映画スチル「女人新生」(1939)

女人新生

 1939(昭和14)年公開の松竹映画「女人新生」(佐々木啓祐監督)のスチル写真です。温室の中で高峰三枝子さんがこちらに手を振っています。川崎弘子さんが姉役ですが、詳細は不明です。
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横浜市復興記念絵葉書「水道野毛山貯水池」(1929)

水道野毛山貯水池

 1929(昭和4)年4月に行われた横浜市復興祝賀式の記念絵葉書より、「水道野毛山貯水池」です。1887(明治20)年に日本最初の近代水道として、道志川の水を横浜市内野毛山の貯水池まで引くことによって完成しました。関東大震災によって破壊されましたが、写真は1927(昭和2)年に復興した姿です。戦後(1967年)さらに大きな貯水池も建設され、現在も横浜市に水を配水しています。

映画スチル「新女性問答」(1939)

新女性問答

 1939(昭和14)年公開の松竹映画「新女性問答」(佐々木康監督)のスチル写真です。どちらも女子大制服姿の桑野通子さんです。制服が良くお似合いで美しいです。桑野さんはこの後、司法試験に受かって女性検事となり、友人を裁くという難しい役回りをになう訳です。この作品は現在でもDVDで入手できます。

絵葉書「(大横濱名所)伊勢佐木町通り」(1935)

伊勢佐木町通り

 1935(昭和10)年頃の横浜市の伊勢佐木町通り馬車道側入り口を写した絵葉書です。右手奥に見えるビルは松坂屋横浜店で、1928(昭和3)年に竣工したビルです。横浜市歴史建造物に認定されていましたが、2010年に解体されました。

映画スチル「神秘な男」(1937)

神秘な男

 1937(昭和12)年公開の松竹映画「神秘な男」(佐々木康監督)のスチル写真です。吉屋信子さんの原作で主演は三宅邦子さんと上原謙さんです。モダンなカンチレバーチェアに座っています。佐々木康(1908-1993)さんは以前に紹介した「螢の光」や「風の女王」をはじめ、戦前戦後とも大量の作品の監督をこなしました。法政大学在学中に清水宏さんの助監督として松竹に入社し、小津組の助監督を経て1936(昭和11)年に監督に昇進しました。

映画スチル「愛の暴風」(1940)

愛の暴風

 1940(昭和15)年公開の松竹映画「愛の暴風」(野村浩将監督)のスチル写真です。写っているのは主演の桑野通子さん。主題歌の歌詞が白抜きで印刷されています。昭和15年とかなり締め付けも厳しい時代だとは思うのですが、相変わらずの松竹大船調で、桑野さんは作品の中で大胆な水着姿を披露しています。

少女倶樂部附録「秋晴」須藤しげる(1934)

秋晴

 少女倶樂部1934(昭和9)年9月號附録「少女画集」より須藤しげる作「秋晴」です。須藤しげる(1898-1946)さんは愛知県出身の挿絵画家です。中村岳陵氏に日本画を学び、その後挿絵画家として主に少年少女雑誌で活躍しました。

絵葉書「(函館)殷盛を誇る大門通り」(1937)

函館大門通

 1937(昭和12)年の函館市大門通りを写した絵葉書です。手前に函館市電、後ろのビルは現在も残る棒二森屋デパートです。壁に新館竣工の文字があるように、この年に5階建ての近代的なデパートが完成しました。現在も使われていますが増床によりこの頃の面影は見えません。

映画スチル「花つみ日記」(1939)

花つみ日記

 1939(昭和14)年公開の東宝映画「花つみ日記」(石田民三監督)のスチル写真です。内容は以前チラシでご紹介しましたが、高峰秀子さんが可愛い女学生スタイルで写っています。すでにキャリアは10年を越えていますが。石田民三(1901-1972)さんは東亜から帝キネ、新興を経て新生東宝の監督となりました。活動期間は1926(大正15=昭和元)年から1947(昭和22)年までと昭和戦前期に活躍した映画監督、脚本家です。

少女の友繪はがき「ギター弾く」中原淳一

ギター弾く

 雑誌、少女の友の販促用繪葉書より中原淳一画「ギター弾く」です。絵柄からいって1935(昭和10)年前後だと思われます。たびたび紹介していますが、中原淳一さんは当時の女学生達に圧倒的な人気のあった挿絵画家、ファッション評論家でした。

カメラカタログ「BALDA」(1936)

バルダカメラ

 1936(昭和11)年発行のドイツのカメラメーカー、バルダ社のカタログです。バルダ社は当時ドイツのドレスデンにあった中堅カメラメーカーで、1908年の創立です。自社ブランドの他に多くのOEM供給をしたメーカでもありました。戦後東側に残された工場からBelca人民公社が設立され、西側に脱出した創業者は現在に続くバルダ社を再建しました。

映画スチル「冬木博士の家族」(1940)

冬木博士の家族

 1940(昭和15)年公開の松竹映画「冬木博士の家族」(大庭秀雄監督)のスチル写真です。左が徳大寺伸さん、右が朝霧鏡子さんです。原作は鈴木彦次郎(1898-1975)さんの小説です。鈴木彦次郎さんは第一高等学校在学中、川端康成さんと寮で同室だった関係もあり一緒に同人活動や雑誌の創刊に関わり、昭和初期の「新感覚派」作家の一人と見なされています。戦中盛岡に疎開し、戦後も岩手県の地方文化人として活躍しました。

少女倶樂部附録繪葉書:佐藤渼子・畫(1938)

慰問袋に真心こめて

 1938(昭和13)年12月の消印のある少女倶樂部附録「皇軍慰問繪はがき」(佐藤渼子・畫)です。新年號とあるので、1939(昭和14)年一月號附録でしょう。このころから少女雑誌とは言え軍事色を強めていきます。作者の佐藤渼子さんは戦前戦後と挿絵画家として活躍され、戦後は少女漫画にも進出し、昭和30年代半ばまで書かれていたようです。

山口高等女學校水泳プール落成記念繪葉書(1925)

山口高女プール落成

 1925(大正14)年7月18日に山口高等女學校で行われた水泳プール落成記念式の絵葉書です。飛び込みの瞬間をとらえていますが、片足を前に突き出す方式です。男性は両手を前に伸ばしていますが、女性は胸の前で両手を交差させています。胸を保護するためでしょうか。3コースの彼女は明らかにフライングです。見物の女学生達は白襟のセーラータイプの夏服で、当時としては比較的洋装化が早い方ではないでしょうか。

映画スチル「処女よ嘆く勿れ」(1934)

処女よ嘆く勿れ

 1934(昭和9)年公開の松竹映画「処女よ嘆く勿れ」(佐々木恒次郎監督)のスチル写真です。左が竹内良一(1903-1959)さんで、右が逢初夢子さんです。竹内良一さんは外松男爵家の長男として生まれ、学習院高等科を卒業後、1924(大正13)年から築地小劇場で演劇を学び、1925(大正14)年に日活の村田実監督らと渡欧してベルリンで演劇を学び、翌年帰国後日活に入社して映画デビューしました。そこで岡田嘉子さんと知り合い駆け落ち、その後男爵家を廃嫡されることを条件に1927(昭和2)年に結婚し、1931(昭和6)年に夫婦で松竹に移りますが、妻がスター女優になったのに対し夫の人気は低迷、夫婦関係は破綻し1936(昭和11)年に別居、岡田嘉子さんは1938(昭和13)年に共産主義者の恋人とソ連に亡命します。つまり、この映画は夫婦関係破綻中の作品ということになります。

少女倶樂部賞繪葉書:林唯一画(1937)

林唯一画少女

 1937(昭和12)年の消印のある少女倶樂部賞繪葉書で、洋装の少女が丘の上に座っています。作者は以前紹介した林唯一氏です。少女倶樂部は1923(大正12)年に創刊された少女向け雑誌です。ライバルの少女の友や少女画報よりも保守的な誌面作りで保護者受けが良く、部数はこの1937(昭和12)年で約50万部と少女雑誌で最大部数を誇りました。この絵葉書はおそらく読者投稿で採用された人向けの賞品だったのでしょう。

映画スチル「純情夫人」(1938)

純情夫人

 1938(昭和13)年公開の松竹映画「純情夫人」(佐々木啓祐監督)のスチル写真です。写真は桑野通子さんと主演の川崎弘子さんです。この映画は上原謙さんと川崎弘子さんの夫婦を軸にしたお話のようです。

松竹株式會社興行報國會結成式(1941)

松竹興行報国会結成式

 1941(昭和16)年3月に新宿の松竹館で行われた「松竹株式會社興行報國會結成式」の写真です。これは、1940(昭和15)年から始まった労働組合の国家による戦時体制への統制の一環です。松竹で働く労働者が結成式に集められています。丁度第36回の陸軍記念日とも重なっているようです。陸軍記念日は日露戦争の奉天における勝利(1905/3/10)を祝って制定されました。

イーストマン製コダック「ベビーブロウニー、ジフィコダックヴェスト」(1935)

イーストマン製コダック

 1935(昭和10)年のイーストマン製コダック「ベビーブロウニー、ジフィコダックヴェスト」のカタログです。両方とも127というロールフィルム規格のカメラです。コダックはヴェストポケットコダック:通称ヴェス単という廉価で操作方法も簡単なカメラの投入によって、一気にカメラを大衆化することに成功しました。このカタログのカメラは同様の性能ですが、筐体を樹脂化することによってコストダウンと軽量化を達成しています。また樹脂化することによって可能になった当時流行った流線型デザインをうたっています。

映画スチル「荒城の月」(1937)

荒城の月

 1937(昭和12)年公開の松竹映画「荒城の月」(佐々木啓祐監督)のスチル写真です。佐野周二さん演じる夭折の天才作曲家滝廉太郎を中心にしたお話です。写真は高杉早苗さんと高峰三枝子さんです。高峰三枝子さんによると松竹入社三日目に台本を渡されて訳も判らず撮られた最初の作品だそうです。撮影が長引いたため公開は前後していますが。フィルムは残っていてたまに上映されたり放送されたりします。ソフトはVHSはありますが、DVDはまだないようです。

シューバート作曲歌曲集「美しき水車屋の乙女」(1936)

美しき水車屋の乙女

 1936(昭和11)年のビクターレコードの新譜予約のチラシ、シューバート作曲歌曲集「美しき水車屋の乙女」バリトーン独唱ヒュッシュ、ピアノ伴奏ミュラーとあります。十二吋赤盤八枚組金二十八圓ですので、時間にしたらCD一枚分の内容が現在の価値で5万円とかなり高価です。このレコードは当代随一のバリトン歌手ゲルハルト・ヒュッシュが1935(昭和10)年に録音したものを日本国内発売したものです。この録音はなんと現在でもNAXOSからCDとして購入することができます。

映画スチル「母の面影」(1936)

母の面影

 1936(昭和11)年公開の松竹映画「母の面影」(佐々木啓祐監督)のスチル写真です。以前「朗かに泣け」で紹介した佐々木恒次郎監督の改名後の作品になります。主人公の徳大寺伸(1911-1995)さんと高杉早苗さんです。徳大寺伸さんは赤坂の芸者の子として生まれ、慶応大学中退後松竹に入社しました。実弟に尾上家に養子に行った尾上梅幸(七代目)さんがいます。

雑誌「カメラ・クラブ」アルス(1936)

カメラクラブ

 アルス刊の月刊小型寫眞雑誌「カメラ・クラブ」の1936(昭和11)年4月號です。定價十銭の小冊子で、写真技術やコラムや読者との交流記事からなっています。その中に版画家、装丁家として有名な恩地孝四郎(1891-1955)さんの記事がありました。「僕の素人寫眞」と題したコラムですがヴェストポケットコダックなどで撮った写真も掲載されています。実はこの後アマチュアとは言え写真集も出したほどの腕前でした。紹介文によると、「氏は、わが寫眞大講座の装幀をされた方で装幀家としてあまりにも高名。處で寫眞がまた大のお好き、たとひカメラは何でも成績はこの通り甲の上」

全松竹人氣男女優名鑑(1932)

全松竹

 雑誌「松竹」の1932(昭和7)年一月號附録、「全松竹人氣男女優名鑑」(豊國社名鑑編纂部)です。72人分の映画俳優の本名、経歴、趣味、そして月収まで掲載されています。市川右太衛門さんは月給二千圓、今の価値だとおおよそ400万円になります。及川道子さんは三百圓ですので60万円、意外と少ないような気がしますが、それでも専属ならば良い方です。

今和次郎著「日本の民家」更生閣版(1927)

日本の民家

 1927(昭和2)年に更生閣から初版が発行された今和次郎著「日本の民家」です。元は1922(大正11)年に鈴木書店から刊行されていましたが、関東大震災で原版を焼失したため、再版するために新たに書き起こされたものです。それまで全く注目されてこなかった「民家」を日本各地に取材し、図面におこして調査研究につとめ、広く一般に読めるように出版したことは大変素晴らしいことだと思います。現在でも岩波書店の文庫版を入手することができます。

映画スチル「怒りの海」(1944)

怒りの海

 1944(昭和19)年公開の東宝映画「怒りの海」(今井正監督)のスチル写真です。造船の神様とも言われた平賀譲中将を大河内伝次郎さんが、その娘を原節子さんが演じています。公開時期からもわかる通り、所謂戦時国策映画ですが、時代背景は1922(大正11)年に締結されたワシントン軍縮条約(1934年破棄)下での制限された軍艦開発を描いています。今井正(1912-1991)さんは1935(昭和10)年東京帝国大学を中退し、映画界に入り、設立されたばかりの東宝で早くも1937(昭和12)年に監督に昇進します。戦後は「青い山脈」などを監督しました。

京濱電鐵直営羽田穴守海の家「海へ」(1935)

海へ京浜電鉄

 1935(昭和10)年発行の京濱電鐵直営東京朝日新聞社後援、羽田穴守海の家や他の海水浴場のパンフレットです。大きな子供を片手に一人ずつ両脇に抱えた逞しいお母さん?のイラストです。現在の羽田空港近くの穴守稲荷は戦後に強制移転させられたもので、当時は現在の空港敷地内にありました。京浜電鉄は穴守稲荷に隣接する敷地に海水浄化プールやレジャー施設を建設して都内のレジャースポットとして開発したのです。内部の写真を見るとかなり繁盛していたようです。

映画スチル「いろはにほへど」(1933)

いろはにほへど

 1933(昭和8)年公開の松竹映画「いろはにほへど」(池田義信監督)のスチル写真です。左が主演の栗島すみ子さん、右が水久保澄子(1916-?)さんです。水久保澄子さんは洗足高等女学校を中退後、松竹歌劇団を経て映画界に入りました。松竹で人気を得たのですが、この映画の翌年に自殺未遂事件を起こしたり、日活に電撃移籍したりスキャンダルを繰り返したあげく、駆け落ち事件を起こして映画界から追放されました。その後の消息は不明です。

米坂線開通記念「全国産業振興共進會」チラシ(1936)

米坂線開通記念

 1936(昭和11)年に全線開通した米坂線を記念して山形県米沢市主催で開催された「全国産業振興共進會」のチラシです。米坂線は山形県の米沢駅と新潟県の坂町駅を繋ぐ、奥羽線と羽越線を短絡する路線です。1926(大正15)年から部分開業を続け10年後に全線開通にこぎ着けました。昔は仙台と新潟を直接結ぶ急行列車なども通っていたようですが、奥羽線が新幹線開通に伴い改軌されてしまったので現在は不可能です。チラシのデザインは、高層建築の間を高速列車が走る現実とはかけ離れたイメージです。

湘南電鉄「海へ」(1935)

海へ湘南電鉄

 1935(昭和10)年の湘南電鉄による三浦半島の海水浴場パンフレットです。湘南電鉄は1933(昭和8)年から相互直通乗り入れを始めており、品川と浦賀の間は一体運転されていました。1941(昭和16)年には合併して京浜急行電鉄になります。主要な海水浴場として馬堀海岸と金沢八景が挙げられていて、三浦海岸まではまだ線路が到達していません。品川から金沢八景海の家までは往復(海の家までの送迎バス込み)で料金1円と手頃なレジャーとして人気でした。1円と言えば当時の東京市内タクシー均一料金です。
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