「ビクターレコード六月邦樂新譜」(1935)

ビクター

 日本ビクター蓄音機株式会社の1935(昭和10)年「オルソフォニック ビクターレコード六月邦楽新譜」パンフレットです。表紙は若き日の渡辺はま子(1910-1999)さんです。渡辺はま子さんは1933(昭和8)年に武蔵野音楽学校卒業後、私立横浜高等女学校(原節子さんの出身校!おそらく在学中!)で音楽教師をしながらビクターからレコードデビューしましたが、そのことが問題になって教師を辞め、この頃は専業の歌手でした。その後懐メロ(当時の最新歌謡ですが)の女王として日本歌謡界に大きな足跡を残しました。このパンフレットの新譜一覧には他に小林千代子、藤山一郎、千葉早智子、小唄勝太郎、ヘレン隅田などの名前が見られます。
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女優「原節子」

原節子

 日本映画の歴史において、おそらく最高の人気を誇る女優の原節子(1920-)さんです。原節子さんと言えば戦後日本映画を代表する女優さんですが、戦前戦中も人気スターでした。原さんは1935(昭和10)年、私立横浜高等女学校在学中、家庭の事情と義兄の熊谷久虎監督の勧めもあって中退して日活に入社、田口哲監督「ためらうこと勿れ若人よ」でデビューしました。1936(昭和11)年、山中貞雄監督「河内山宗俊」撮影中に、ドイツのアーノルド・ファング監督に認められ、1937(昭和12)年公開の日独合作映画「新しき土」のヒロインに抜擢されました。同年東宝に移籍し多くの映画に出演、戦後フリーになってからは押しも押されもせぬ大女優となりました。しかし1963(昭和38)年の小津安二郎監督の死以降、公の場所には一切出ない隠遁生活を送り、今に至っています。

絵葉書「東京日日新聞社」

東京日日新聞

 1922(大正11)年に有楽町に完成した東京日日新聞社(毎日新聞の前身)の社屋です。遠藤於菟の設計による鉄筋コンクリートの近代的な建物でした。ちなみに戦前は朝日も読売も毎日も有楽町に社屋がありました。キャプションに「帝都の一大新聞=『東京日日新聞社』社屋全景=新聞界の尖端を往く」とあります。壁には電光ニュースがまたたき、大量の配送トラックをずらりと備え、空には社有機と伝書鳩を飛ばしています。携帯電話もネットもなかった戦前は伝書鳩も新聞社にとって重要な通信手段でした。電光ニュースの歴史は意外に古く、日本では1928(昭和3)年に朝日新聞社の社屋に取り付けられた物が最初だそうです。この後1938(昭和13)年に、手前の空き地の様なところに8階建ての新社屋が建設されます。1943(昭和18)年に戦時統制により大阪毎日新聞社と合同し、毎日新聞社となりました。この社屋と新社屋と隣接する1916(大正5)年竣工の旧社屋は共に戦災を生き延び、1966(昭和41)年に竹橋に移るまで使われていましたが、1967(昭和42)年に新有楽町ビル建設のため解体されました。

女優「三浦光子」

三浦光子

 戦前戦後を通して活躍した女優の三浦光子(1917-1969)さんです。大妻技芸女学校を卒業後、1936(昭和11)年に日劇ダンシングチームの1期生としてデビュー、1938(昭和13)年に松竹にスカウトされ佐々木康監督「蛍の光」で映画界入りしました。その後、脇役が中心ですが、清水宏監督「按摩と女」「信子」や一大ブームとなった野村浩将監督「愛染かつら」など多くの作品に出演しました。戦後になって大映を経てフリーになり、結婚した後は娘役を卒業して映画やテレビドラマなど多くの作品に出演しましたが、1969(昭和44)年に52才の若さで亡くなりました。

絵葉書「松屋呉服店」

銀座松屋

 東京土産の絵葉書より、「(大東京)松屋呉服店」です。1925(大正14)年に銀座に進出、開店しました。巨大な店舗、豪華な内装、大吹き抜けと当時の話題をさらいました。改装が続いて面影はありませんが現在もこの建物を使っています。銀座への百貨店進出は松坂屋が1924(大正13)年、三越が1930(昭和5)年と震災後は出店ラッシュが続き、相乗効果で銀座一帯は一大ショッピングスポットとなりました。日本橋の百貨店群に押されていた銀座の専門店街も息を吹き返し、現在に至ります。

「海水浴 房總常磐方面」東京鐵道局(1929)

房総方面海水浴

 1929(昭和4)年7月に発行された東京鉄道局の房総常磐方面海水浴パンフレットです。総武線の始発がまだ両国橋(現在の両国駅)なので、千葉方面には市電などで隅田川を越えないと行けませんでしたが、3年後には御茶の水まで開通することになります。稲毛や千葉市の海水浴場も健在で、千葉海岸海水浴場は海の家や旅館の斡旋まで市役所がやってくれるそうです。この年は昭和金融恐慌と世界恐慌の狭間で大変な世相だったと思うのですが、パンフレットは呑気なものです。

「横濱 夏」横濱市土地觀光課發行(1938)

横浜・夏

 1938(昭和13)年夏向けの横浜市土地観光課発行のパンフレット「横浜 夏」です。表は水着の女性、裏は弘明寺公園の朝で、中は港や海水浴など様々な観光案内になっているパンフレットです。港や異国情緒はともかく、当時の横浜は一大海水浴スポットだったようです。ちなみに中で横浜に関する歌の歌詞が紹介されていますが、現在も有名な歌はありませんでした。

谷崎潤一郎著「痴人の愛」(1925)

痴人の愛

 1925(大正14)年に改造社から発行された、谷崎潤一郎著「痴人の愛」です。現在の東工大を出て大手電機会社の技術者である28才の河合譲治氏は15才のカフェー女給見習いの奈緒美を引き取り、立派な女性に育てようとしますが、いつしか主従逆転し、奔放なナオミにジョージ氏は翻弄されるようになります。浅草のカフェー、大森の画家のアトリエだった文化住宅、銀座のダンスホール、鎌倉の別荘、横浜の洋館と昭和モダン(大正ですが)の舞台は揃っています。谷崎氏の耽美主義の代表作ですが、何とモデルがいる私小説だそうで、ナオミのモデルは谷崎氏の妻の妹なのだそうです。これは今読んでもあまり古さを感じませんし、当時なら一大センセーションを巻き起こしたことでしょう。

絵葉書「東京放送局」

JOAK

 東京土産の絵葉書より「(大東京)東京放送局」です。山手線の内側で人工物ではない最高峰と言われる愛宕山(標高26m)の山頂にあり、現在はNHK放送博物館となっております。1925年のラジオ放送の開始はここから行われました。戦後、テレビ放送が始まり、東京タワーが建設され、渋谷にNHK放送センターができるとともに役目を終え、1956年に放送博物館が開館しました。ちなみにこの建物は1968年に取り壊され、現在の建物に建て替えられています。

少女の友繪葉書「雲」「砂」(中原淳一画, 1934)

中原淳一

 少女向けの雑誌「少女の友」の読者向け絵葉書より中原淳一(1915-1983)さんの1934(昭和9)年のサインのある絵葉書「雲」「砂」です。中原さんは1932(昭和7)年に銀座松屋で行った自作の西洋人形の個展が注目され、同年「少女の友」誌にデビューし、またたくまに人気抒情画家となりました。写真の物は比較的初期の作品で、まだ目がそれほど大きくありませんが、戦後の目の大きな少女漫画の画風を確立した人とも言われています。中原氏はイラストだけではなくファッション等の記事も精力的に書いており、軍部の圧力で筆を折るまでは戦前の少女達にカリスマ的な人気を保っていました。軍部の圧力から開放された戦後は、さらに自分で雑誌を創刊したりファッションリーダーとしての先頭に立ちました。戦前当時、まだ洋装に不慣れだった女性達に易しくコーディネートを解説し、理想的な女性のスタイル画を掲載し、戦後の様々な女性クリエイター達にも深い影響を残しました。

女優「逢初夢子」

逢初夢子

 女優の逢初夢子(1915-)さんです。1930(昭和5)年に松竹楽劇部(後の松竹少女歌劇団)に入社、1932(昭和7)年に映画に転向し「蝕める春」でデビュー、1934(昭和9)年に島津保次郎監督「隣の八重ちゃん」に初主演し、スターになりました。写真の右側は1934年の佐々木恒次郎監督「凱歌の蔭に」のスチルで、左側は大映時代(1942-6)のブロマイドです。ちなみに1942(昭和17)年にベルリンオリンピック金メダリストの遊佐氏と結婚しました。戦後は松竹に戻り吉村公三郎監督「安城家の舞踏会」等に出演しました。

絵葉書「帝國劇場」

帝国劇場

 東京土産の絵葉書より「(大東京)帝國劇場」です。現在の建物と同じ日比谷通り沿いに横河民舗氏の設計により1911(明治44年)に竣工しました。「今日は帝劇、明日は三越」のキャッチコピー通り、震災前は両方ともネオルネッサンス様式の壮麗な建物でした。帝国劇場の方は、関東大震災で内部が焼失しましたが、横川氏自身により外壁の意匠をそのままに再建されました。この絵葉書は1930(昭和5)年に経営が松竹に移った頃の姿だと思われます。その後経営は1940(昭和15)年に東宝に移り現在に至っています。建物は1964(昭和39)年に取り壊され、1966年に現在の谷口吉郎氏設計の建物になりました。

チラシ「ハッピーカメラ」(浅沼商會)

ハッピーカメラ

 浅沼商会の大名刺(6x9cm)版乾板カメラ、ハッピーカメラのチラシです。年代は同様の広告がアサヒカメラなどに出ているため、1930年代と思われます。シャッター(クラウン)もレンズ(コロナ)も日本製という当時としては珍しい純国産カメラです。当時例えばレンズはツァイス、シャッターはコンパーなど、肝心な部品はドイツ製という国産カメラもありました。乾板ハンドカメラという形態自体すでに廃れつつあったのですが。

女優「朝霧鏡子」

朝霧鏡子

 女優の朝霧鏡子(1921-1999)さんです。朝霧さんは1933(昭和8)年に小学校卒業後、松竹少女歌劇学校に一期生として入学(以前紹介したニュース写真に写っているかも)、数々の舞台をこなした後、1940(昭和15)年に退団し映画に転身、1950(昭和25)年にシミ金こと喜劇俳優の清水金一さんと映画競演をきっかけに結婚し引退しました。1999年に肝臓がんのため78才で亡くなりました。写真は映画デビュー二作目の大庭秀雄監督「秘めたる心」(1940)よりまだ19才の初々しいスチル写真です。

絵葉書「神田須田町廣瀬中佐銅像」

神田須田町

 東京土産の絵葉書から「(大東京)神田須田町廣瀬中佐銅像」です。日露戦争の英雄、広瀬中佐と杉野兵曹の銅像ですが、ここは元甲武鉄道のターミナル駅である万世橋駅前でもあります。万世橋駅は壮麗な赤煉瓦駅舎だったのですが、関東大震災で焼失したため、一部を再利用して1930(昭和5)年に再建されました。しかし中央線は既に東京駅まで開通しており、万世橋駅はターミナルの性質を失ってしまい、早くも1935(昭和10)年には取り壊されて跡地にインターナショナルスタイルの交通博物館が建設されました。駅そのものは改札口とホームだけの小さな駅として残っていましたが、太平洋戦争中に休止、そのまま廃止されました。絵葉書は応急再建された二代目駅舎が完成していることから1930年代前半であると思われます。また奥に総武線の高架も見えないようですので、1932年以前だと思われます。手動式の交通信号やボンネット型バスや蜘蛛の巣のように張られた東京市電の架線が当時の雰囲気を伝えています。

「幻のモダニスト/写真家堀野正雄の世界」展(東京都写真美術館)

堀野正雄の世界展

 恵比寿の東京都写真美術館で開催されている「幻のモダニスト/写真家堀野正雄展」に行って参りました。以前写真集の紹介でも触れましたが、戦後写真家として活動しなかったので「幻の」と付けられてしまいましたが、戦前は有名写真家でした。写真そのもの、特に女性のポートレートで有名でしたが、機械美や人工美のような構成を切り取るパイオニアでもありました(工場萌えの元祖?)。また雑誌記事などに写真をコラージュ的に貼り込み、意味深なコピーを付けることによって、社会派ドキュメンタリー的な作品も共作で沢山残しています。とてもモダンでレトロさを感じさせない素晴らしい作品群でした。同時開催のドアノー展とベアト展も大変興味深かったのですが、この三人は写真家として目指すところが全く違っているように見えました。

チラシ「マツダランプ/マツダ眞空管」(1936)

東芝

 マツダランプ、マツダ真空管のチラシです。マツダと言ってもこれは東芝のブランドで、火の神「アフラ・マツダ」よりとったとか。チラシに「来るべきオリンピック」とあるのは1936(昭和11)年の「前畑頑張れ」で有名なベルリンオリンピックのことでしょう。チラシの文面です。
「◆お子達の學業成績が明視スタンドの有無で上下することが判ります/一ツの電球で三段に變燭自由のマツダ明視スタンドを/來るべき/◎野球シーズン/◎オリンピック/目前に見る様なラヂオの御用意を//喜色満面!!/たのしさは−/マツダ眞空管で/聴くラヂオ(普及會生る)/うれしさは−/マツダランプで/讀む御本/完璧!/マツダ/の凱歌」

絵葉書「三越呉服店」

日本橋三越

 東京土産の絵葉書より、「(大東京)三越呉服店」です。現在の日本橋三越本店です。これは関東大震災から立ち直った1935(昭和10)年以降の姿ですが、商号は1928(昭和3)年に株式会社三越に変わっていますので、絵葉書のキャプションは古い呼び方です。この建物は現在でもほぼ変わらない姿を見ることができますね。「今日は帝劇、明日は三越」という秀逸なキャッチコピー(1913)を帝劇のプログラムに掲載したことで有名で、東京のシンボルとなりました。

雑誌「レコード音樂」(1935)

レコード音楽誌

 「レコード音樂」誌、1935(昭和10)年3月号です。戦前のクラシック音楽のレコード雑誌はこのレコード音樂と「ディスク」誌の二大体制でした。レコード音楽誌は神田神保町にあったレコード店「名曲堂」からの出版で、1927(昭和2)年の創刊です。内容はレコードの発売予定から、新着レコードの録音評、様々な音楽に関する記事等からなっており、構成は現代の「レコード芸術」誌と良く似ています。執筆者には「あらえびす」氏(作家の野村胡堂氏のPN)をはじめ当時の一流の音楽評論家や音楽学者が揃っています。雑誌名の外国語表記がフランス語になっているところに気負いを感じます。この号は大バッハ生誕250年記念特集ということでバッハに関する記事がたくさんあり、推薦レコード、音楽史解説、代表的な演奏者の紹介などですが、バッハでも当時はまだ有名曲でも録音がない物が多々あったのですね。

日活映画「東京祭」のチラシ(1933)

東京祭

 1933(昭和8)年公開の日活映画「東京祭」のチラシです。写っている俳優さんは主演の鈴木伝明さんと夏川静江さんです。監督は牛原虚彦(1897-1985)さんでハリウッドで修行しサイレント時代は松竹で多くのヒット作品をこの鈴木伝明さん主演で撮りました。この作品は監督がトーキーを研究するために渡米し、帰朝後日活移籍第一作であるはずですが、どういう映画なのか詳しい情報はわかりません。その後監督は新興キネマ、大映と移り、戦後は後進の指導が中心になりました。惹句が面白いので採録しておきます。
「これは七彩のネオンに輝く大きなメリー・ゴー・ラウンドだ。涙と微笑とロマンスを乗せた大きなメリー・ゴー・ラウンドだ!/おゝ!メリー・ゴー・ラウンドは廻り出した!」

絵葉書「東京海上保險ビルデイング」

東京海上ビル

 東京土産の絵葉書から「(帝都名所)東京海上保險ビルデイング」です。日比谷通り沿いに1918(大正7)年に竣工しましたので、以前に紹介した丸ビルより5年以上古い近代オフィスビルの先駆けです。周りのビルはまだ低層の赤煉瓦ばかりで一丁ロンドンに急遽出現したニューヨークの観を呈しています。このビルは1966(昭和41)年に早くも取り壊されてしまうのですが、建て替えるビルが丸の内初の高層ビルということで大騒動になり、建築許可の取り消しやらなにやら天皇陛下の「迷惑ではない」というお言葉やら(皇居を見下ろすことが問題とされた)現在の東京海上ビルが建つまで紆余曲折ありました。現在は周りの高層ビルと並んでしまって目立ちませんが。

「湘南便覧」(1931)

湘南便覧

 1931(昭和6)年に発行された湘南のガイドブックです。と言っても、現在の湘南とは地域が大分違います。ここで言う湘南は「湘南電鉄」即ち現在の京浜急行横浜以南の沿線地域ということになります。これは沿線自治体と湘南電鉄がタイアップしたガイドブックで、湘南電鉄の各駅毎に観光名所や名物や旅館やタクシーなど情報満載です。奥付けの後援者には沿線市町村長を始めとしたお歴々のお名前が見うけられます。右写真下の「乗り心地の良い明るい感じの湘南電車」の人たちが、いかにもなモデルです。東海道線が湘南電車と言われるようになるのは戦後のことですから、当時の言い方は「湘南電車」は湘南電鉄、東海道線の電車は「省線電車」ですね。

吉村公三郎監督「暖流」(1939)

暖流

 吉村公三郎(1911-2000)監督の松竹映画「暖流」です。岸田國士(1890-1954)氏作の1938(昭和13)年に朝日新聞に連載された小説「暖流」を原作に1939(昭和14)年に映画化されました。なお、この原作は戦後二回リメークされ、テレビドラマでも沢山リメークされています。経営難に陥った病院を再建するように頼まれた佐分利信(左の枠内の人物)が強引な手法で、病院長の娘の高峰三枝子(美しい!)とその婚約者の徳大寺伸(スチル写真のお二人)に反発されつつ、彼がスパイ行為を頼んだ看護婦の水戸光子と高峰三枝子との恋の三角関係とか、昼ドラ版白い巨塔のような映画です。お話は面白いのですが、昭和モダン好きとしては、当時の最新設備を誇る大病院のモダンさ、たびたび相談に使うお茶の水近辺の喫茶店の様子とか、鎌倉山の別荘とか、そういう着眼点は多々あります。ちなみに吉村監督は例えば戦後に「安城家の舞踏会」などの多くの作品のメガホンをとっています。

辻克己著「現代圖案文字大集成」(1934)

図案文字

 大正から昭和にかけて活動したグラフィックデザイナー辻克己(1892-1982)さんの「現代圖案文字大集成」です。浩文社から1934(昭和9)年に発行され、写真は1939(昭和14)年の第8版です。300ページ以上にわたってデザイン文字が一文の説明もなくならべられており、大変興味深いです。当時としては「現代」の最先端デザインだったのですね。

絵葉書「地下鐵道」

地下鉄

 東京土産の絵葉書から、「(大東京)地下鐵道」です。今の東京メトロ銀座線になります。1927(昭和2)年に上野-浅草間で運転を開始しました。当時のキャッチコピーは「東洋唯一の地下鉄道」ということで、アジア・オセアニア地区では始めての地下鉄になります。モダン都市東京の面目躍如たるインフラです。写真の電車は茶色っぽく着色されていますが、当時の記録によると明るいレモンイエローだったということで絵葉書を着色した人が本物をあまり見ていなかったのかもしれません。

女優「高杉早苗」

高杉早苗

 戦前、戦後に活躍した映画女優の高杉早苗(1918-1995)さんです。浅草生まれ。1933(昭和8)年、新橋のダンスホールでダンサーをしていた時にミスコンテストで入賞、松竹関係者の目にとまり、同年松竹入社、島津保次郎監督の「隣の八重ちゃん」で主人公の妹役としてデビューし、その後沢山の作品に出演してスターとなりました。しかし人気絶頂の1938(昭和13)年、三代目市川段四郎と結婚し電撃引退しました。戦後に溝口健二監督の映画「夜の女たち」で復帰し、梨園の女房の傍ら多くの映画やテレビに出演し、77歳で心筋梗塞のため亡くなりました。写真は結婚前のまだ10代の頃です。戦後の大姐御みたいな雰囲気とは全く違って可愛いですね。ちなみに俳優の香川照之さんの祖母にあたります。

聯合寫眞「松竹歌劇學校の入學試驗」(1933)

松竹歌劇団

 新聞聯合社(同盟通信社の前身)が1933(昭和8)年に配信した松竹少女歌劇学校第一回入学試験の記事付き写真です。松竹少女歌劇団は戦前は宝塚と並んで人気のある少女歌劇団でした。前年にトップスター水の江滝子を争議団長とする待遇改善の労働争議「桃色争議」があり、珍しく争議団側が勝利して最低賃金や週休制を獲得できました。以下配信記事をそのまま載せます。
「聯合 寫眞 第一號 八年八月六日/◎歌劇學校の入學試驗/− 百二十名から四、五名採用 −/華やかな將來を豫約する松竹少女歌劇學校の第一回入學試驗は六日呼(ママ)前九時から帝劇裏同校三階に於て開始されたが、九時迄に集つた愛(ママ)驗者は十四歳より十七歳迄のお嬢さん約百二十名、試驗官は城戸總務以下矢田貝醫師、青山杉作、青山圭男を始め安井、矢田部、安藤等の各部長に吉川、小倉、西條、津坂の四研究生が加はり數教室に分れて体格檢査、日本舞踊、西洋舞踊、聲樂、演劇、メンタルテスト等の考査を行ひ午后二時試驗を終つた/寫眞は/一、其の試驗」

堀野正雄著「女性美の寫し方」(1938)

女性美の写し方

 戦前に活躍した写真家、堀野正雄(1907-1998)さんの女性ポートレート作例集です。写真毎に撮影時のエッセイと撮影データが書かれています。堀野さんは1927(昭和2)年東京高等工業卒業後、写真家として活動し「新興写真研究会」の主要メンバーでもありました。評論家の板垣鷹穂氏と組んだ機械美に関する写真集「カメラ・眼×鉄・構成」等で特に有名です。戦後はカメラ部品会社の経営に専念しました。この本の出版年は1938(昭和13)年ですが、モダンで溌剌とした女性たちが撮られており、前年に始まった戦争の影は全くありません。現在東京都写真美術館で展覧会「幻のモダニスト写真家堀野正雄の世界」が開催されています。

絵葉書「大東京三十五區」(1932)

大東京35区

 主婦之友1932(昭和7)年9月号付録の絵葉書「大東京三十五區」です。この年に東京市の範囲を都心の15区から当時郡部だった周辺地域にまで広げて35区になりました。この葉書を良く見るとおかしいことに気づきます。千住区、三河島区、寺島区、亀戸区、巣鴨区など存在しない区名が書かれているのです。これはそれぞれ足立区、荒川区、向島区、城東区、豊島区に相当します。また、王子区の下にあるはずの滝野川区がなく、板橋区から練馬区が分れるのは戦後のことなので、この絵葉書の区名は決定前の仮称のままだったのでしょうか。

女優「高峰三枝子」

高峰三枝子

 戦前、戦後を通じて女優や歌手として活躍した高峰三枝子(1918-1990)さんです。東洋英和女学院卒業後、1936(昭和11)年に松竹に入社、同年映画デビューして人気女優になりました。戦前は写真の通りノーブルな上品さが売りで、東京の山手女性言葉、いわゆる「ザアマス弁」を嫌味なく使える珍しい女優さんでした。映画の主題歌や挿入歌のヒットで「歌う映画女優」のジャンルを作った方でもあります。晩年のJRのCMでは上原兼との温泉入浴シーンでイメージと異なる意外な巨乳を披露して衝撃を与えました。
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Author:nao_koba
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