女優「三宅邦子」

三宅邦子

 映画女優の三宅邦子(1916-1992)さんです。戦後の小津映画の常連だったので見たことある方も多いと思います。久喜高等女学校を卒業後、松竹に入社し、1934(昭和9)年公開の池田義信監督「夢のさゝやき」で映画デビューしました。それ以後1942(昭和17)年に結婚退社するまで、80本以上の松竹作品に出演しました。写真の左側は1940(昭和15)年公開の蝦川伊勢夫監督「春の旋風」のスチル写真、右側は1938(昭和13)年公開の佐々木啓祐監督「半處女」に主演したスチル写真が表紙の銀座映画劇場ニュースです。戦後1948(昭和23)年に再デビューし、多くの小津作品をはじめとした映画やテレビに出演しました。1992年に76才で心不全のため亡くなりました。
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ポリドールレコード洋樂總目録(1937)

ポリドールレコード洋樂總目録

 1937(昭和12)年版のポリドールレコード洋樂總目録です。洋楽とは西洋音楽全般で、クラシックからジャズやタンゴまで含まれます。中を見てみると、フルトヴェングラーやクライバーが指揮したベルリンフィルが並んでいます。ダンスはダンスホール向きの様々なステップの曲がそろえてあります。(間もなく風紀を紊乱するということで閉鎖に成るのですが。)配ったお店は京浜急行の新馬場駅近くの旧東海道沿いにあったと思われる楽器店です。

六櫻社現像袋(1936)

さくら各種フィルム

 1936(昭和11)年の六櫻社=小西六本店の現像袋です。六櫻社は1902(明治35)年に小西六本店の工場部門として設立され、「さくら」「チェリー」ブランドの写真フィルム、印画紙、現像用品、カメラなどを生産していました。戦後の一時期は国内シェアトップでしたが、ライバル社とのシェア争いやフィルムカメラ衰退により2006年にフィルムとしてのブランドはなくなりました。会社自体は現在もコニカミノルタとして存続しています。

女優「市川春代」

市川春代

 大正時代から戦後まで活躍した女優の市川春代(1913-2004)さんです。長野の弁護士の娘として生まれましたが、父の死去をきっかけに親戚のつてで1926(大正15)年に京都の日活大将軍撮影所に13才で入社、伊奈精一監督「都の西北」で映画デビューしますがクレジットに名前はなく、初めてクレジットされたのは1929(昭和4)年公開の東坊城恭長(入江たか子さんの兄)監督「結婚悲劇」でした。その後トーキーの時代に入ると多くのB級作品に主演するようになり、東宝、さらに東京発声映画と移籍しながらスターになりました。映画の主題歌を歌ってレコードも数多く発売されており、戦前のミュージカル映画にも主演しています。戦後も脇役として1960年代まで映画やテレビに数多く出演し、2004年に91才で老衰のため亡くなりました。

寳塚少女歌劇繪葉書「昭和六年三月公演(花組)」(1931)

宝塚少女歌劇団

 寳塚少女歌劇團の花組1931(昭和6)年3月公演の絵葉書です。左の「キヤシイードラル」プロローグの踊り子:松浦房子・衣川千浪は1928(昭和3)年入団の17期生で、葦原邦子、春日野八千代といった後のスター達と同期です。右の「沈鐘」ラウテンドライン:明津麗子は1926(大正15)年入団の15期生で、草笛美子などと同期です。当時の寳塚はレビューやラインダンスといった現在の定番の形式が確立しつつある頃で、大変な人気を博していきます。

チラシ「リーガルレコード11月新譜」(1936)

リーガルレコード

 1936(昭和11)年11月のリーガルレコード新譜案内です。リーガルレコードは日本コロムビアの廉価版レーベルでした。表紙の写真は戦前大変人気のあった漫才コンビです。リーガル千太(1901-1980)氏とリーガル万吉(1894-1967)氏は二人とも柳家金語楼一座の落語家でしたが、リーガルレコードから漫才コンビとして1934(昭和9)年にデビューしました。漫才を吹き込んだSPレコードは大変人気となり、200枚以上発売されたそうです。

少女倶樂部附録「海風」林唯一(1934)

海風

 少女倶樂部1934(昭和9)年9月號附録「少女画集」より林唯一作「海風」です。林唯一(1895-1972)氏は高松市に生まれ、関西商工学校卒業後、印刷工をしながら松原三五郎(1864-1946)氏が主宰する天彩画塾で洋画を学びました。1919(大正8)年に上京し、川端画学校に通いながら画塾の先輩で欧州留学から帰国していた徳永仁臣(1871-1936)氏に師事。1920年代から新聞や雑誌の挿絵を描き始め、人気挿絵画家となりました。戦争中は海軍報道班員として多くの戦争ルポルタージュ画を描いています。戦後は光の家協会の依頼で各地の農村風景を多く描きました。1959(昭和34)年の個展の後引退し1972(昭和47)年に亡くなりました。

チラシ「セミプリンスカメラと速寫ケース」(1935)

セミプリンスカメラ

 1935(昭和10)年に発売されたセミプリンスカメラの広告です。会社名はプリンスカメラウァークスとなっていますが、藤本写真工業(株)の製作です。同様の「ラッキー」ブランドのカメラを自社ブランドで発売しています。国産最高品質を謳っていますが、レンズとシャッターはドイツ製の部品を使っています。とはいえ、ツァイスのイコンタの半額程度の価格でほぼ同じ性能です。デザインもほぼ同じですが。価格は52円から89円、現在の感覚では10〜18万円といったところでしょうか。なお、藤本写真工業は引伸し機メーカーとして現在も健在ですが、2008年に(株)ケンコーに吸収され、同社藤本写真事業部となっています。

女優「栗島すみ子」

栗島すみ子

 映画、舞台、日本舞踊で活躍した女優の栗島すみ子(1902-1987)さんです。父の死後、5才で新派俳優の栗島狭衣氏の養女となり、子役として舞台に上がりました。映画にも子役として出演しており、まだ明治時代の1909(明治42)年にパテー商会の「新桃太郎」に義父と共に出演しています。その後1913(大正2)年からは義父の巡業に付いて地方回りをしていましたが、将来を案じた母に連れ戻され、1918(大正7)年には日本舞踊の名取に成りました。その後1921(大正10)年に松竹に入社し、ヘンリー小谷監督「虞美人草」の主演女優として本格的に映画デビューしました。その後1935(昭和10)年に松竹が蒲田から大船に移転するまで100本以上の作品に出演する人気女優でした。これ以降はほとんど映画に出演せず引退状態でしたが、日本舞踊の家元としては晩年まで活躍しました。1987(昭和62)年に85才で腎不全のため亡くなりました。

チラシ「エヂソン打付兼用綴器」

ホチキス

 EDISONブランドの卓上型ホチキスの広告チラシです。staplerでもホチキスでもなくFastenerです。用語がまだ統一されていなかったのでしょうか。製造会社等の詳細が一切書いてなく委細不明です。文章と価格からすると戦前の物でしょうが。当時このチラシをもらっても商品名と内容しか判りません。

女優「宮城千賀子」

女優「宮城千賀子」

 宝塚から映画女優になった宮城千賀子(1922-1996)さんです。1935(昭和10)年に宝塚歌劇団に入団し、男役の「東風うらゝ」として活躍しました。宝塚退団後、1940(昭和15)年に日活映画の稲垣浩監督「宮本武蔵」のお通役で映画デビューしました。写真の左側がそのスチルです。その後、助監督だったマキノ真三氏と結婚し、様々な映画や舞台に出演、戦後に離婚後もテレビも含めて広く活躍しました。1996年に73才で肺炎のためなくなりました。

中原淳一「乙女十二ヶ月」(1934)

乙女十二ヶ月

 中原淳一さんのイラストが入ったカレンダーです。3ヶ月づつ4枚に分れています。それぞれに海外の詩人による詩の訳が載っています。カレンダーの曜日の配列から1934(昭和9)年の前年に発行された物であると思われます。当時の女学生に絶大な人気のあった中原さんの絵に、文学少女心をくすぐる抒情的な詩と、さらにカレンダーを付けた実用性が良いです。

絵葉書「上空から見たる東京市日比谷公園付近」

日比谷

 「約三百米上空、旅客機より見たる東京市日比谷公園附近」と説明文の付いた絵葉書です。左上には日比谷公会堂と日比谷公園が、右上にはライトの帝国ホテルが見えることから、1930年代の撮影と思われます。斜めに横切る市電のある大きな通りは日比谷通りです。多くのビルが見られますが、おそらく現在も残っているのは日比谷公会堂/市政会館のみであると思われます。

展覧会「名取洋之助−日本工房と名取学校」

名取洋之助

 日比谷図書文化館で開催されている、「報道写真とデザインの父:名取洋之助 − 日本工房と名取学校」展を見に行きました。名取洋之助(1910-1962)さんは戦前戦後を通して活躍した、写真家、デザイナー、編集者です。18才で渡独してドイツの写真グラフ誌に認められ、契約写真家となり帰国、1933(昭和8)年には木村伊兵衛氏らと日本工房を設立、伝説の対外宣伝誌「NIPPON」を創刊しました。土門拳氏や山名文夫氏など錚々たるメンバーを使って素晴らしい仕事をしました。しかし歯に衣着せぬ言動と、我を押し通す強引さによって敵も多かったようです。戦後は写真グラフ誌「サンニュース」を創刊したり、岩波写真文庫の編集に携わったりしましたが、1962(昭和37)年に癌のため亡くなりました。展覧会ではこれらの写真と雑誌や印刷物になった様々な作品が展示されています。どのデザインも大変洗練されていて、非常にレベルが高いように感じました。6/26まで。

女優「夏川静江」

夏川静江

 大正時代から戦前戦後を通して活躍した女優の夏川静江(1909-1999)さんです。1916(大正5)年に日比谷公園で遊んでいたところを近代劇協会主宰で後にハリウッドで活躍する上山草人氏にスカウトされ舞台デビュー、その関係で1919(大正8)年に帰山教正監督「生の輝き」(映画技術協会製作)で弟共々子役で映画デビューしました。母親が男優と再婚したこともあり、たびたび映画や舞台に出演しましたが、女学校を卒業後、1927(昭和2)年に日活に入社し、本格的な女優活動を始めました。当時はまだ珍しい清純派女優としてスターになり、戦後も1970年代まで映画に出演し続けました。1999年に腸閉塞のため89才で亡くなりました。

シール「日活・PCLスター ウツシ繪」

日活PCLスター

 日活とPCLの映画女優を集めたウツシ繪です。トランスファーピクチャーとも書いてありますが、水に浸すと表面が接着性になり、貼りたい所に置いて台紙を取ればくっつくという転写フィルムです。写真はカラーで中々豪華です。PCLというのは東宝の前身の映画配給会社で、1933(昭和8)年から1937(昭和12)年まで存在しました。すなわち、このシールもその間の物です。

カタログ「三榮堂本店」(1929)

三栄堂本店

 神田区佐柄木町(現在の千代田区淡路町)にあった三榮堂本店の1929(昭和4)年のカメラカタログです。国内外各社のカメラが取り揃えてあります。佐柄木町は関東大震災後の区画整理で淡路町に改称されましたが、このカタログはまだ佐柄木町表示です。1929(昭和4)年発売のスペシャルパーレットカメラが最新型です。1926(大正15)年設立のツァイスイコン社のカメラが紹介されていますが、在庫があるのか合併の母体となった、イカ、エルネマン、ゲルツ、コンテッサネッテル社の製品もまだカタログにたくさん残っています。

女優「岡田嘉子」

岡田嘉子

 波乱の生涯を送った女優の岡田嘉子(1902-1992)さんです。1918(大正7)年に女子美術学校を卒業後、小樽で新聞記者をした後、上京して新劇の芸術座、新芸術座に参加、スター女優となりました。その後、日活から1923(大正12)年に田中栄三監督「髑髏の舞」で、映画デビューし、映画界でもスターとなりました。ただ、舞台で抱えた借金とその奔放な男性関係から様々な批判にさらされました。1938(昭和13)年に恋人の共産主義者の演出家、杉本良吉氏と樺太のソ連国境を越えて亡命しましたが、スターリン体制のソ連ではスパイ容疑で逮捕され長らく投獄されました。なお杉本氏は処刑されています。戦後釈放されるもそのままソ連にとどまり、放送局等で働いていました。1972(昭和47)年に一度帰国しますが、改革開放後のソ連に戻り、1992年にモスクワで亡くなりました。

雑誌「いとうタイムス」(1926)

いとうタイムズ

 1926(大正15)年5月に発行された、月刊「いとうタイムス」です。発行している伊藤萬蔵商店は上野にあった理髪器具刃物等の卸業者でした。理髪店や地方の刃物商などに配っていた通信販売用のカタログ雑誌ですが、経済や商売に関する読み物記事や詩などの文学作品も載っており、中々充実した内容です。裏表紙の広告が「錆びないナイフ」ということで、ステンレス製の刃物も普及し始めていたようです。

絵葉書「合同體操」千葉縣女子師範學校(1940)

合同体操

 1940(昭和15)年に千葉縣女子師範學校(現:千葉大学)創立60周年を記念して発行された絵葉書より、「合同体操」です。おそらく運動会かなにかでしょうか、大勢の女生徒がバランスを取っています。この学校は現在の千葉駅前の東口ロータリー付近に広大な校地を持っており、戦後千葉大学に統合されて移転した跡地に現在の東千葉駅周辺にあった千葉駅が移ってきたそうです。

女優「山路ふみ子」

山路ふみ子

 戦前は映画女優、戦後は実業家としても活躍した山路ふみ子(1912-2004)さんです。1930(昭和5)年、神戸の森高等女学校在学中にミス神戸に選出され、帝國キネマに入社、同年公開の志波西果監督「時代の反抗児」で映画デビューしました。その後、日活、新興キネマと移籍しながら次々と映画に主演し、人気スターとなりました。戦後は料亭を経営したり、その売却益で財団を興し、科学や文化を助成する社会事業家としても知られていました。

舞踏「愛國行進曲」(1938)

愛國行進曲

 1938(昭和13)年に大日本皇國會から発行された愛國行進曲の振り付け解説です。振り付けは山脇高等女学校講師の藤間蔦枝さんで、表紙の女学生や学校は同校の物でしょう。愛國行進曲は1937(昭和12)年に内閣情報部より国民精神総動員を表す歌詞が公募され、選定された歌詞に対して曲も公募されました。作詞は森川幸雄さんという方ですが、錚々たる審査員達によって補作され原型をとどめていないそうです。作曲は軍艦マーチで有名な瀬戸口藤吉さんです。1937年の暮れに日比谷公会堂で作品は発表されました。内閣情報部は著作権フリーにしたので、様々な録音やこのような関連商品が発表されました。「見よ東海の空明けて」で始まる勇壮な歌詞ですが、丁度日米開戦頃に小学校入学した父によると、「見よ東條の禿頭」という替え歌が流行っていたそうです。(ちなみにこのあとはうろ覚えですが、「ハエがたかるもツルッと滑る/滑って転んでまた滑る/...」。)

写真集「書齋と應接の構成」洪洋社(1932)

書斎と応接の構成

 1932(昭和7)年に刊行された、建築寫眞類聚第八期第九輯「書齋と應接の構成」洪洋社刊です。内装インテリアの写真集で、当時欧州で流行していたバウハウススタイルや構成主義スタイルの作例写真を主に掲載しています。写真の本は1940(昭和15)年に発行された第12版なので、大変人気があったと思われます。写真のページではマルセルブロイヤー(表記はマルセル・ブルーエとフランス風)らの書斎例です。カンチレバーチェアが簡素かつ現代的な雰囲気を醸し出しています。

女優「近衛秀子」(1936)

近衛秀子

 女優の近衛秀子さんです。詳しい経歴は判りません。1936(昭和11)年に新興キネマ製作の青山三郎監督「武器なき人々」で映画デビューしています。この映画に先日亡くなった新藤兼人さんが美術として参加しています。同年公開の同じ監督の「椿は紅い」と、戦前は二つの映画にのみ出演しています。所謂これは女優の水着グラビアでしょうか。ちなみに戦後は1967年まで5作の映画に出演していますが、いずれも脇役です。

「京成電車沿線案内」(1935)

京成電車

 1935(昭和10)年の京成電車沿線案内パンフレットです。京成電鉄は1933(昭和8)年に上野公園地下に乗り入れ、念願の都心ターミナルを開業させています。ただライバルの省線(現JR)も1932(昭和7)年に秋葉原両国間を高架で開通させ、1935年には千葉駅まで電化をしています。面白いところでは向島駅から白髭橋に向かって白髭線という枝線が見えるのですが、これは王子電車との直通運転も計画されていたようです。しかし1936(昭和11)年には廃止されてしまいます。地下鉄も1934(昭和9)年に浅草新橋間が開通しており、この時期に東京のインフラが急速に整備されていったことが判ります。

チラシ「改正電話規則のあらまし」(1937)

電話規則

 逓信省が1937(昭和12)年に発行した「改正電話規則のあらまし」です。1938(昭和13)年1月1日からの電話規則改正に伴うPRチラシです。表紙は1号自動電話器で、後ろに配された電話帳の厚さがすでにすごいことになっています。表紙横の臨時電話というのはイベントなどで仮設電話を引く時の説明で、可能ならば当日も申し込みの当日設置も可能だそうです。面白いのは共同加入契約というのがあって、複数の契約者が一つの電話を共有することができるようです。加入権は高価で庶民にはまだまだ高嶺の花だったようです。

チラシ「東宝舞踊隊」(1940)

東宝舞踊隊

 「日劇ダンシングチーム改稱東宝舞踊隊神戸第二回公演」のチラシです。1940(昭和15)年から1945(昭和20)年まで、日劇ダンシングチームは「東宝舞踊隊」と名乗っていました。このチラシは改称直後の1940年のチラシです。当時の近衛内閣が好んで使った「新体制」という流行語を使って改称をアピールしています。日米開戦まではまだ一年以上ありますが、英語の使用自粛は始まっていたようです。とは言っても内容はまだまだ能天気なものです。「新體制全く成つたわれらが健康美部隊の本年第二回公演!新企畫で神戸人を驚倒せしめる全員總出演の絢爛華舞臺これが新日本の誇る本當のショウの姿だ!!」

雑誌付録「御存じですか」(1931)

御存知ですか

 主婦向けの雑誌「婦人世界」(實業之日本社)1931(昭和6)年7月號特別附録、「御存じですか、家庭日常用品の見分け方」です。中身はおばあちゃんの知恵袋的な生活まめ知識で、電気冷蔵庫や電気洗濯機がない時代の主婦の知恵が垣間見えてとても面白いです。梅雨の時期のせいか表紙広告とも傘を持った洋髪の着物姿の婦人です。表紙絵に「せいそん」と銘が入っていますが、あの日本画の巨匠にしては絵が下手な様な...きっとせいそん違いでしょう。

絵葉書「(大名古屋)十一屋」(1937)

大名古屋十一屋

 松坂屋謹製大名古屋絵葉書より「十一屋」百貨店です。十一屋は1615年創業の十一屋呉服店から続く名古屋の老舗で、戦争中の統制令により、後発の三星(みつぼし)百貨店と合併して現在も続く丸栄デパートになりました。写真の建物は広小路沿いの現在の丸栄デパートのお向かいに当る栄町ビル周辺にあり、1936(昭和11)年に完成したばかりの当時としては超モダンな近代的デパートメントストアです。この建物は1945(昭和20)年の空襲により失われました。

女優「入江たか子」

入江たか子

 戦前を代表する銀幕の女王、入江たか子(1911-1995)さんです。東坊城子爵家の御令嬢ですが、生活は苦しかったようです。1927(昭和2)年に文化学院中等部を卒業後、日活京都にいた兄を頼って京都へ移り、同年兄の友人に請われて新劇の舞台に立っていたところを内田吐夢監督にスカウトされ、日活に入社しました。1928(昭和3)年、伊奈精一監督「松竹梅」で銀幕デビューしました。写真は日活の太秦撮影所の入り口で出欠札を裏返す入江たか子さんです。すなわち、撮影所が大将軍から太秦に移った1928(昭和3)年から入江プロ設立の1932(昭和7)年までの間の一枚だと思われます。入江プロは女優初の独立プロダクションで当時の人気が伺えます。戦後は化け猫映画などに主演していました。1995年、83才で肺炎のため亡くなりました。
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Author:nao_koba
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