冊子「齋藤商報」(1935)
女優「水戸光子」
チラシ「ラヂオは戸毎に」(1934)
絵葉書「サロン名画集」
絵葉書「(大名古屋)松坂屋」(1937)
女優「水谷八重子」
絵葉書「世界最新式航空母艦」
楽譜「東京音頭」(1933)
女優「木暮実千代」
絵葉書「(大名古屋)廣小路通り」(1937)
絵葉書「ラヂオが拓く新東北JOHK」(1930)
絵葉書「日本航空輸送會社使用のフォッカーF VII型三發動機付八人乗旅客機」
絵葉書「櫻通より新名古屋驛を望む」(1937)
絵葉書「通信科學展覧會」(1936)

1936(昭和11)年に京都の丸物百貨店で開かれた「通信科學展覧會」の絵葉書です。郵便ポスト、電話、飛行機、船、電波塔に加えて真ん中にテレビジョンのブラウン管が描かれています。1936年はベルリンオリンピックの年で、ドイツではテレビ放送が始まった年でもあります。おそらく当時の最新技術であったテレビジョンのデモンストレーションが目玉だったのでしょう。宛名面に主催が大阪逓信局、会場が京都駅前「丸物」とあります。丸物は1920年に京都物産館という名前で創業した百貨店で、1931(昭和6)年に丸物百貨店と改名しました。その後、1977(昭和52)年に京都近鉄百貨店となりましたが、2007年閉店し1938(昭和13)年建築の文化財級の重厚なアールデコのビル(渡辺節設計)は取り壊されて跡地にはヨドバシカメラが建っています。
絵葉書「この太陽/中山晋平作曲」(1930)
絵葉書「館山海軍航空隊」(1935)
女優「霧立のぼる」
オリエンタルニュース(1935)

オリエンタル写真工業株式会社が発行していたオリエンタルニュース1935(昭和10)年10月号です。同社は1919(大正8)年創立の日本の会社で現在はサイバーグラフィックス(株)として存続しています。戦前〜戦後にわたり各種フィルム、印画紙、現像薬品などを製造輸入販売していました。現在も印画紙や現像液をオリエンタルブランドで販売しており、またイギリスのイルフォード社の国内総代理店でもあります。戦前はこのような宣伝冊子を各写真店に置いていたようで、内容は広告や写真器材の記事の他に、投稿写真の募集と入選作の発表がありました。オリエンタル写真工業株式会社は1949(昭和24)年に東証一部上場を果たしたほどの会社でしたが、1963(昭和38)年に二部に変更、1995年には会社更生法を適用されましたが、現在は再建済みです。
女優「轟夕起子」

宝塚出身の女優、轟夕起子(1917-1967)さんです。1931(昭和6)年、京都府立第二高等女学校を中退して宝塚少女歌劇団に入団し、娘役のトップスターになりました。その後1937(昭和12)年、日活に入社し尾崎純監督「宮本武蔵、地の巻」のお通役にてデビューし、その後も次々と出演してスターになりました。1940(昭和15)年にはマキノ正博監督と結婚し、1942(昭和17)年に映画統制令によって日活が大映に合併されると東宝に移籍し、「ハナ子さん」などヒット作に主演しました。戦後はフリーとなって脇役に転じて映画やテレビに多数出演し、私生活では離婚や結婚を繰り返して話題を振りまいていましたが、1967(昭和42)年急病により49才の若さで亡くなりました。
少女倶楽部付録「女子名選手画報」(1931)
「コロムビア蓄音器型録」(1934)
チラシ「燈火管制:合同電氣株式會社」(1934)
「ラヂオ案内」日本放送協會東海支部(1932)

1932(昭和7)年に発行された社團法人日本放送協會東海支部の「ラヂオ案内」です。当時東海支部は名古屋放送局のJOCKと金澤放送局のJOJKの二局を管轄していました。名古屋放送局は1925(大正14)年に放送を開始し、このチラシの翌年、1933(昭和8)年には第二放送局も放送開始します。チラシによるラジオ受信機の値段は5円の鉱石式から40円の4球式までくらいで、今の価値にすると1万円〜8万円程度ということになりましょうか、かなり手頃な値段になってきていると思います。聴取料も取られますが、一日2時間聴取するとして、本にすると1800ページ/月、蓄音機のレコードで1500枚/月になってお得ですよ、とチラシに書いてあります。「ラヂオ加入の好機/受信機の價格低廉!/放送設備の完璧!/放送内容の充實!/加入者奉仕の陣容完備!」
チラシ「櫻井潔と其楽團」(1940)

大阪の梅田映画劇場で開催された「桜井潔と其楽団」演奏会のチラシです。同時封切りする映画の題名から、これが1940(昭和15)年11月6日〜12日に上演されていることが判ります。桜井潔さんは戦前戦後を通して人気のあったバイオリン奏者でタンゴの日本への導入を積極的に行ってきました。様々な日本の歌をタンゴ風にアレンジしたりしてダンスホールなどで演奏していました。この年は国によって全てのダンスホールが閉鎖されたため、このような楽団は映画館などの演奏会などで糊口を凌ぐか、規制の緩かった大陸に向かうかしかなかったようです。取って付けた様な標語がついていますが、日米開戦前なので曲目にはまだ戦時色は少ないようです。
女優「川崎弘子」

哀愁のある美人女優として主に戦前に活躍した川崎弘子(1912-1976)さんです。川崎大師の近くで生まれたので川崎大師と弘法大師で芸名が「川崎弘子」なのだそうです。1929(昭和4)年に松竹にスカウトされ、清水宏監督「ステッキガール」で映画デビュー、トップスターになりました。主に薄幸な女性や陰のある女性役がハマっていました。ところが1935(昭和10)年に素行に問題がある音楽家の福田蘭童(1905-1976)氏(画家の青木繁氏の息子!)とスキャンダラスな結婚をし人気が急落しましたが、その後もヒット作に恵まれトップスターのままでした。しかし1940年代から病気がちになり戦後はあまり映画に出演できませんでした。1958(昭和33)年に完全引退、1976(昭和51)年に肝硬変のため亡くなりました。
広告「日本電氣株式會社」
絵葉書「(大横濱名所)市街全景」(1935)

横浜土産のパノラマ絵葉書(二枚綴り)「(大横濱名所)市街全景」です。細かく見ていきますと、1935(昭和10)年開催の横浜大博覧会ののぼりがあることから、その頃であると思われます。正面の通りの奥に生糸検査所、その手前に正金銀行(現在の県立博物館)の建物が見えることから、関内の吉田橋のたもとに1930(昭和5)年に建設された松屋の屋上から、馬車道を撮影した物であることが判ります。右端に横浜三塔:ジャック=開港記念館(1917)、クィーン=横浜税関(1934)、キング=神奈川県庁(1928)が見えます。右側の大通り=関内大通りに路面電車は走っていますが、自動車の姿が全く見えません。歩行者と自転車とリヤカーが車道一杯に通行しています。10年前は震災で焼け野原、10年後にも空襲で焼け野原になってしまう束の間の風景です。
映画「太陽の子」宣伝葉書「明治の罐詰」広告付き(1938)

1938(昭和13)年公開の東宝映画、「太陽の子」(阿部豊監督)の宣伝葉書です。あらすじは、感化院の院長に生涯をかけた樫戸(大日方伝)は38才にしてやっと家庭を持ったが、妻の正子(逢初夢子)は結婚二ヵ月笑顔一つみせず自殺未遂事件を起こす...というところです。阿部豊(1895-1977)監督は1912(大正元)年に渡米し、ハリウッドで俳優として働き、演出術も学びました。その後1925(大正14)年に帰国して日活に入社し、ハリウッド流のコメディーを沢山監督し、その後東宝に移り戦中は国策映画を多数監督しました。戦後は新東宝などで監督やプロデューサーとして活躍しました。下半分は明治製菓の缶詰の広告になっています。「明治の罐詰/便利で經濟的な味の人氣もの!/明治製菓株式會社」