絵葉書「吾妻橋」(1932)

吾妻橋

 主婦之友1932(昭和7)年九月號附録の絵葉書より「吾妻橋」です。この橋も隅田川に架かる復興橋の一つで、1931(昭和6)年に竣工したばかりです。現在も浅草からそのアーチを見ることができます。絵葉書の正面に見える建物は大日本麦酒株式會社の工場で、現在はアサヒビールの本社になっています。しかしこの吾妻橋工場ではこの頃サッポロビールブランドのビールが造られていました。実は大日本麦酒は札幌麦酒(サッポロ)、日本麦酒(ヱビス)、大阪麦酒(アサヒ)の各社が合併して1906(明治39)年に発足した会社でしたが、戦後の財閥解体のあおりで分社化して現在に至っています。絵葉書の説明文です。
「吾妻橋 浅草雷門の近くにあります。震災前の吾妻橋は、日本の伝統的な木造工事だつたので、地震には壊れずに火災で焼け落ちてしまひ、ために逃げ場を失つて無惨の死を遂げた市民の數は非常な多數に上りました。この苦い經驗によつて、復興された橋脚は、何れも御覧の通り鐵材と石材のみを用ひた、耐震耐火のものであります。」
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中原淳一「春への贈もの」(1934)

春への贈もの

 少女之友1934(昭和9)年三月號附録、中原淳一さんの小画集「春への贈もの」です。タイトルは表紙、「微風」、「入り日ちかく」、「水のほとり」、「夜のしらべ」、「葉かげ」です。この裏面に後5枚あります。絵の大きさは名刺大ととても小さいです。

映画スチル「螢の光」(1938)

蛍の光

 1938(昭和13)年公開の松竹映画「螢の光」(佐々木康監督)のスチル写真です。左から高峰三枝子さん、高杉早苗さん、桑野通子さんと、松竹人気スター豪華競演映画です。VHS化はされていますがDVDは未発売です。女学校の仲良しグループの卒業とその後を描いた作品。ストーリーは現代から見ると違和感大だとは思いますが、この三人が競演した唯一の作品です。

絵葉書「兩國橋と國技館」(1932)

両国橋と国技館

 主婦之友1932(昭和7)年九月號附録、絵葉書「兩國橋と國技館」です。隅田川をまたぐこの現在も国道14号線として使われている両国橋はこの年末に竣工開通ですので、まだ供用されてはいません。震災前のトラス鉄橋(1904年製)も実は大きな損傷はなかったのですが、この機会に架け替えられ、一部は別の川の橋に再利用されて現在も使われています。国技館は1920(大正9)年に竣工した大鉄傘が有名な円形の建物でしたが関東大震災で火災に遭い、戦争中の空襲でも焼けましたが、その度に改修、再建されました。戦後は米軍に接収され、国技館が蔵前に移ったため、接収解除後はイベントホールや最後は日本大学講堂として使われていましたが、老朽化のため1983(昭和58)年に解体され、跡地に現在の新国技館が建設されました。絵葉書の説明文です。
「兩國橋と國技館 昔はこゝが武蔵と下總との國境であつたたゝめに、兩國橋の名が附けられたものであります。震災後、現在の瀟洒な橋梁に改築されました。この左手に、お茶の水と兩國を結ぶ省線電車の高架線があります。江戸風物の一つとして有名な兩國の川開きは、今でも毎年この附近で行はれます。先方に見える圓屋根は、角力で名高い國技館の大鐵傘です。」

雑誌「映画之友(昭和六年八月號)」(1931)

映画之友

 映画世界社発行の月刊雑誌「映画之友」1931(昭和6)年八月號です。1931年でも夏と言えば女優の水着グラビアです。表紙のカラー写真は日活の佐久間妙子さんです。白黒写真は上から日活の瀧花久子さん、帝キネの歌川八重子さん、松竹の井上雪子さんです。「映画之友」は1923(大正12)年に創刊され、1940(昭和15)年に雑誌統制により他の映画雑誌と統合されて戦後まで続く「映画の友」となりました。

絵葉書「永代橋」(1932)

永代橋

 主婦之友1932(昭和7)年九月號附録絵葉書より「永代橋」です。隅田川にかかる永代橋は関東大震災で破壊された先代の橋を架け替えて作られた、所謂復興橋です。重要文化財に指定され、現在もその美しいアーチを見ることができます。絵葉書ではなぜか橋より箱崎の三井倉庫の方がメインに見えます。この倉庫は1980年代に解体され、現在はIBM箱崎になっています。絵葉書の説明文です。
「永代橋 復興橋梁中の第一位に擧げらるべき橋で、長さ一八三メートル、幅二二メートル、總工費二百八十萬圓を投じて、大正十五年十二月に完成したものであります。その雄大な構成の美はまことに復興東京の一大偉觀であります。」

中原淳一「女學生譜」(1938)

女学生譜

 少女の友1938(昭和13)年五月附録「女学生譜」(西条八十:詩、中原淳一:画)です。表紙と春、初夏、夏、秋、冬と題した中原淳一氏のイラストがあり、その折り込みを開けると中に西条八十氏のそれぞれの季節にちなんだ詩が書いてあります。詩のタイトルはそれぞれ、春は「制服を唄ふ」、初夏は「スクール・ライフ」、夏は「夏やすみ」、秋は「ハイキング風景」、冬は「雪降る窓」です。

映画スチル「女の友愛」(1938)

女の友愛

 1938(昭和13)年公開の松竹映画「女の友愛」(深田修造監督)のスチル写真です。左側の三宅邦子さん、右側の三浦光子さんと一緒にいるベレー帽の女優さんが判りません。日本映画データベースにはお二人の名前しかありません。深田監督も詳細は判らず、小津組の助監督をした後、松竹のメロドラマを1942(昭和17)年まで撮っていますがその後の記録はありません。

絵葉書「日本橋」(1932)

日本橋

 主婦之友1932(昭和7)年九月號附録の絵葉書「日本橋」です。もちろん東京の道路原票のあるお江戸日本橋です。石のアーチ橋は1911(明治44)年竣工の今も残る日本橋です。左側の塔のある赤煉瓦の建物は辰野金吾設計の帝國製麻本社ビルで戦後に建て替えられ今は何の変哲もないオフィスビルになっています。中央の大きなビルは三越本店です。現在はこの上に首都高が覆い被さっています。絵葉書の説明文です。
「日本橋 お江戸日本橋の俚謡でも有名なやうに、こゝは昔の東海道の起點に當るところで、今日でも全國各地への距離は、この橋の中央にある里程元標を基準として測定することになつてゐます。古くは江戸八百八街の殷盛を集めた場所です。現在の花崗岩の橋は、明治四十四年に竣工したものです。寫眞中央の白い建物は三越です。」

映画スチル「風の女王」(1938)

風の女王

 1938(昭和13)年公開の松竹映画、「風の女王」(佐々木康監督)より高杉早苗さんのスキー姿です。この映画でまだ若い笠智衆さんが悪役をやっているのが面白いです。映画自体は現在もDVDで見ることができますが、65分とオリジナルの半分ほどの長さなので再編集版だと思います。当時スキーは中流以上の階層では人気のあった娯楽で、各地にスキー場が作られ始めました。例えば日米開戦の年でさえも各地のスキー場周辺は予約でいっぱいだったそうです。

絵葉書「東京中央郵便局」(1932)

東京中央郵便局

 主婦之友1932(昭和7)年9月號附録の絵葉書「東京中央郵便局」です。吉田鉄郎の設計により1931(昭和6)年に竣工したばかりのモダンな局舎で、まだ営業は始まっていません。2008年まで使用されましたが、有識者の保存要望もむなしくファサードだけ残して取り壊され、JPタワーという高層ビルに建て替えられました。説明文を採録します。
「東京中央郵便局 丸の内の樞要な地を劃し、東京駅ビルとの間の南寄りに新築された、明朗な大建築物であります。こゝで扱はれる郵便物の總數は、引受が一日に通常郵便二百三十四萬五千通、小包郵便物が三萬八千箇、配達は一日に通常郵便物が百七十三萬五千通、小包郵便物が一萬八千箇に及び、年末年始には、この数十倍に達するさうであります。」

秋田高女運動会「二年ホツクスダンス」(1925)

ホックスダンス

 1925(大正14)年に開催された秋田高等女学校の運動会絵葉書より、「二年ホツクスダンス」です。7/16に紹介した1923(大正12)年の同じ秋田高女の運動会では見られなかった洋服の生徒が1/3ほどいます。たった二年で洋装化が進んでいるようです。ただ、服装はバラバラなので制服という訳ではなさそうです。

映画スチル「頑張り娘」(1938)

頑張り娘

 1938(昭和13)年公開の松竹映画「頑張り娘」(野村浩将監督)のスチル写真です。左端が主演の高杉早苗さんです。この作品は梨園に嫁いだ高杉早苗さんの結婚引退作品で、戦前最後の出演になります。戦後映画界に復帰しますが。モダンな喫茶店での女子会の最中のようですが、この作品も失われてしまったのか詳細は不明です。

チラシ「劇場の三科」(1925)

劇場の三科

 1925(大正14)年に築地小劇場で開催された「劇場の三科」と銀座松坂屋で開かれた「三科」展のチラシです。三科とは村山知義氏のMAVOなど大正期の新興美術運動が大同団結して結成され、一大センセーションを巻き起こした後、すぐに瓦解した前衛芸術団体です。これから、未来派、ダダイズム、シュルレアリズム、プロレタリア芸術等様々な方向に分れていきます。

絵葉書「地下鐵ビル」(1932)

地下鉄ビル

 主婦之友、1932(昭和7)年9月號附録の絵葉書「地下鐵ビル」です。1929(昭和4)年に浅草雷門近くに竣工した東京地下鐵道直営ビルでした。川端康成著「浅草紅團」にも登場した当時の最先端スポットでしたが、2006年に解体されました。絵葉書の説明文です。
「地下鐵ビル 浅草吾妻橋畔にあります。日本最初の地下鐵道の起點にあたるところです。現在の線路はまだ一局部だけにしか過ぎませんが、數年後に、豫定線の工事を終つた場合には、大東京の交通潮流に一大變化を招來するものと期待されてゐます。」

秋田高女運動会「キツプテンボール」(1923)

キツプテンボール

 秋田高等女学校の1923(大正12)年5月開催の運動会記念絵葉書より「キツプテンボール」です。どのような球技か判りませんが、キャプテンボールの誤植だとすると、当時学校の体育授業で取り上げられていたフットベースボールの一種だと思います。写真を見る限り秋田高女における学生の洋装化は全く進んでおりません。運動靴を履き、袴の裾をたくし上げ、短い袖の着物を着ているとはいえ、運動をするにはちょっと不向きかもしれません。

絵葉書「上野山下附近」(1932)

上野山下1932

 主婦之友1932(昭和7)年九月號附録の絵葉書「上野山下附近」です。現在の上野駅不忍口近くです。今と違うのは東京市電の存在と自動車の少なさでしょうか。絵葉書の裏の説明です。
「上野公園正面の坂を降りて、上野驛に行く途中の交通網であります。省線電車が高架線を疾走し、地上には市内電車や乗合自動車が、櫛の歯を引くやうに右往左往してをり、この下には地下鐵が走つてゐます。電車自動車の交通の頻繁なことは、東京でも有数のところです。」

女優「小桜葉子」

小桜葉子

 主に子役として戦前に活躍した小桜葉子(1918-1970)さんです。加山雄三さんのお母上とか、上原謙さんの奥様とか言った方が通りが良いかもしれません。岩倉男爵家の御令嬢ですが、母親が松竹の大部屋女優だった関係もあり、母親のペンネームを使って1925(大正14)年に子役デビューしました(その母親も弁護士兼政治家の娘なのですが)。1936(昭和11)年に上原謙さんと結婚し、映画界を引退、翌1937(昭和12)年に長男の加山雄三さんを出産します。1970(昭和45)年に52才で亡くなりました。

チラシ「テレビアン受信機」(1936)

テレビアン受信機

 1936(昭和11)年はベルリンオリンピックの開催年でもあり、ラジオの売り込みもオリンピックを絡めて、さらに特典をつけて頑張っています。テレビアン受信機は山中電機製ラジオのブランドです。山中電機は戦前戦後にラジオの主要メーカーでしたが、テレビ時代に乗り遅れ受信機業界から撤退しました。1956年に山一電機として再出発し、現在に至ります。

日比谷映画劇場ニュース(1937)

日比谷映画劇場ニュース

 1934(昭和9)年から1984(昭和59)年まで存在した東寳直営日比谷映画劇場ニュース(第192号)1937(昭和12)年11月17-23日です。表紙は原節子さん、裏表紙は当時映画産業に深く入り込んでいた中山太陽堂のクラブ歯磨の広告です。戦前の松竹映画等を見ていると、主人公が必ずクラブ化粧品や石鹸の商品名を出して言及する箇所があります。

SPレコード説明書「ラヂオ体操」

ラヂオ体操

 「初代」ラヂオ体操第一、第二のSPレコード封入説明書です。ラヂオ体操は1928(昭和3)年に第一が放送され始め、1932(昭和7)年に第二が放送され始めました。これらは二代目が放送され始める1946(昭和21)年まで使用されました。これは初代ラヂオ体操第一と第二の体操図解で、レコードにはおそらく第一は「可愛い歌手(福井直秋作曲)」第二は「若鮎(堀内敬三作曲)」が入っていたと思われます。号令はNHKアナウンサーの江木理一さん、ピアノ伴奏は丹生健夫さんです。

映画スチル「恋愛修学旅行」(1934)

恋愛修学旅行

 1934(昭和9)年公開の清水宏監督の松竹映画「恋愛修学旅行」のスチル写真です。左が近衛敏明さん、右がデビュー二作目の桑野通子さんです。原作は源尊彦とありますが、清水宏監督のペンネームだそうです。

チラシ「新ビクターラジオ兼電気蓄音器」

ビクター電蓄

 日本ビクター蓄音器株式会社製のラジオ付き蓄音器JRE-33の広告チラシです。SPレコードはぜんまい式が主流でしたが、昭和初期から電気の普及に伴い、モーター式の所謂電蓄も増えてきました。電気が来て増幅装置もあるならラジオもつけてしまえということで電蓄にはラジオつきが主流になります。

吉田初三郎「名古屋市鳥瞰図」(1936)

名古屋鳥瞰図

 1936(昭和11)年に吉田初三郎(1884-1955)氏によって描かれた「名古屋市鳥瞰圖」です。独特のデフォルメによって富士山から最後は朝鮮半島まで描かれています。この図は名古屋で1937(昭和12)年に開かれた汎太平洋平和博覧会のために作られました。吉田氏は大正広重ともてはやされ多くの独特の視点の鳥瞰図を残しました。裏側は名古屋の観光案内になっています。

映画スチル「女よ!君の名を汚す勿れ」(1930)

女よ!君の名を汚す勿れ

 1930(昭和5)年公開の松竹映画「女よ!君の名を汚す勿れ」のスチル写真です。監督は日本最初のトーキー映画「マダムと女房」の、五所平之助(1902-1981)さんです。写真は左から松井潤子(1906-1989)さん、及川道子(1911-1938)さん、斎藤達夫(1902-1968)さんです。映画自体は失われてしまったようで、どのような話だったのか。

日本全國鐵道圖(1935)

日本全国鉄道図

 1935(昭和10)年の東京日日新聞元旦附録(鐵道省監修)の「丹那隧道開通記念最新日本全國鐵道圖附満州鐵道網」です。1934(昭和9)年暮れに熱海と三島を繋ぐ丹那トンネルが難工事の末に開通した記念です。これによって今まで箱根を大きく迂回して御殿場を経由していた東海道本線がショートカットできるようになり、大変スピードアップできるようになりました。

映画宣伝絵葉書「舞姫記(FANNY ELSSLER)」(1937)

舞姫記

 1937(昭和12)年公開のドイツ映画「舞姫記(原題:Fanny Elssler)」の宣伝絵葉書です。Paul Martin監督、主演はLilian Harvey(1906-1968)で独ウファ映画/東和商事配給でした。Fanny Elsslerは19世紀に実在したオーストリアのバレリーナです。主演のHarveyは「会議は踊る」の主演女優でも有名ですが、この後ユダヤ人を支援したためにナチスに追われて南フランスから戦争中はハリウッドに移り住むことになります。

ライオン歯磨「映画ストオリイ懸賞募集」(1937)

ライオン映画募集

 1937(昭和12)年のライオン歯磨宣伝映画のための映画ストーリー公募チラシです。ライオン歯磨本舗は1918(大正7)年創立の株式會社小林商店のブランドでした。同社は口腔衛生活動に積極的で、大正時代からいろいろなパンフレットや啓蒙映画などを作成していました。賞金200円は今の価値で言うと3~40万円というところでしょうか。

女優「千早晶子」

千早晶子

 1908(明治41)年生まれの映画女優の千早晶子さんです。詳しい経歴は判りませんが、1927(昭和2)年に松竹下加茂で製作された衣笠貞之助監督「鬼あざみ」で主演デビューし、衣笠映画聯盟製作の多くの作品に出演しています。中でも特にその前衛性で現代でも高く評価されている衣笠貞之助監督「十字路」(1928)でも主演しています。デビュー以来、無声映画時代の松竹下加茂映画に80本以上出演していますが、トーキーが主流になった1936(昭和11)年以降ほとんど映画に出演していません。

雑誌「富士アマチュアフォト」(1939)

富士アマチュアフォト

 富士寫眞フィルム株式會社発行の「富士アマチュアフォト」1939(昭和14)年10月號です。Vol.5即ち創刊5年目ということは、1934(昭和9)年の富士寫眞フィルム(株)設立と同時ということになります。同社はもともと大日本セルロイド株式會社(現ダイセル)のフィルム部門でしたが独立して会社が設立されました。内容はアマチュア向けの解説記事や、絞りやシャッター速度の季節的な値や投稿写真などが掲載されています。
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Author:nao_koba
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