山形市主催「全國産業博覽會」第一會場(1927)
映画スチル「永久の愛」(1935)
中央公論社「文壇アンデパンダン第一輯」(1930)
横浜市復興記念絵葉書「横濱公園スタンドヨリ見タル復興状況」(1929)
東横目蒲電車「沿線案内」(1938)
映画スチル「朱と緑」(1937)

1937(昭和12)年公開の松竹映画、「朱と緑」(島津保次郎監督)のスチル写真です。3枚とも主演の高杉早苗さんが写っています。右上が上原謙さんと、右下が高峰三枝子さんとのシーンです。島津保次郎(1897-1945)さんは、神田駿河台の老舗の息子として生まれ、正則英語学校を卒業後実家で仕事をしていましたが、映画事業に乗り出した松竹に小山内薫の門下生として入社、1922(大正11)年に監督に昇進し、多くの蒲田調、大船調のメロドラマを監督しました。この「朱と緑」は小説家の片岡鉄兵(1894-1944)さんの原作で、戦後に中村登監督でリメイクもされています。東京と大阪を舞台にして高杉早苗さん扮する社長令嬢千晶をめぐる愛憎劇のメロドラマです。フィルムは残っているようで、衛生映画劇場などで放映されたりしています。
チラシ「シャープ受信機」(1934)
横浜市復興記念絵葉書「復興セル海岸通リト山下公園」(1929)
三省堂發行「東京横濱市内案内圖」(1932)

1932(昭和7)年に三省堂から受験生向けに配布された「東京横濱市内案内圖」です。「受驗必勝の準備書!」ということで各教科の受験用参考書、そして辞書などの広告がびっしり入っています。三省堂のコンサイスシリーズは昭和初期にすでにあったんですね。路線図を見ると両国ー御茶の水間がまだ予定線になっていますので、房総方面に行く人は乗り換えが大変でしたでしょう。その代わり、東京も横浜も網の目のように市電が走っています。三省堂の広告文です。
「御滞京中御自由な御時間のほんの一部を御わかち下さい 東都に唯一つの學生のデパート三省堂書店は皆様の御立寄りを心から御待ち致して居ります。又明るく落付いた食堂も、しばし旅の御疲れを御休めになるのに好適で御座います。」(「御」使いすぎ)
映画スチル「秘めたる心」(1940)
細田民樹著「生活線ABC」(1931)
横浜市復興記念絵葉書「飛行機ヨリ見タル市街ノ復興状況」(1929)

1929(昭和4)年4月に開催された横浜市復興祝賀式記念の絵葉書より、「飛行機ヨリ見タル市街ノ復興状況」です。横浜市南区の付近で、手前から奥に流れる川は中村川で、現在は上に首都高が被さっています。一番手前の大きな建物は横浜市十全医院で、後の横浜医専病院を経て横浜市大医学部になります。現在は横浜市立大学附属市民総合医療センターがあります。左上の白い建物は横浜市立南吉田小学校でその右の中村川沿いに立つ建物は横浜市立三吉小学校です。三吉小学校は後に横浜市立大学浦舟校舎となり、市大病院が金沢区に移転した後は空きビルです。復興建築の小学校と戦後建てられたビルとがまだ一部残っていますが、間もなく全て取り壊されるものと思われます。
映画スチル「新しき家族」(1939)

1939(昭和14)年公開の松竹映画「新しき家族」(渋谷実監督)の映画スチルです。原作は濱本浩(1891-1959)さんの小説「流離の人々」「少年の日」です。濱本浩さんは戦前戦後に時代小説などで活躍した小説家で、直木賞候補連続7回というタイ記録を持っています(結局賞はとれなかった)。渋谷実(1907-1980)さんは慶応大学を結核療養のため休学中、撮影所に出入りするようになり、回復後正式に松竹に入り、小津安二郎監督などのもとで助監督を務めた後、1937(昭和12)年「奥様に知らしむべからず」で監督デビューしました。「新しき家族」は地方の小資本家の悪行と父と子の相克という二つの物語を絡めたシリアスものですが、残存フィルムは不完全です。写真は佐分利信さんと三宅邦子さんです。
少女倶樂部附録「夜の調」加藤まさを(1934)

少女倶樂部1934(昭和9)年9月號附録「少女画集」より加藤まさを作「夜の調」です。加藤まさを(1897-1977)さんは立教大学に通いながら川端画学校で絵画を学び、在学中から詩画集「かなりやの墓」を出版したり、抒情画、抒情詩を発表していました。また結核の療養のために訪れた千葉県の御宿海岸で有名な「月の沙漠」を作り、少女倶樂部1923(大正12)年三月號に自らのイラストと共に発表したところ大好評となり、佐々木すぐるさんが曲を付けてレコード化され、後にラジオなどを通じて日本を代表する童謡になりました。その後大学を中退して、挿絵画家、詩人として人気となり、女学生から強い支持を受け、当時を代表する抒情画家、少女小説家の一人となりました。
東京市電氣局「電車自動車案内」(1929)
映画スチル「朗かに泣け」(1931)
横浜市復興記念絵葉書「神奈川附近ノ市電ト國道ノ復興状況」(1929)
防空ステッカー(1937)
絵葉書「警視廳」(1932)

主婦之友1932(昭和7)年九月號附録絵葉書より「警視廳」です。桜田門越しに1931(昭和6)年8月に竣工したばかりの新庁舎を写しています。日比谷のお濠端にあった赤煉瓦の旧庁舎は関東大震災で焼失しました。この庁舎は早くも1977(昭和52)年に解体され、現在の高層庁舎に建て替えられました。絵葉書の説明文です。
「警視廳 櫻田門内から觀た警視廳の正面です。最初の設計では屋上の塔をもつと高い圓屋根(ドーム)にする豫定だつたさうですが、櫻田門外の風光を害するものだとて、市民の猛烈な反對があつたたゝめ、御覧の通り途中から切つてしまひました。帝都警備の重大責任を有する廳舎として、實に絶好の地位を占めてをります。」
絵葉書「京都淑女高等女學校發行」(1928)

1928(昭和3)年に京都淑女高等女学校で行われた昭和天皇即位大礼奉祝行事を訪問した皇族達を写した絵葉書です。左上の賀陽宮妃殿下は九条公爵家出身の恒憲王妃敏子(1903-1995)さま、右上の久邇宮妃殿下は島津公爵家出身の邦彦王妃俔子(1879-1956)さまで、香淳皇后良子(1903-2000)さまのお母上です。左下は東本願寺、佛光寺両裏方とありますが、東本願寺は大谷光暢伯爵夫人、久邇宮邦彦王三女智子(1906-1989)さまで香淳皇后良子さまの妹、また佛光寺は渋谷隆教男爵夫人、九条道孝公爵六女篷子さんで貞明皇后節子(1884-1951)さまの妹になります。右下は久邇宮恭仁子女王殿下(1917-2002)を囲んだ記念写真で、父上は伊勢神宮祭主である久邇宮多嘉王(1875-1937)殿下になります。他に冷泉伯夫人、令嬢、渋谷男令嬢の名前があります。錚々たるメンバーで名の通り淑女の女学校だったのでしょう。戦後は紫野に移転して、現在の京都市立紫野高校の母体になったということです。
映画スチル「お絹と番頭」(1940)
絵葉書「モダン髪洗粉」(1932)

主婦之友1932(昭和7)年九月號附録絵葉書より、「モダン髪洗粉(シャンプー)」です。一連の東京名所絵葉書に附いていた広告絵葉書です。巨大な?田中絹代さんが宣伝しています。東京下谷にあった葛原工業所という会社の製品です。以下説明文です。
「モダン髪洗粉 は情熱の國スペインに實るオリーブから採取した純粋なオリーブ油と熱帯産の椰子油を主要原料として黒髪の美しさを少しも傷つけず、手輕に速く洗へて、脱毛や、髪の切れ、折れ等を防ぐばかりでなく、そのまゝ毛根の養ひになるため、美しいお髪のために安心して御使用遊ばすことが出來ます。
主婦の友社代理部、各デパート、全國化粧品店で販賣いたしてゐます。二回分十銭 送料二銭、八回分三十銭 送料四銭」
絵葉書「浅草公園六區」(1932)
絵葉書「松竹大船撮影所」(1936)
チラシ「コロムビア蓄音器」(1936)
絵葉書「馬場先門附近」(1932)
映画スチル「新なる幸福」(1942)

1942(昭和17)年公開の松竹映画、「新なる幸福」(中村登監督)のスチル写真です。写真は三浦光子さんと藤野秀雄(1877-1956)さんのカップルと、桑野通子さんと藤井貢(1907-1979)さんのカップル、他に木暮実千代さんも出演しています。日米開戦の翌月公開の映画ですが、スチルには戦争の陰も見当たりません。モダンな男女がデートしております。中村登監督(1913-1981)は1941(昭和16)年に監督昇格したばかりの新進気鋭の監督で、戦後「紀ノ川」「古都」「智恵子抄」など多くの文芸大作の監督として名を馳せた方です。脚本は吉村公三郎さんに木下恵介さんと豪華です。藤井貢さんは「大学の若旦那」シリーズで人気のあった慶応大学出身の男優さんですが、この頃はかなり貫禄が出ています。