記念写真「極東大会バレーボール優勝」

バレーチーム

 女子バレーボールチームの記念写真です。キャプションははなはだ曖昧で、「極東で優勝した時の記念だと思ふ」と、アルバムに貼った本人も何時の記念か判らなくなっていたようです。女子バレーボールが極東大会で優勝したのは第6回(1923)竹早チームが初めてで、第8回(1927)が神戸第一高女、第9回(1930)が愛知淑徳高女ですので、そのいずれかだと思われます。
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冊子「齋藤商報」(1935)

斎藤栄商會

 1935(昭和10)年10月発行の通信販売用型録雑誌「齋藤商報」秋期特別號(斎藤榮商會発行)です。ハイキングする洋装の男女のイラストがモダンです。内容は楽器、蓄音器、自転車、アパレル、他様々な雑貨が満載です。「限りなく伸ゆく大名古屋優秀の製品金鯱とともに燦然と光る」だそうです。

女優「水戸光子」

水戸光子

 戦前戦後通して活躍した女優の水戸光子(1919-1981)さんです。明るい庶民的な役が多く、以前に紹介した映画「暖流」でもセレブの高峰三枝子の対極に位置する看護婦役が印象的でした。1933(昭和8)年に岡崎市立高女を中退後、熱海でウェイトレスをしていたところを1934(昭和9)年に松竹にスカウトされ、1935(昭和10)年公開の清水宏監督「若旦那 春爛漫」で映画デビューしました。その後非常に沢山の作品に出演しスターとなり、1970年代までコンスタントに出演しています。1981(昭和56)年に62才で亡くなりました。

チラシ「ラヂオは戸毎に」(1934)

ラヂオは戸毎に

 1934(昭和9)年7月に配布された日本放送協会名古屋中央放送局作成のラジオ放送宣伝チラシです。以前に紹介した防空チラシの近畿防空演習について実況中継予告も書いてあります。カツオ君とワカメちゃんを彷彿とさせる兄妹のラジオ体操姿が可愛いですね。当時の一般的な家庭の居間の様子が良く分かる写真です。子供達の服装は随分と涼しそうです。

絵葉書「サロン名画集」

サロン名画集

 サロン名画集なるタイトルの付いた裸婦像の絵画写真のみを集めた絵葉書集です。それぞれの写真には作者と題名が書かれており、一応名画集の体裁は取っていますが、明らかに目的はエロです。「内務省、警視廳、検閲済」の印刷も高らかに昭和初期のエログロナンセンス文化の一端を表しています。タトゥのデザインもいかにも昭和モダンな感じです。

絵葉書「(大名古屋)松坂屋」(1937)

名古屋松坂屋

 名古屋を代表するデパート松坂屋名古屋本店です。1925(大正14)年に栄から現在の大津通沿いに立派な6階建ての鉄筋コンクリートビル(鈴木禎次設計)として移転し、屋号も「いとう呉服店」から全国共通の「松坂屋」に変更されました。最初の創業は1611年ということで老舗中の老舗です。絵葉書の姿は1936(昭和11)年に増改築された後の姿で地上7階地下2階の堂々たる姿です。改装されてしまって大正の建築とは思えませんが、現在も使用されています。大津通沿いのファサードがひずんでいるように見えるのはレンズのせいではなく、大津通の緩やかなカーブに沿ってファサードにもRが付けてあるのが特徴です。

女優「水谷八重子」

水谷八重子

 いわゆる「初代」水谷八重子(1905-1979)さんです。義兄が劇団芸術座の設立メンバーであったため、小学生の頃から舞台に出ており、小山内薫によって見出されて1916(大正5)年には帝劇に出演、1921(大正10)年には畑中蓼坡監督「寒椿」で映画デビューを果たしますが、在学中の雙葉高等女学校の圧力で名前を出せず、「覆面令嬢」という匿名でした。卒業後は新劇、大衆演劇、映画などで大活躍しました。戦後は新派劇を中心に女優活動を行い、1979(昭和54)年に乳がんのため亡くなりました。

絵葉書「世界最新式航空母艦」

空母鳳翔

 世界最初の正規空母(はじめから航空母艦として建造された)として知られる鳳翔の絵葉書ですが、艦名は書いておらず、しかも写真ではなく完成予想図であることから、1922(大正11)年の竣工前後の頃だと思われます。当時の日本海軍はいち早く空母の有用性に目を付けていたようです。ただ飛行機が本当に戦艦の主砲よりも役に立つかどうかは、第二次世界大戦が始まるまで証明できませんでした。この鳳翔は新型の飛行機には対応できず、太平洋戦争末期には戦闘に投入されず、無傷のまま終戦を迎えました。復員船として使用された後、1947(昭和22)年にスクラップとして解体されました。

楽譜「東京音頭」(1933)

東京音頭

 1933(昭和8)年に新興音楽出版社から刊行された「東京音頭」の楽譜です。ピアノ伴奏付きの歌の楽譜と、ハーモニカ譜も付いています。昭和8年10月5日発行、定価20銭です。今の価値にしたら500円ほどですか。中山晋平作曲、西条八十作詞という黄金コンビの東京音頭は同年、小唄勝太郎と三島一声の歌でビクターからレコード化され、爆発的に流行しました。前年に作られた「丸の内音頭」を改作改題した物だそうです。いまだに盆踊りの定番で野球の応援などにも使われ誰もが知っているということは名曲の証なのでしょう。

女優「木暮実千代」

木暮実千代

 戦前はヴァンプ女優、即ち主にコケティッシュで妖艶な悪女役が多かった女優の木暮実千代(1918-1990)さんです。梅光女学院から日本大学芸術学部に入学、1938(昭和13)年に松竹に入社し、翌年公開の「結婚天気図」(蛭川伊勢夫監督)で映画デビューしました。戦後も数々の有名監督の映画に出演し、コマーシャルなどでも親しまれました。1990年に心不全のため72才で亡くなりました。

絵葉書「(大名古屋)廣小路通り」(1937)

名古屋広小路

 松坂屋謹製大名古屋絵葉書より「(大名古屋)廣小路通り」です。1937(昭和12)年頃の写真です。現在の廣小路伏見の交差点の南側から栄方面に向かって広小路通りの金融街を写した物です。手前から横濱正金銀行、中央電話局、三井銀行、住友ビルの順番です。現在残っている建物は三井銀行だけですが、住友ビルもファサードのみ模してあります。なお、この当時はまだ広大な伏見通は存在していません。中央に止まっている市営バスのカラーリングが現在とほぼ同じですね。

絵葉書「ラヂオが拓く新東北JOHK」(1930)

JOHK

 日本放送協会仙台放送局の絵葉書です。消印から1930(昭和5)年の物であると思われます。ラジオの放送内容や聴取者をイメージした様々な写真をコラージュしてあります。日本放送協会仙台放送局は1928(昭和3)年に日本で5番目の放送局として開局し、コールサインはJOHKです。1934(昭和9)年には中央局に昇格しました。

絵葉書「日本航空輸送會社使用のフォッカーF VII型三發動機付八人乗旅客機」

Focker FVII

 日本航空輸送會社使用のフォッカーF VII型三發動機付八人乗旅客機です。日本航空輸送会社は1928(昭和3)年発足の航空会社で、日本の各都市間や日本の勢力圏内の外地との間の航空路を開設し、1938(昭和13)年にはのべ7万人の乗客を運んだ航空会社ですが、同年に大日本航空が国策によって設立されて吸収されました。写真は羽田飛行場と思われますので、本拠地を立川から羽田に移した1931(昭和6)年から消滅する1938年の間の姿です。フォッカーVII型はオランダのフォッカー社が開発して1925(大正14)年に初飛行した三発8人乗りの旅客機です。巡航速度は170km/hなので新幹線よりも遅いですね。

絵葉書「櫻通より新名古屋驛を望む」(1937)

名古屋駅と桜通

 名古屋松坂屋謹製大名古屋絵葉書より、「櫻通より新名古屋驛を望む」です。新名古屋駅と言っても現在の名鉄名古屋駅のことではなく、名古屋駅全体が1937(昭和12)年に現在の位置に移転して駅舎を新築し、同時に桜通等駅周辺を大々的に整備したのです。幅50メートルの立派な道路の正面に近代的な駅舎がそびえています。名古屋は戦後の強引な道路拡張は有名でしたが、戦前から道路整備に力を入れていたのですね。

絵葉書「通信科學展覧會」(1936)

通信科学展覧会

 1936(昭和11)年に京都の丸物百貨店で開かれた「通信科學展覧會」の絵葉書です。郵便ポスト、電話、飛行機、船、電波塔に加えて真ん中にテレビジョンのブラウン管が描かれています。1936年はベルリンオリンピックの年で、ドイツではテレビ放送が始まった年でもあります。おそらく当時の最新技術であったテレビジョンのデモンストレーションが目玉だったのでしょう。宛名面に主催が大阪逓信局、会場が京都駅前「丸物」とあります。丸物は1920年に京都物産館という名前で創業した百貨店で、1931(昭和6)年に丸物百貨店と改名しました。その後、1977(昭和52)年に京都近鉄百貨店となりましたが、2007年閉店し1938(昭和13)年建築の文化財級の重厚なアールデコのビル(渡辺節設計)は取り壊されて跡地にはヨドバシカメラが建っています。

絵葉書「この太陽/中山晋平作曲」(1930)

この太陽

 1930(昭和5)年に公開された日活映画「この太陽」(村田実監督)の主題歌「この太陽」の絵葉書です。作曲は中山晋平氏、作詞は西条八十氏という黄金コンビ、葉書に写っているのは主演の夏川静江さんと峯吟子さんです。原作の牧逸馬氏は林不忘とか谷譲次とか筆名を作風によって使い分けましたが丹下左膳(林不忘名義)の原作者として有名な方です。この主題歌は佐藤千代子さんの歌で日本ビクターよりレコード化(51240-A)されています。

絵葉書「館山海軍航空隊」(1935)

館山空

 館山海軍航空隊の1935(昭和10)年8月30日のスタンプのある絵葉書です。左上から当時最新式の八九式艦上攻撃機、営門と本部、一四式水上偵察機と一五式2号水上偵察機、一五式飛行艇と全て複葉機です。ただ機体は以前の羽布張りから軽金属製への過渡期であることが判ります。このたった数年後に零戦だのB29だのが登場するのですから、恐ろしい進歩の速さです。

女優「霧立のぼる」

女優「霧立のぼる」

 宝塚出身の女優、霧立のぼる(1917-1972)さんです。1930(昭和5)年に青山学院高等女学部を中退して宝塚少女歌劇団に入団、娘役として活躍後、1934(昭和9)年にスカウトされて入江プロ入社、同年に新興キネマ配給の牛原虚彦監督「世紀の青空」で映画デビューしました。新興キネマから1937(昭和12)年にはPCLに移籍、PCLは同年東宝に改組され、さらに戦後は大映に移りましたが1955(昭和30)年に劇団新派に入り、演劇の世界で一座をなしました。1972(昭和47)年に55才で亡くなりました。

オリエンタルニュース(1935)

オリエンタルニュース

 オリエンタル写真工業株式会社が発行していたオリエンタルニュース1935(昭和10)年10月号です。同社は1919(大正8)年創立の日本の会社で現在はサイバーグラフィックス(株)として存続しています。戦前〜戦後にわたり各種フィルム、印画紙、現像薬品などを製造輸入販売していました。現在も印画紙や現像液をオリエンタルブランドで販売しており、またイギリスのイルフォード社の国内総代理店でもあります。戦前はこのような宣伝冊子を各写真店に置いていたようで、内容は広告や写真器材の記事の他に、投稿写真の募集と入選作の発表がありました。オリエンタル写真工業株式会社は1949(昭和24)年に東証一部上場を果たしたほどの会社でしたが、1963(昭和38)年に二部に変更、1995年には会社更生法を適用されましたが、現在は再建済みです。

女優「轟夕起子」

轟夕起子

 宝塚出身の女優、轟夕起子(1917-1967)さんです。1931(昭和6)年、京都府立第二高等女学校を中退して宝塚少女歌劇団に入団し、娘役のトップスターになりました。その後1937(昭和12)年、日活に入社し尾崎純監督「宮本武蔵、地の巻」のお通役にてデビューし、その後も次々と出演してスターになりました。1940(昭和15)年にはマキノ正博監督と結婚し、1942(昭和17)年に映画統制令によって日活が大映に合併されると東宝に移籍し、「ハナ子さん」などヒット作に主演しました。戦後はフリーとなって脇役に転じて映画やテレビに多数出演し、私生活では離婚や結婚を繰り返して話題を振りまいていましたが、1967(昭和42)年急病により49才の若さで亡くなりました。

少女倶楽部付録「女子名選手画報」(1931)

女子名選手画報

 1931(昭和6)年の雑誌少女倶楽部6月号付録「女子名選手画報」です。リバーシブルになっており、裏は「新型手芸大アルバム」でこちらはカラー印刷ですので、メインはそっちかもしれません。高等女学校在学生を中心とした日本トップレベルの女子選手が写真で紹介されています。ベルリンオリンピック(1936)で金メダルを取る前畑秀子さんも椙山高女所属として紹介されています。また、上記一番左は当時世界記録をいくつも打ち立てていた人見絹枝さんですが、この年に肺炎で24才の若さで亡くなってしまいます。

「コロムビア蓄音器型録」(1934)

コロムビア

 1934(昭和9)年版のコロムビア蓄音器型録です。当時、株式会社日本蓄音器商会は米国コロムビアレコード社と提携関係にあり、コロムビアレーベルのレコードや同ブランドの蓄音器を輸入、製造、販売していました。型録によると蓄音器の定価が一番安いポータブル蓄音器が35円、最も高価なフロアー型が350円ですので、現在の価値に換算すると約7万円〜70万円となります。フロアー型はゼンマイ式か電気式を選べるようになっており、電気モーターの蓄音器が普及し始めた頃の物のようです。ただ音響は全て振動板を使ったサウンドボックスを使用しており、電気を使った増幅装置を使用していません。

チラシ「燈火管制:合同電氣株式會社」(1934)

防空

 1934(昭和9)年7月26日から三日間にわたり関西地区で行われた防空演習のための燈火管制手引きのチラシです。この演習は二府六県の近畿住民千二百万人を動員して史上空前の規模で行われました。陸海軍をあげて、従来の演習では除外されていた燈火管制、海上警備、軍需工業動員、工場防空、重要地区建物の偽装まで実戦さながらに行われたそうです。たった11年後に現実になるとは訓練に参加した人は思いもしなかったことでしょうが。なお合同電気株式会社というのは1930(昭和5)年から1937(昭和12)年まで存在した三重、和歌山、徳島に電気を供給した電力会社で、1937年に東邦電力に合併されました。

「ラヂオ案内」日本放送協會東海支部(1932)

JOCK

 1932(昭和7)年に発行された社團法人日本放送協會東海支部の「ラヂオ案内」です。当時東海支部は名古屋放送局のJOCKと金澤放送局のJOJKの二局を管轄していました。名古屋放送局は1925(大正14)年に放送を開始し、このチラシの翌年、1933(昭和8)年には第二放送局も放送開始します。チラシによるラジオ受信機の値段は5円の鉱石式から40円の4球式までくらいで、今の価値にすると1万円〜8万円程度ということになりましょうか、かなり手頃な値段になってきていると思います。聴取料も取られますが、一日2時間聴取するとして、本にすると1800ページ/月、蓄音機のレコードで1500枚/月になってお得ですよ、とチラシに書いてあります。「ラヂオ加入の好機/受信機の價格低廉!/放送設備の完璧!/放送内容の充實!/加入者奉仕の陣容完備!」

チラシ「櫻井潔と其楽團」(1940)

桜井潔

 大阪の梅田映画劇場で開催された「桜井潔と其楽団」演奏会のチラシです。同時封切りする映画の題名から、これが1940(昭和15)年11月6日〜12日に上演されていることが判ります。桜井潔さんは戦前戦後を通して人気のあったバイオリン奏者でタンゴの日本への導入を積極的に行ってきました。様々な日本の歌をタンゴ風にアレンジしたりしてダンスホールなどで演奏していました。この年は国によって全てのダンスホールが閉鎖されたため、このような楽団は映画館などの演奏会などで糊口を凌ぐか、規制の緩かった大陸に向かうかしかなかったようです。取って付けた様な標語がついていますが、日米開戦前なので曲目にはまだ戦時色は少ないようです。

女優「川崎弘子」

川崎弘子

 哀愁のある美人女優として主に戦前に活躍した川崎弘子(1912-1976)さんです。川崎大師の近くで生まれたので川崎大師と弘法大師で芸名が「川崎弘子」なのだそうです。1929(昭和4)年に松竹にスカウトされ、清水宏監督「ステッキガール」で映画デビュー、トップスターになりました。主に薄幸な女性や陰のある女性役がハマっていました。ところが1935(昭和10)年に素行に問題がある音楽家の福田蘭童(1905-1976)氏(画家の青木繁氏の息子!)とスキャンダラスな結婚をし人気が急落しましたが、その後もヒット作に恵まれトップスターのままでした。しかし1940年代から病気がちになり戦後はあまり映画に出演できませんでした。1958(昭和33)年に完全引退、1976(昭和51)年に肝硬変のため亡くなりました。

広告「日本電氣株式會社」

日本電気

 日本の大手電機メーカーである日本電気(株)の広告カードです。厚紙に印刷された物ですが、目的は判りません。電話交換機、2号3号自動電話器などがデザインされています。本社の所在地は芝區三田四國町とありますので、現在の位置(港区芝5丁目)と同じだと思われます。時期は3号自動電話機が上市される1933(昭和8)年以降、住友傘下になる日米開戦前までの間です。

絵葉書「(大横濱名所)市街全景」(1935)

横浜パノラマ

 横浜土産のパノラマ絵葉書(二枚綴り)「(大横濱名所)市街全景」です。細かく見ていきますと、1935(昭和10)年開催の横浜大博覧会ののぼりがあることから、その頃であると思われます。正面の通りの奥に生糸検査所、その手前に正金銀行(現在の県立博物館)の建物が見えることから、関内の吉田橋のたもとに1930(昭和5)年に建設された松屋の屋上から、馬車道を撮影した物であることが判ります。右端に横浜三塔:ジャック=開港記念館(1917)、クィーン=横浜税関(1934)、キング=神奈川県庁(1928)が見えます。右側の大通り=関内大通りに路面電車は走っていますが、自動車の姿が全く見えません。歩行者と自転車とリヤカーが車道一杯に通行しています。10年前は震災で焼け野原、10年後にも空襲で焼け野原になってしまう束の間の風景です。

映画「太陽の子」宣伝葉書「明治の罐詰」広告付き(1938)

太陽の子

 1938(昭和13)年公開の東宝映画、「太陽の子」(阿部豊監督)の宣伝葉書です。あらすじは、感化院の院長に生涯をかけた樫戸(大日方伝)は38才にしてやっと家庭を持ったが、妻の正子(逢初夢子)は結婚二ヵ月笑顔一つみせず自殺未遂事件を起こす...というところです。阿部豊(1895-1977)監督は1912(大正元)年に渡米し、ハリウッドで俳優として働き、演出術も学びました。その後1925(大正14)年に帰国して日活に入社し、ハリウッド流のコメディーを沢山監督し、その後東宝に移り戦中は国策映画を多数監督しました。戦後は新東宝などで監督やプロデューサーとして活躍しました。下半分は明治製菓の缶詰の広告になっています。「明治の罐詰/便利で經濟的な味の人氣もの!/明治製菓株式會社」

「帝國ホテル東京」パンフレット

帝国ホテル

 帝国ホテルのパンフレットです。現在、愛知県の明治村にファサードとホールだけが保存されている、有名なフランク・ロイド・ライト氏設計のホテルです。1923(大正12)年の竣工直後、関東大震災が発生しましたがそれに耐え、戦災にも耐えましたが、1967(昭和42)年に取り壊されました。このパンフレットなのですが、社長名が犬丸徹三氏となっている事から、1945年2月〜1970年という事になるのですが、中身は全て旧字旧仮名遣いで横書きも右から左と戦前風なのです。戦後は1945〜1950年の間はGHQに接収されていた関係から、接収解除直後の昭和20年代後半の物でしょうか。
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