東寳映画「原節子と高峰秀子よりみなさまに」(1939)

原節子と高峰秀子より

 「原節子と高峰秀子よりみなさまに」と題された東寳映画のチラシです。中身は1939(昭和14)年に公開された、原節子さん主演の「東京の女性」と高峰秀子さん主演の「花つみ日記」の紹介です。「東京の女性」は丹羽文雄さん原作で伏見修さん監督の作品で、原節子さんが自動車のセールス・ウーマンとして活躍します。「花つみ日記」は吉屋信子さん原作で石田民三さん監督の作品で大阪の宗右衛門町の置屋の娘で女学生役を高峰秀子さんが演じています。両映画とも現在でも評価が高い作品です。DVD化はされていないようですが。
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山形市主催「全國産業博覽會」第一會場(1927)

産業博覧会

 1927(昭和2)年に山形市内で開催された、「全國産業博覽會」絵葉書より第一会場の正門と入り口です。市内のありとあらゆる公共建物を動員して精一杯に飾り付けられています。大正から昭和にかけて、このような国内博覧会が大変流行し、全国で開催されました。

映画スチル「永久の愛」(1935)

永久の愛

 1935(昭和10)年公開の松竹映画「永久の愛(ラムール・エテルネル)」(池田義信監督)のスチル写真です。この映画は城戸四郎(1894-1977)氏製作総指揮のもと、松竹オールスター総出演映画でした。写真はカフェーで女給役の川崎弘子さんと、上原謙さん、日下部章さんのシーンです。監督の池田義信(1892-1973)さんはこの映画にも出演していた栗島すみ子さんの夫で、この翌年、映画監督を引退します。

中央公論社「文壇アンデパンダン第一輯」(1930)

文壇アンデパンダン

 1930(昭和5)年に中央公論社から発行された文壇アンデパンダン第一輯です。これは同社が企画した文芸アンデパンダン展で入選した作品を集めたものです。第一輯とありますが、第二輯は発刊されなかったようです。二千あまりの応募作の中から第一席となり巻頭に掲載されたのは北林透馬(1904-1968)氏作の「街の国際娘」です。北林氏は出身の横浜を舞台にした小説を沢山書いており、この作品も昭和初期の横浜周辺のチャブ屋や不良外人が沢山出てきます。他に野口活氏作「偶像南京に君臨す」(戯曲) と田宮釧氏作「左側を歩け」(小説) が掲載されています。

横浜市復興記念絵葉書「横濱公園スタンドヨリ見タル復興状況」(1929)

横浜公園

 1929(昭和4)年4月に行われた横浜市復興祝賀式の記念絵葉書より、「横濱公園スタンドヨリ見タル復興状況」です。現在の横浜スタジアムから県庁や開港記念館を望んでいます。横浜公園は日本最古の一般開放された西洋式庭園で、この野球場は1929(昭和4)年に竣工したばかりのものです。ここから見えるビル群の中には現在も残っているものもいくつかあります。ただ、横浜三塔のうち、クイーンに相当する横浜税関は1934(昭和9)年に竣工するためまだ見えません。

東横目蒲電車「沿線案内」(1938)

東横目蒲電車沿線案内

 1938(昭和13)年の東京横浜電鉄・目黒蒲田電鉄合同の沿線案内です。当時両社は本社の場所も同じ、社長も五島慶太(1882-1959)氏と同じで、翌年合併して東京横浜電鉄となります。路線図を見ると、後に都電に引き取られる天現寺橋線や廃止される砧線も見えます。1934(昭和9)年に開業したばかりの東横百貨店や、渋谷と代官山の間に並木橋駅があったり、青山師範(学芸大学)、府立高等(都立大学)などの駅名は現在と違います。

映画スチル「朱と緑」(1937)

朱と緑

 1937(昭和12)年公開の松竹映画、「朱と緑」(島津保次郎監督)のスチル写真です。3枚とも主演の高杉早苗さんが写っています。右上が上原謙さんと、右下が高峰三枝子さんとのシーンです。島津保次郎(1897-1945)さんは、神田駿河台の老舗の息子として生まれ、正則英語学校を卒業後実家で仕事をしていましたが、映画事業に乗り出した松竹に小山内薫の門下生として入社、1922(大正11)年に監督に昇進し、多くの蒲田調、大船調のメロドラマを監督しました。この「朱と緑」は小説家の片岡鉄兵(1894-1944)さんの原作で、戦後に中村登監督でリメイクもされています。東京と大阪を舞台にして高杉早苗さん扮する社長令嬢千晶をめぐる愛憎劇のメロドラマです。フィルムは残っているようで、衛生映画劇場などで放映されたりしています。

チラシ「シャープ受信機」(1934)

シャープ受信機

 1934(昭和9)年のシャープ受信機のチラシです。これは早川金属工業研究所の製品ですが、もちろんこれは現在のシャープ株式会社です。年末年始の特売ちらしで、分割払いが可能な上、抽選で伊勢神宮に一泊ご招待だそうです。当時最新流行の流線型蒸気機関車のイラストが描いてあります。

横浜市復興記念絵葉書「復興セル海岸通リト山下公園」(1929)

海岸通と山下公園

 1929(昭和4)年4月に開催された横浜市復興記念祭の絵葉書より「復興セル海岸通リト山下公園」です。煉瓦造りや石造りのビルが大量に倒壊した横浜市はそのがれきで海岸通沿いを埋め立て、山下公園を建設しました。開園は翌年ですので山下公園はまだ建設中です。海岸通の綺麗に舗装された歩道と植えられたばかりの街路樹が初々しいです。写真はおそらく1927(昭和2)年に開業したばかりのホテルニューグランドの窓から大桟橋に向かって撮ったものでしょう。

三省堂發行「東京横濱市内案内圖」(1932)

東京横浜案内図

 1932(昭和7)年に三省堂から受験生向けに配布された「東京横濱市内案内圖」です。「受驗必勝の準備書!」ということで各教科の受験用参考書、そして辞書などの広告がびっしり入っています。三省堂のコンサイスシリーズは昭和初期にすでにあったんですね。路線図を見ると両国ー御茶の水間がまだ予定線になっていますので、房総方面に行く人は乗り換えが大変でしたでしょう。その代わり、東京も横浜も網の目のように市電が走っています。三省堂の広告文です。
「御滞京中御自由な御時間のほんの一部を御わかち下さい 東都に唯一つの學生のデパート三省堂書店は皆様の御立寄りを心から御待ち致して居ります。又明るく落付いた食堂も、しばし旅の御疲れを御休めになるのに好適で御座います。」(「御」使いすぎ)

映画スチル「秘めたる心」(1940)

秘めたる心

 1940(昭和15)年公開の松竹映画、「秘めたる心」(大庭秀雄監督)のスチル写真です。上が主演の三浦光子さんと朝霧鏡子さん、下が三浦光子さんと山城美和子さんです。大庭秀雄(1910-1997)さんは慶応大学卒業後松竹に入社し、佐々木康監督の助監督や脚本を経て1939(昭和14)年に「良人の価値」で監督デビューしました。戦後の「君の名は」三部作の監督で有名です。

細田民樹著「生活線ABC」(1931)

生活線ABC

 1931(昭和6)年に中央公論社から刊行された細田民樹著「生活線ABC」です。この頃大変流行した典型的なプロレタリア文学で、同年早くも松竹から島津保次郎監督、田中絹代主演で映画化されています。細田民樹(1892-1972)さんは早稲田大学卒業後プロレタリア小説家として活躍しましたが、弾圧による転向後は通俗小説の作家として戦前戦後を通して活動しました。上記写真は左が外函、右が本体表紙になり、このモダンなデザインの装丁は硲伊之助(1895-1977)さんです。硲伊之助さんはフランスでマチスに師事した画家ですが、戦後は主に九谷焼の陶芸家として活動しました。

横浜市復興記念絵葉書「飛行機ヨリ見タル市街ノ復興状況」(1929)

浦舟町

 1929(昭和4)年4月に開催された横浜市復興祝賀式記念の絵葉書より、「飛行機ヨリ見タル市街ノ復興状況」です。横浜市南区の付近で、手前から奥に流れる川は中村川で、現在は上に首都高が被さっています。一番手前の大きな建物は横浜市十全医院で、後の横浜医専病院を経て横浜市大医学部になります。現在は横浜市立大学附属市民総合医療センターがあります。左上の白い建物は横浜市立南吉田小学校でその右の中村川沿いに立つ建物は横浜市立三吉小学校です。三吉小学校は後に横浜市立大学浦舟校舎となり、市大病院が金沢区に移転した後は空きビルです。復興建築の小学校と戦後建てられたビルとがまだ一部残っていますが、間もなく全て取り壊されるものと思われます。

映画スチル「新しき家族」(1939)

新しき家族

 1939(昭和14)年公開の松竹映画「新しき家族」(渋谷実監督)の映画スチルです。原作は濱本浩(1891-1959)さんの小説「流離の人々」「少年の日」です。濱本浩さんは戦前戦後に時代小説などで活躍した小説家で、直木賞候補連続7回というタイ記録を持っています(結局賞はとれなかった)。渋谷実(1907-1980)さんは慶応大学を結核療養のため休学中、撮影所に出入りするようになり、回復後正式に松竹に入り、小津安二郎監督などのもとで助監督を務めた後、1937(昭和12)年「奥様に知らしむべからず」で監督デビューしました。「新しき家族」は地方の小資本家の悪行と父と子の相克という二つの物語を絡めたシリアスものですが、残存フィルムは不完全です。写真は佐分利信さんと三宅邦子さんです。

少女倶樂部附録「夜の調」加藤まさを(1934)

夜の調

 少女倶樂部1934(昭和9)年9月號附録「少女画集」より加藤まさを作「夜の調」です。加藤まさを(1897-1977)さんは立教大学に通いながら川端画学校で絵画を学び、在学中から詩画集「かなりやの墓」を出版したり、抒情画、抒情詩を発表していました。また結核の療養のために訪れた千葉県の御宿海岸で有名な「月の沙漠」を作り、少女倶樂部1923(大正12)年三月號に自らのイラストと共に発表したところ大好評となり、佐々木すぐるさんが曲を付けてレコード化され、後にラジオなどを通じて日本を代表する童謡になりました。その後大学を中退して、挿絵画家、詩人として人気となり、女学生から強い支持を受け、当時を代表する抒情画家、少女小説家の一人となりました。

東京市電氣局「電車自動車案内」(1929)

電車自動車案内

 1929(昭和4)年版の東京市電氣局発行「電車自動車案内」です。市電の路線が網の目のように都心を覆っています。市バスの路線はそれに比べて少ないですが、1924(大正13)年に関東大震災で被害を受けた市電の代替として東京市がバス事業をまだ始めたばかりで、この後郊外や市電の補間として路線が拡充されていきます。

映画スチル「朗かに泣け」(1931)

朗らかに泣け

 1931(昭和6)年公開の松竹映画「朗かに泣け」(佐々木恒次郎監督)のスチル写真です。田中絹代さん高田稔(1899-1977)さん主演です。詳しい情報は分かりませんが、田中絹代さんが手錠でつながれたり拳銃を構えたりしています。前年公開の松竹映画「朗かに歩め」(小津安二郎監督)と題名は良く似ていますが。佐々木恒次郎監督は佐々木啓祐(1901-1967)監督の本名で、1935(昭和10)年までは恒次郎名義でそれ以降は啓祐名義で監督しています。

横浜市復興記念絵葉書「神奈川附近ノ市電ト國道ノ復興状況」(1929)

神奈川附近復興

 1929(昭和4)年発行の横浜市復興祝賀式記念絵葉書より、「神奈川附近ノ市電ト國道ノ復興状況」です。横浜市内における関東大震災からの復興状況を写した一連の絵葉書の一つです。現在の国道15号線の上を走る市電や道路や町並みは完全に復興しているように見えます。場所は横浜駅のやや北側に当たり、現在の箱根駅伝のコースでもあります。

防空ステッカー(1937)

防空ステッカー

 1937(昭和12)年9月15日から19日まで行われた関東防空演習の際に横浜市が作成したセルロイド製のステッカーです。白く見えるところは透明で透けています。同年4月に防空法が交付され、10月に施行される予定でした。とは言ってもこの法律は防空演習を円滑に行うための法案で、「防空演習法」と揶揄されたりもしました。

絵葉書「警視廳」(1932)

警視廳

 主婦之友1932(昭和7)年九月號附録絵葉書より「警視廳」です。桜田門越しに1931(昭和6)年8月に竣工したばかりの新庁舎を写しています。日比谷のお濠端にあった赤煉瓦の旧庁舎は関東大震災で焼失しました。この庁舎は早くも1977(昭和52)年に解体され、現在の高層庁舎に建て替えられました。絵葉書の説明文です。
「警視廳 櫻田門内から觀た警視廳の正面です。最初の設計では屋上の塔をもつと高い圓屋根(ドーム)にする豫定だつたさうですが、櫻田門外の風光を害するものだとて、市民の猛烈な反對があつたたゝめ、御覧の通り途中から切つてしまひました。帝都警備の重大責任を有する廳舎として、實に絶好の地位を占めてをります。」

絵葉書「京都淑女高等女學校發行」(1928)

京都淑女高女

 1928(昭和3)年に京都淑女高等女学校で行われた昭和天皇即位大礼奉祝行事を訪問した皇族達を写した絵葉書です。左上の賀陽宮妃殿下は九条公爵家出身の恒憲王妃敏子(1903-1995)さま、右上の久邇宮妃殿下は島津公爵家出身の邦彦王妃俔子(1879-1956)さまで、香淳皇后良子(1903-2000)さまのお母上です。左下は東本願寺、佛光寺両裏方とありますが、東本願寺は大谷光暢伯爵夫人、久邇宮邦彦王三女智子(1906-1989)さまで香淳皇后良子さまの妹、また佛光寺は渋谷隆教男爵夫人、九条道孝公爵六女篷子さんで貞明皇后節子(1884-1951)さまの妹になります。右下は久邇宮恭仁子女王殿下(1917-2002)を囲んだ記念写真で、父上は伊勢神宮祭主である久邇宮多嘉王(1875-1937)殿下になります。他に冷泉伯夫人、令嬢、渋谷男令嬢の名前があります。錚々たるメンバーで名の通り淑女の女学校だったのでしょう。戦後は紫野に移転して、現在の京都市立紫野高校の母体になったということです。

映画スチル「お絹と番頭」(1940)

お絹と番頭

 1940(昭和15)年公開の松竹映画「お絹と番頭」(野村浩将監督)のスチル写真です。主演は田中絹代さんと上原謙さんです。松竹らしいほのぼのとしたコメディ映画で、DVDも出ています。写っているのは左上が河村黎吉(1897-1952)さんと三宅邦子さん、右上が河村黎吉さんと藤野秀夫さん、左下が田中絹代さんと三宅邦子さん、右下が藤野秀夫さんと田中絹代さんです。河村黎吉さんは戦後、森繁久彌さん主演「三等重役シリーズ」の社長役で有名です。

絵葉書「モダン髪洗粉」(1932)

モダン髪洗粉

 主婦之友1932(昭和7)年九月號附録絵葉書より、「モダン髪洗粉(シャンプー)」です。一連の東京名所絵葉書に附いていた広告絵葉書です。巨大な?田中絹代さんが宣伝しています。東京下谷にあった葛原工業所という会社の製品です。以下説明文です。
「モダン髪洗粉 は情熱の國スペインに實るオリーブから採取した純粋なオリーブ油と熱帯産の椰子油を主要原料として黒髪の美しさを少しも傷つけず、手輕に速く洗へて、脱毛や、髪の切れ、折れ等を防ぐばかりでなく、そのまゝ毛根の養ひになるため、美しいお髪のために安心して御使用遊ばすことが出來ます。
 主婦の友社代理部、各デパート、全國化粧品店で販賣いたしてゐます。二回分十銭 送料二銭、八回分三十銭 送料四銭」

絵葉書「浅草公園六區」(1932)

浅草公園六区

 主婦之友1932(昭和7)年九月號附録絵葉書より、「浅草公園六區」です。浅草は戦前の一大レジャースポットとして繁栄し、多くの映画館がありました。現在僅かに残っている昭和初期建築の映画館も間もなく取り壊される予定です。絵葉書の説明文です。
「浅草公園六區 この繁華の地も、明治初年までは水田になつてゐました。明治十九年に埋め立てゝ公園の第六區とし、それまで観音堂の背後にあつた見世物小屋を、全部こゝに移しました。今日の六區は、俗に映畫街といわれてゐる通り、殆ど映畫館全盛の状態で、土曜日曜祭日などは、身動きもできないほどの人出に賑ひます。」

絵葉書「松竹大船撮影所」(1936)

松竹大船撮影所

 1936(昭和11)年に完成した松竹大船撮影所の絵葉書です。新築の建物の前に、女優の田中絹代さんと高杉早苗さんがいます。松竹は蒲田にあった撮影所が騒音等の影響で使いづらくなったことから、同年に大船に移転しました。ここで、いわゆる「大船調」と呼ばれるメロドラマを多く撮影することになります。この撮影所は2000年に閉鎖され、跡地は鎌倉女子大学に売却され、現在は同大学大船キャンパスとなっています。

チラシ「コロムビア蓄音器」(1936)

コロムビア

 1936(昭和11)年の日本コロムビアのゼンマイ式の蓄音器カタログです。ポータブルの第五六號、卓上型の第四二〇號がそれぞれ紹介されています。ゼンマイ式の蓄音器は一切電気が必要ないので、まさにポータブル向けです。左の写真の女性は船の上でレコードを楽しんでます。

絵葉書「馬場先門附近」(1932)

馬場先門附近

 主婦之友1932(昭和7)年九月號附録の絵葉書より「馬場先門附近」です。馬場先門から皇居越しに日比谷交差点方面を写したもので、正面の建物は1930(昭和5)年に竣工した常磐生命(現朝日生命)ビルを借りて1931(昭和6)年に開業した美松百貨店です。このビルも1980年代に取り壊され、現在は日比谷マリンビルとなっています。絵葉書の説明文です。
「馬場先門附近 宮城を廻る外濠の一部であります。三百年の石垣の古雅な感じと、馬場先門一帯の近代的な建築美とが、清らかなお濠の水を距てて相對してゐるのも、ちよつと面白い對照であります。中央の建物は美松百貨店で、その右手は日比谷公園につゝ"いてゐます。」

映画スチル「新なる幸福」(1942)

新なる幸福

 1942(昭和17)年公開の松竹映画、「新なる幸福」(中村登監督)のスチル写真です。写真は三浦光子さんと藤野秀雄(1877-1956)さんのカップルと、桑野通子さんと藤井貢(1907-1979)さんのカップル、他に木暮実千代さんも出演しています。日米開戦の翌月公開の映画ですが、スチルには戦争の陰も見当たりません。モダンな男女がデートしております。中村登監督(1913-1981)は1941(昭和16)年に監督昇格したばかりの新進気鋭の監督で、戦後「紀ノ川」「古都」「智恵子抄」など多くの文芸大作の監督として名を馳せた方です。脚本は吉村公三郎さんに木下恵介さんと豪華です。藤井貢さんは「大学の若旦那」シリーズで人気のあった慶応大学出身の男優さんですが、この頃はかなり貫禄が出ています。

絵葉書「隅田川風景」(1932)

隅田川

 主婦之友1932(昭和7)年九月號附録の絵葉書「隅田川風景」です。隅田川の両国付近を遡る帆船越しに開通したばかりの現在のJR総武線隅田川橋梁、その奥に蔵前橋のアーチが見えます。絵葉書の説明文です。
「隅田川風景 この鐵橋は兩國驛とお茶の水驛を結ぶ省線電車の高架線です。昭和七年七月一日から開通して、房總方面と東京市内の交通が非常に便利になりました。隅田川もこの邊になると、如何にも大川らしくゆつたりとしてゐて、東京名物の一銭蒸氣やら、帆をはらんだ荷足舟などが右往左往してゐます。鐵橋の遥か向うに見えるのは蔵前橋です。」

絵葉書「第三回大分縣女子庭球大會優勝組」

女子庭球優勝

 第三回大分県女子庭球大会ダブルスの優勝ペア(岩田高女軍)を写した絵葉書です。左が岩田高女研究科の植木百合子さん、右が岩田高女本科の志賀ヤスさんです。研究科というのは一般的には補習科と呼ばれ、現在の短大のような位置付けで女学校卒業後も学業を続けたい人のために設置されました。岩田高等女学校は1900(明治33)年に岩田裁縫伝習所として大分市内で創立され、1911(明治44)年に岩田実科高等女学校として認可され、1939(昭和14)年に岩田高等女学校となりました。同校は戦後の学制改革の後、中高一貫の男子校となり、2001年に男女共学となった現在の岩田学園中学・高校です。
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