田舎で牛が草を食べている絵柄で内容と一致せず、中身から建築雑誌っぽいところを抜き出してみました。実際は日本電建のPR雑誌のようなものでしょうか。日本電建は太平グループの創始者である中山幸市(1900-1968)氏によって1930(昭和5)年に神戸で設立された建築会社で、間もなく東京に進出し、当時としては珍しくローンで住宅を建設することが受けて全国展開しました。ちなみに中山氏は間もなく退社し新たに太平住宅を設立します。日本電建はその後1961(昭和36)年に田中角栄(1918-1993)氏が経営権を握り、1965(昭和40)年に田中氏から小佐野賢治(1917-1986)氏に株が譲渡され国際興行グループ傘下になりました。その後2002年に大東建託に譲渡され現在は大東住託として存続しています。

雑誌「映画 "Screen Pioneer" 七月號」(1928)

都さくら

 1928(昭和3)年発行の雑誌「映画 "Screen Pioneer"」七月號(大正通信社)の表紙です。写真は都さくらさんです。都さくら(1908-?)さんは神戸出身で1926(大正15)年に神戸女学院を中退し、大阪映画を経て東亜等持院に入社、脇役として多数出演しています。その後右太衛門プロや帝キネなどを行ったり来たりしていましたが、1934(昭和9)年に引退し、芸者となりました。

雑誌「映画 "Screen Pioneer" 九月號」(1926)

中野英治

 1926(大正15)年発行の雑誌「映画 "Screen Pioneer"」九月號(大正通信社)の表紙です。写真は中野英治さんです。中野英治(1904-1990)さんは海軍軍人の息子として広島県呉市に生まれ、その後東京に移り荏原中学、法政大学で野球選手として活躍、1923(大正12)年に法大を中退して色々な実業団の野球部に所属、1925(大正14)年日活の野球部に所属していたときに籍を俳優部においたため映画デビューし、翌年のキネマ旬報の人気投票で男優の二位(一位は阪妻)となるほどのスターとなりました。1939(昭和14)年に映画界からの引退を表明後は劇団を立ち上げ、演劇のプロデューサーやマネージャーを戦後も勤めました。

雑誌「映画 "Screen Pioneer" 五月號」(1926)

西條香代子

 1926(大正15)年発行の雑誌「映画 "Screen Pioneer"」五月號(大正通信社)の表紙です。写真は西條香代子さんです。西條香代子(1906-?)さんは私立横浜高等女学校を卒業後、1925(大正14)年に日活大将軍に入社し、翌年映画デビューします。その後1927(昭和2)年に阪妻プロに移籍しますが、1928(昭和3)年に退社し映画界を引退しました。その後、1941(昭和16)年公開の旭日映画社製作の「特別任務班 日露戦争秘史 興亜の人種」(山下元廣監督)という戦意高揚映画にクレジットされていますが、その後の消息は判りません。

雑誌「映画 "Screen Pioneer" 四月號」(1926)

三島洋子

 1926(大正15)年発行の雑誌「映画 "Screen Pioneer"」四月號(大正通信社)の表紙です。写真は三島洋子さんです。三島洋子(1906-?)さんは技芸女学校卒業後新派の舞台で演劇デビュー、1923(大正12)年には帝國キネマ芦屋に入社し映画デビューしました。1924(大正13)年に日活京都に移籍し男優と結婚、1926(大正15)年には山本嘉次郎監督に誘われて夫婦でマキノ東京に移籍し、「浪人街」等に出演しましたが、1928(昭和3)年には引退しました。1944(昭和19)年の夫の死後の消息は不明です。

雑誌「映画 "Screen Pioneer" 二月號」(1926)

梅村蓉子

 1926(大正15)年発行の雑誌「映画 "Screen Pioneer"」二月號(大正通信社)の表紙です。写真は梅村蓉子さんです。梅村蓉子(1903-1944)さんは1910(明治43)年には新派劇の初舞台を踏み、1922(大正11)年に松竹蒲田に入社して、「散りにし花」(島津保次郎監督)映画デビューしますが、関東大震災のため京都下賀茂に異動、その後蒲田に戻りますが1925(大正14)年に日活京都に移籍して溝口健二監督や阿部豊監督の映画に主演し人気を博しました。

広告「クロバー ホゝ紅 口紅」(1938)

クロバー化粧品

 1938(昭和13)年の雑誌「オール松竹」五月號の裏表紙広告「クロバー ホゝ紅 口紅、クロバーレモンクリーム」です。モデルは桑野通子さんでしょうか。製造販売は三葉商會で「クロバー」ブランドの口紅や頬紅などを取り扱っていました。現在でも株式会社クロバーコスメイクが同ブランドを継承しています。

雑誌「オール松竹」(1938)

オール松竹

 1938(昭和13)年に発行された雑誌「オール松竹」五月特別號(映畫世界社發行)です。表紙は佐野周二さんです。「オール松竹」は1922(大正11)年に「蒲田」という名前で創刊され、1936(昭和11)年1月號より「オール松竹」という名前になり、1940(昭和15)年10月號まで毎月発行されました。

古賀春江画「窓外の化粧」(1930)

古賀春江1930

 1930(昭和5)年に製作された古賀春江氏画「窓外の化粧」です。この作品は親交のあった川端康成氏が所蔵していた作品ですが、神奈川県立近代美術館に寄贈されました。この作品については作者自身が以下のような解題をしています。「晴天の爽快なる情感、蔭のない光。/過去の雲霧を切り破つて、/埃を払つた精神は活動する。/最高なるものへの最短距離。/計算機が手を挙げて合図する。/気体の中に溶ける魚。/世界精神の絲目を縫ふ新しい神話がはじまる」。古賀春江(1895-1933)氏は福岡県の寺の長男として生まれ、1912(大正元)年上京後石井柏亭氏に師事し、1922(大正11)年に二科展に入選、キュビズム、シュルレアリズムと短期間に画風を変えながら1929(昭和4)年の「海」とこの作品で日本のシュルレアリズムの始まりとなりました。

山川秀峰作「婦女四題 秋」(1927)

山川秀峰1927

 1927(昭和2)年に製作された山川秀峰氏の多色刷木版画「婦女四題 秋」です。羽織の柄がトランプになっており、とてもモダンです。山川秀峰(1898-1944)氏は京都生まれで鏑木清方氏と池上秀畝氏に師事。1928(昭和3)年と1930(昭和5)年には帝展特選となり、美人画の名手として人気となりました。

雑誌「NIPPON」7號(1936)


 1936(昭和11)年発行の対外宣伝雑誌「NIPPON」第7号(日本工房/内閣情報部)です。表紙の写真は名取洋之助さん撮影、構成とイラストは河野鷹思さんです。河野鷹思(1906-1999)さんは1929(昭和4)年に東京美術学校卒業後、松竹の宣伝部に入社し、その後日本工房にも参加、グラフィックデザイナー、エディトリアルデザイナーを担当しました。戦後も著名なデザイナーとして、また後進の指導者としても活躍しました。

今和次郎・吉田謙吉「銀座のカフェー服装採集」(1926)

今&吉田銀座カフェー1926

 1926(大正15)年に今和次郎さんと吉田謙吉さんが調査した銀座カフェーのウェイトレスの服装図です。これは1927(昭和2)年のモデルノロヂオ(考現学)展の為に作成されたイラストの一部です。左上から松屋地下室喫茶部、小松食堂、千疋屋フルーツパーラー、陶京、CAFE KIRIN、ALPSです。東京のモダンなカフェ文化が偲ばれます。
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